<意志の観念的対象化>は、まずもって

@ <個人主体>(<認識>主体)が、自己の内部的な心的世界で意志を観念的に<対象化=客体化>する(規範の観念的創出)という認識論的レベルで措定され、それを前提に、

A <個人主体>(<表現>主体)が、自らの産んだ<規範>に言語表現形態を与える(規範の現実的表現)ことで、<意志>を<対象化=客観化>するという、表現論レベルで措定される。

 以下、この点を具体的に述べるために、まずマルクス『資本論』を、ついで三浦つとむ『認識と言語の理論』、そして滝村『国家論大綱』に即して、経済学(社会科学)でいう労働の<現実的>な<対象化>と、認識論・言語学(精神科学)における意志の<観念的>な<対象化>、そして、政治学(社会科学)における意志の<観念的>な<対象化>の、それぞれの学的相違を見ていくことにしよう。
 これは、経済学・言語学・政治学で、人間の主体的・実践的な<精神活動>というものが、その学的特殊性に応じて、それぞれどのように理論的に処理されるのか?……という問題でもある。


(1)経済学(社会科学):<労働力>の<現実的・物質的>な「生産的支出」による労働の<対象化=物質化=客体化>(人間主体の外部世界における<物質的実体>の産出)

   マルクスは『資本論第一巻』第三編第五章で、「労働過程」を人間と自然との間の物質的代謝過程として「抽象的に考察」している。
 そこでは、人体が頭と手を分離できぬ一対であるように、「頭の労働と手の労働」が一人の人間労働者に「結合」されたものとして措定され、「肉体的諸力と精神的諸力」の発揮を、労働一般の現実的<対象化>として論じている。
 物的財貨の使用価値対象性と価値対象性の二重性を原理的に周到に腑分けしつつ、いわゆる「肉体労働」「精神労働」の区別などという現象論レベルではなく、労働の<対象化>を、<人間労働力>一般のレベルで議論しているのである。『資本論』の中から、<労働>の<現実的>な<対象化>に関わる文言を引用してみよう。

   「商品は、さしあたり、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充たすところの、一つの外的対象すなわち物である。」(『資本論 第一巻』 長谷部文雄訳 河出書房新社判 35頁)

「…ある使用価値または財がある価値を持つのは、それのうちに抽象的・人間労働が対象化または物質化しているからにほかならない。「同上 38頁)

「それらに(労働諸生産物……引用者注)になお残っているのは、幻影のような同じ対象性にほかならず、無差別な人間的労働力の支出の・単なる凝結にほかならない。これらの物は、もはや、その生産において人間的労働力が支出され、人間労働が堆積されている、ということを表示するにすぎない。これらの物は、それらに共通なこうした社会的実体としては、価値―商品価値である。」(同上)

  「裁縫業と織物業とは、質的に相異なる生産的活動だとはいえ、いずれも、人間の脳髄、筋肉、神経、手、などの生産的支出であり、こうした意味で、いずれも人間的労働である。」(同上 42頁) 

 マルクスは、<労働の対象化>を、人間労働力一般の「生産的支出」による<凝固・結晶・体化>という意味での労働の<対象化=物質化=客体化>として位置づけている。
<対象化=客体化された労働>は、現実的=物質的に産出された労働生産物として外部独立的な<客体>(物質的実体としての事物)であるが故に、人間主体の意識(主観)から独立した現実的=物質的な<対象(物)>として、<対象化=客観化された労働>なのである。
一言でまとめれば、<労働>の<対象化>とは、<労働>の<現実的=物質的>な<客体化―即―客観化>である。
 この<労働>の<現実的=物質的>な<対象化=客体化>というあり方は、いわゆる「肉体労働」だろうが「精神労働」だろうが本質的に同じである。経済学では、「精神的諸力」もまた、人間―自然の物質的代謝過程における人間の<頭脳・精神労働>レベルで位置づけられる(「脳髄」の働きとしての精神活動も「手足」の働きも、同じ人間的労働力一般の支出ということ)。
 これは、経済学というものが、言語学や政治学とは異なり、「精神的諸力」を、感覚・表象・認識・意志・規範という<観念>的諸事象それ自体として、独立的な学的対象として正面に据え、その<観念>の生成―発展を論じるものではない、ということをも意味している。
 すなわち、経済学でいう「精神的諸力」の発揮は、<観念的>な<対象化>としてではなく、<現実>的な<対象化>として措定される。「肉体的諸力」と「精神的諸力」が分かち難い一対の人間的労働力として「支出」され、物的財貨へと現実的=物質的に<堆積・凝結・結晶・体化>するという意味での、<対象化=物質化=客体化>の問題として、措定されているのである。
 たとえば、ストリート詩人が客のリクエストで自作の詩を朗読して投げ銭を貰うような場合(その「商品」の<使用価値>は、生産=朗読されると同時に消費=鑑賞・享受される)を考えてみよう。その生産(朗読)は、朗読<労働>として、土方<労働>と本質的に変わらない。ストリート詩人の<より>「精神労働」的な労働だろうが、土方の<より>「肉体労働的」な労働だろうが、そんなものは使用価値対象性における現象的区別にすぎない。
 もちろん、朗読するミュージシャン(生産者=販売者)は土方と違い、「頭の中」で高度な精神世界を創出し言語表現(朗読)しているわけだが、ここで問題になっているのは、<個人主体>(表現主体)としての詩人と<個人主体>(鑑賞主体)としての観客の関係でもなければ、芸術創造者と鑑賞者の内部的な精神世界における芸術的営みでもない。
  あくまでも、路上の音楽生産者=販売者と、観客=消費者の関係が問題になっているのであって、ストリート詩人の「肉体的諸力」と「精神的諸力」一般が「支出」され、朗読(労働生産物)へと<凝固・凝結・結晶>するという意味で<現実的>に<対象化=物質化=客体化>され、その<生産物>(朗読)は<対象物>(客体)として、<現実的=物質的>に消費されるのである。

(2) 言語学:<意志>の<観念的>な<対象化=固定化=客体化>(個人主体の内部的な心的世界における、<観念的実体>としての規範の創出)

 以上、『資本論』に即して「精神的諸力」の発揮の経済学的な取り扱い方と位置づけを見てきた。
「精神的諸力」を、<頭脳>活動としての精神活動レベル(「人間―自然間の物質的代謝過程」としての物質的生活過程における、生理学的な意味での自然的人間諸力の発揮)で措定するか、それとも<観念>の生成―発展という精神活動レベル(人間が精神的生活過程において生み出す観念的諸力の展開)で措定するかが、人と人の関係が物と物の関係として現れる経済現象を解明する経済学と、<個人主体>の内部的な心的世界を正面に据え言語などの<観念的諸事象>を扱う認識論・言語学や、社会的<諸個人>が不可避的に生み出す<観念的権力>を解明する国家論・政治学の、根本的な相違である。
  まず、認識論・言語学に即して、認識・意志・規範の生成―発展という<観念的>活動レベルを見てみよう。
   言語学では、精神的・観念的活動を理論的に扱う場合、三浦の『認識と言語の理論』が第一部「認識論」第二部「言語論」という構成になっているのを見れば分かるように、なによりも認識論・意志論が基底になる。
 認識論・言語学において諸<観念>(感覚・表象・認識・意志・規範など)を論じる場合、第一のポイントは、<観念>はどんな形態であろうと、人間の「頭の中」にしかないということである。
 <意志>は<認識>の特殊なあり方であり、<認識>は<個人主体>(認識主体)の<内部>(頭の中)にしか存在しない。したがって<意志>(認識)も、それが<生きた>意志であろうが、<対象化された>意志であろうが、<観念的実体>として「頭の中」にしか存在しない。
 また、「禁酒!」のような「自己規律」レベルであろうが、契約のような諸個人間の「約束事・取り決め」レベルであろうが、法律(国家法)のような、有無を言わせず諸個人を遍く共通に規制・拘束する「一般意志」レベルであろうが、規範の存在諸形態の如何に関わりなく、<対象化された意志>は人間主体の「頭の中」にしか存在しない<観念的実体>(観念そのものが「頭の中」で実体化)である。
 この<観念的実体>(規範)を「頭の中」に限定せず、「頭の外」に外部独立的・客体的に存在するものと主張したら、それは観念論である。
 三浦曰く、<規範>は、<個人>(認識・表現主体)の「頭の中」にありながら、「心の中から自分自身に為される命令」(『認識と言語の理論』)である。
認識論・言語学では、禁酒のような「自己規律」であろうが「契約」であろうが、「法」であろうが、それが規範である限り、あくまでも人間<主体>の内部に即して位置づけられる。<規範>が<観念的>に<対象化>された意志というのは、人間<主体>の観念世界の内部で、人間<主体>に対して外部独立的な、観念的な<客体>として固定的・持続的・支配的に立ち現れてくるがゆえに、<観念的>に<対象化=固定化=客体化>された意志なのである。
 たとえば、ある会社の社長Aが、(社内でタバコを吸うな!)という意志を社員全員に伝えるために、「社内全面禁煙」と紙の上にインクで書きそれを貼り出したとする。そして、その貼り紙を読んだ社員B・C・D・E……全員が、実際に社内全面禁煙を遵守しているとしたら、B・C・D・E……は、「社内全面禁煙」という文字言語表現形態の背後に、(社内でタバコ吸うな!)という社長Aの意志=規範を読みとり、自分の「頭の中」に社長Aの<規範>を「複製」し、社長Aの<意志>(社内でタバコ吸うな!)を「自己自身に向けられた心の中の命令」として受容・固定化していることになる。
認識論・言語学(人間・精神科学)は、このような言語(表現)を媒介とするA・B・C・D・E…の<個人主体>(認識・表現主体)の「頭の中」の心的過程を学的解明の対象領域としているのである。

   認識論・言語学において<観念>(認識・意志・規範)を論じる場合、第二のポイントは、<個人主体>(認識・表現主体)の「頭の中」の心的過程を学的解明の対象領域としている以上、「頭の中」での意志の観念的対象化(規範の観念的創出)と、その規範を言語で表現すること(規範の現実的表現)を、論理的に区別しておかなければならないということである。
 人間主体の心的世界で<対象化=固定化=客体化>された意志(規範)が、人間(認識主体)の「頭の中」にとどまることなく、<言語表現>とりわけ「自己の内での命令」という性格に相応しい命令文・命令書という言語形態で現実具体的に表現される。
規範は、言語表現されることで、人間<主体>に対する外部独立的・固定持続的・命令拘束的性格(<客体>性)を、文字通り目に見えるかたちで顕在化させ、人間主体の意識の外側に、<対象化=客観化>(まるで意志が現実の<客体>ででもあるかのように対象化=<客>体として<観>る)しえる「観念的事象」として、立ち現れてくる。
 もちろん、<言語表現>された<規範>の文言は、たとえば、法律書が法規範そのものでないように、<規範>(意志)ではない。紙の上にインクの線を描いた「社内全面禁煙」という張り紙の文言<それ自体>は、<観念的に対象化=固定化=客体化された意志>(規範)ではない。
 ここで再び、経済学(社会科学)の労働の現実的対象化と意志の観念的対象化を比較してみると、労働の現実的対象化では、労働力が現実的=物質的に支出され、労働が物的財貨に<堆積・凝固・結晶・体化>されるという意味で<対象化=客体化>し、<客体>(物的財貨)を<対象的事物>として<対象化=客観化>する(<主体>に対峙する物質的な<客体>を現実に<観>る)。
 これに対して、意志の観念的対象化の場合は、意志が<対象化=客体化>するのはあくまでも「頭の中」だけの話で、「頭の外」で言語表現されたからといって、現実具体的な言語表現形態(たとえば貼り紙に書かれた「社内全面禁煙」の文言)に、<観念>(認識・意志・規範)が<堆積・凝結・結晶・体化>するという意味で<対象化=客体化>しているわけではない。
「頭の中」で規範(意志・認識)を生み出した人間主体Aは、声を出し音を響かせたり、紙にインクの描線を描いたりして、自分の規範(意志・認識)の物質的<模像>(観念的事物)を「頭の外」に創造する。
他の人間主体B・C・D・E……は、その規範(意志・認識)の物質的な<模像>(観念的事物)を、文字通り耳に聞こえ眼に見える対象的事物として<対象化=客観(視)化>(<客>体的対象として<観>る)し、その<模像>の背後にAの認識(規範としての意志)を読みとると、自らの「頭の中」にその意志(規範)の「複製」を観念的に創り出す。こうして、他の人間主体B・C・D・E……は、「自らの心の内なる命令」(『認識と言語の理論』)という<対象化=固定化=客体化された意志>(観念的実体)によって、自らの独自の<生きた>意志を実践的に規制・拘束し続けるのである。
 その場合、「頭の中」の規範(観念的実体)が、まるで「頭の外」に現実に客体化された<かのように>対象化=客観(視)化する(たとえば、王様の御触書をあたかも王様のご意志・ご命令=規範そのものであるとみなす)という、観念の物心崇拝的逆立も起こってくる。
 認識論・言語学は、この言語表現の言霊的フェティシズムをも、<人間主体>(認識・表現主体)の内部的な心的世界にスポットを合わせて解明するのであり、その解明のためにも、人間主体の「頭の中」の「観念(的)実体」(規範)と、「頭の外」の<観念的>事物(言語表現された規範)の論理的次元を、厳密に区別しておかなければならない。
「頭の中」の「観念的実体」(規範)は、<観念そのもの>がまさしく「頭の中」で<実体化>しているというレベルで<観念(的)実体>であるが、言語表現された規範を「頭の外」の「観念的事物」と言う場合は、物質的実体(発せられた音声・書かれた文字という事物)に規範(認識)が投影されている(事物に認識が関係づけられている)というレベルで、<観念的>な事物と規定されるであり、「頭の中」の<観念(的)実体>とは、論理的に区別されなければならないのである。

(3) 国家論・政治学における<意志>の<観念>的<対象化=客観化>(規範の言語表現による<観念的>事物の創造)
   以上、認識論・言語学では、観念的に対象化された意志を、(1)<個人主体>(認識主体)の規範の観念的創出という<認識論>レベルと、(2) <個人主体>(表現主体)の規範の現実的表現という<表現論>レベルを論理的に区別し、<観念的対象化>を<個人主体>(認識主体)の「頭の中」で、「心の中から自分自身に為される命令」(三浦)というレベルで扱う。
 <対象化>された<意志>(規範)は、自己規律であろうが契約であろうが社会的規範であろうが、どこまでいっても人間主体が生み出した<観念>に過ぎない。もっと言えば、<国家>も、しょせんは<観念>的事象なわけで、認識論次元で徹底的に突き詰めれば、人間の「頭の中」の問題である。だからこそ、「われらの心の内なる国家を無化しよう!」(ジミ・ヘンドリックス)というかっこいい芸術的アナキズムが成り立つわけだ。
 しかし、<観念的に対象化された意志>が<個人>(認識主体)の「頭の中」にしかありえないという、厳密な認識論的レベルの視角で、<社会的規範>や政治・国家を扱うと、どういうことになるか?
 たとえば、認識論・言語学的次元で国家意志(国家法としての規範)を扱う場合、「法律は国家の意志という特殊な認識」(『認識と言語の理論 第一部』3頁)というレベルで措定される。
<個人>がその法(規範)を自らの内面にコピーし、その観念的複製を「自らの命令」と受け止めその「命令」に従い法律を守るように自己の実践を規制するという、人間<主体>の内面の精神的プロセスに焦点を合わせる。人間・精神科学とはそういうものである。
 ところが、人間<主体>の内面の精神的プロセスに焦点を合わせて、法律(国家法としての国家意志)を扱うと、どうしても、
“法は、人々がその法を法規範として受容してはじめて法であり、その法を破る者にとって法は法規範たりえない”
という発想が全面的に躍り出かねない。これはちょうど、
“王は、臣下が彼を王と認めその権威を受容しているからこそ王なのであって、臣下が彼の権威を受容しなければ、彼はたちまち王でなくなる”
というラスェル的発想と同じ論理である。
 しかし <法>(国家法としての国家意志)というものを、諸個人が内面で法<規範>(心の中から自分自身に為される命令)として受容しようがしまいが、法は厳然として<法>(国家法としての国家意志)として君臨・支配する。
 滝村が、意志の観念的対象化を「頭の中」の「対象化」に即してではなく、文字言語表現に即して把握したことの意味は、以上の脈絡から理解しなければならないだろう。
 国家論・政治学が、認識論・言語学のように<認識論次元>の論理的突き詰め方をして、国家意志を「規範一般」として人間個人(認識・表現主体)の内面(頭の中)に還元することなど、絶対に許されない。ここに、<個人主体>の内部的な心的過程にスポットをあわせる認識論・言語学と、<諸個人>の社会的・組織的連関を正面に据える国家論・政治学(社会科学)との学的相違が集中的に現れている。
 国家論・政治学(社会科学)は、経済学(社会科学)の<現実的=物質的対象化>との大きな対比において、<観念的に対象化された意志としての規範>が<諸個人>を共通かつ一般的に支配する意志の支配―服従関係すなわち<権力>関係を、直接正面に据える。
 その場合、<意志の観念的な対象化=客体化>という「頭の中」の問題は論理的に捨象される。国家論・政治学は、規範(意志)を巡る<個人主体>の内部的な心的過程(Aが規範を創出し、それを言語で表現し、B・C・D・Eがそれを読み自己の頭の中に「コピー」し「自己自身に向けられた心の中の命令」として受容・固定化・客体化する……というような)を、直接問題にする学問ではないのである。
 先に、<観念的に対象化された意志としての規範>の<観念的>という規定は、<認識論>レベルでの「観念的」と<表現論>レベルでの「観念的」では、その水準が異なっていると述べたが、国家論・政治学(社会科学)では、この表現論レベルで、言語(観念的事物)に即して<社会的規範>を取り上げる。
「頭の中」にしかないはずの<規範>が<言語表現>(文字言語)されることで、あたかも、外部独立的・客体的な意志<ででもあるかのように>「頭の外」へと躍り出て、<諸個人>(個人レベルではなく)を遍く一般的に、有無を言わせず上から規制・拘束支配するという、<意志の支配―服従関係>が孕む<観念の物神崇拝的・幻想的逆立性>のメカニズムを、理論的に解明するものである。
 たとえば、専制君主の<命令>が全国津々浦々、町村の辻々に「おふれ」として掲げられれば、その「御触書」は、「特殊な観念的事物」として、「あたかも」専制君主の意志=規範そのもの「ででもあるかのように」、<諸個人>の上に外部独立的に君臨し、有無を言わせず<諸個人>を規制・拘束する(<規範の形成ー支配過程>)。もしその「御触書」にツバでも引っかけようものなら、たちまち逮捕されかねない。
 それ自体は木の板に墨で書かれた描線にすぎない「御触書」を、まさしく<観念的に対象化された意志としての規範>そのものとして理論的に扱ってもよい。いや、扱わなければならないところが、社会的歴史的事象を観念的<権力>関係に即して把握する国家論・政治学の、複雑なところだろう。