
【付論―「論理的解読力」に関する補足(弁証法の罠)】
私は、第三論文で、
【 <知識レベル>でヘーゲルやマルクスへの一定の観賞力・解読力を把持すれば、他の思想・哲学的著作を読んでも、その内容を正確に理解し、(読み手の力量次第では)長所と短所をトータルに<透かし見る>ことさえできるだろう。】
と述べました。
昔、清水幾太郎が三浦つとむを評して、「三浦さんにかかると、世の中が全部透けて見える」と言ったそうですが、そういう「透かし見る」力を、本当の<弁証法的実力>と考え違いしてはいけません。
弁証法は、通俗的な言い方をすると、<直接には目に見えない内部の仕組みを透かし見るための方法>です(このあたりの規定はHP第二論文参照のこと)。
ヘーゲルやマルクス、三浦や滝村などを勉強していくと、弁証法的な<構造分析=解体の論理的方法>に基づく事象の論理的な捉え方が、ある程度<技>として身についていきます。そしてそれが一定の水準に達すると、自分の<専門>以外の分野でも、特定の理論や学説の論理的なムリとかアラとかアナのようなものが、なんとなく<透かし見える>ようになるものです。
その場合、論理的なムリとかアラとかアナのようなものが、実際に直観的レベルでしっかりと把握できているときもあれば、「見えたような気分がする」というレベルのときもあります。
たとえば、私は言語学はまったくのど素人ですが、チョムスキーら生成変形文法学派の「あらゆる言語に共通する、言語をして言語たらしめる深層構造」とか「普遍言語」というような物言いを読めば、ん?……そりゃ「普遍」の概念的把握レベルでオカシクないか??……と直観的にぴんとくる。
しかし、ここのところが重要なのですが、いくら弁証法的論理を基準にして、他流の学派の論理的なムリとかアラとかアナのようなものを<透かし見る>ことができたとしても、私にチョムスキーの言語学的実力があるわけではないのです。
ここのところを踏み誤ると、“自分は、「知識の量」ではなく、「論理的な実力」においてチョムスキーごときより上だ!”……という、大いなる勘違いをすることになってしまう。
この大いなる勘違いが<弁証法という構造分析=解体の論理的方法の罠>です。 <弁証法の罠>に嵌ると、
【<専門>分野の膨大かつ高度な「知識の量」と、長期にわたる地道な研鑽に<媒介>されない「論理的能力」など、ほんとうの弁証法的実力ではない】
という根本を忘れ、
【 厳密厳正な科学的レベルでの<学的論理能力>とは、あくまでも、己の<専門>たる領域で開拓・養成された<専門能力>であるに過ぎない(あらゆる個別の<専門>を超越するような一般的レベルでの学的論理能力など実存しえない 】
という<専門>というものの学問的意味を<方法的>に内省出来なくなります。
そもそも、弁証法を一つの論理的な思考枠組みとして設定し、その枠組みから、他流の学的理論のムリやらアラやらアナを透かし見る事は、実際は、学問的に意義あることではありません。
その道の学的プロからしてみたら、批判だったら評論家でもできるわなあ……の一言で、かたづけられてオシマイです。【学的<専門家>への批判は、常に<専門的>レベルにおいて、厳正厳密かつ具体的なものでなければならない】という観点からすれば、評論家的批評は学問的批評たりえません。
本当の<学的な論理的能力>を身につけるということは、チョムスキーにムリやアラやアナがあるという直観レベルの<透かし見る>能力に満足することなく、チョムスキーならチョムスキーの欠陥を是正・克服しえる学説を、きちんと自らが提出する(止揚し乗り越えるに)<専門的>な実力を開拓するということを意味します。
そう言う意味で、個別科学の<専門>分野の膨大かつ高度な「知識の量」に<媒介>されない「論理的な実力・論理能力」など、ほんとうの弁証法的実力ではない。
そしてまた、ここが重要なところですが、たとえ、ある研究者が、個別科学の<専門>分野で<ほんとうの弁証法的実力>をみにつけたとしても、その<ほんとうの弁証法的実力>が、自分の<専門>外の領域で、そのまま通用するほど、学問は甘くないということです。
清水に「三浦さんにかかると世の中が透けて見える」と評された三浦つとむの<専門>は、あくまでも言語学です。
科学者・三浦の真の<弁証法的実力>といえるものは、言語学という彼の<専門>において開拓・養成された、個別の<学的専門能力>としてしか実存しえない
個別の<学的専門能力>を超えた、なにか<一般的>な学的能力を三浦が把持していたわけではく、これは、三浦だろうが滝村だろうがマルクスだろうが、同じことです
哲学者・三浦の弁証法的実力は、こと社会や歴史のフィールドでは、“ソ連のハンガリー武力侵攻は悪だが、アメリカ帝国主義の浸透を阻んだという意味では善であり、物事は「善か悪か」「あれかこれか」と形而上学的に捉えてはならない”というレベルでしか発揮されえませんでした。
【真の弁証法的実力とは<専門>分野における学的<専門能力>なのであり、<専門能力>としてしか発揮し得ない】ところに、学的<専門>の<専門性>があるわけです。弁証法を学ぶ者は、このことのもつ深刻な学的意味を、よく考えなければなりません(学的実力もまた、普遍は普遍として在るのではなく、普遍は個別・特殊に内在し、個別・特殊へと自らを<顕現>するものとしてあるという、弁証法的論理が貫徹する) 。
そして、この学的<専門>の個別的<専門性>というところに、哲学体系としての哲学と、個別科学として科学の、<学>としての越えられない密度・水準の差があります。
たとえば、ヘーゲルはそのスケールの雄大さ・思想的に深く厚い魅力の点で、滝村隆一を遙かに凌駕するでしょう。
しかし、滝村のヘーゲル国家論批判を読めば分かるが、大哲学者ヘーゲルといえども、こと社会と歴史の理論的・学問的解析という限定された学的<専門>領域においては、その道のプロ中のプロ滝村隆一には議論で勝てません。
そこにこそ、十九世紀の法哲<学>と二十世紀の社会科<学>という、時代的に規定された諸<学>の理論的発展・専門分化(注)、また社会哲<学>者と社会科<学>者という、越えがたい<学的レベルの質的差>がある。
西欧で一流といわれるレベルの哲学者は、個別<専門>での実力を開拓・養成し、その実力をもって哲学的な思索を進めているものです。
しかし、いったん<専門>を踏み越えた世界全体の哲学的思索には、己の<専門>の特殊性からの大きな規定性が及んでくるもので、どうしても、自分のもともとの<専門>を超えた領域を論じ、世界全体を認識するとき、<特殊性の普遍化>の罠に陥らざるをえません。
これはその哲学者の個人的能力の限界とかそういう問題ではなくて、哲<学>者と科<学>者の間の越えがたい<学的レベルの質的差>の問題として、捉えることができるでしょう。
(注)
もちろん、その<学>の専門分化が「度はずれ」に進みすぎると、今度は逆に、全体的・有機的に全体を把握する学的発想が必然かつ必要とされていく。
しかしそれは、個別科学をもう一度哲学的に総合していくようなものではありえない。
学問・理論・科学は、世界を世界全体として統一的に捉える世界「学」ではなく、現実世界の有り様に即して、自然科学・社会科学・精神科学へと大きく分化する。そしてさらに、その現象的な領域分化に即して、個別諸科学に分化していく。
たとえば、政治的社会構成・経済的社会構成・精神文化的諸形態に即して、それぞれ政治学・経済学・精神諸科学へと分化し、分化しつつ、<体系的>な学問として生成―発展し、自らを<体系的>に完成することで、今度は、個別科学的<体系>として自立的に分化しつつ、他の隣接諸領域の成果を取り込んだり影響されたりという<学際的連関>が、必要に応じて生まれてくる。
そして、そういう個別諸科学に、深く静かに内在するように、弁証法的にして唯物論的な科学的自然観・社会観(世界観)(この世界観はあくまで科学的な世界「観」なのであって、それ自体が、個別科学の大系のような具体的かつ膨大な学問的理論構成にはならない)が、おおきく<媒介的>に、個別諸学を基底的レベルから支えていくことになる。