トップ

目次
 


<B>理論は理想をどう語り得るか</B><BR><BR> ―読者の方からの反応に寄せて5―</div> 『理論は理想をどう語り得るか
―読者の方からの反応に寄せて5―



はじめに

 1 総論―「イマジン」の論理の陥穽―

2 宗教止揚の問題

3 国家死滅の問題

4 分業止揚の問題

付1 ―ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスにおける<自由>の問題―

付2 ―滝村のマルクス批判の思想的意味―/a>

【注釈】



はじめに




 
この間、年輩の読者の方(仮にBさんとします)から、「宗教の止揚」「分業の止揚」の問題について提起を受け、いろいろと思うところがありました。
 私の仕事は農繁期と農閑期を繰り返すもので、Bさんには「とりあえずのお答え」をしただけで、本格的なお答えは農閑期にやろうと思っていましたが、生活上のシビアな問題に追われるうちに再び忙しい盛りに入ってしまい、ヘーゲルやマルクス・エンゲルスの諸文献を読み直しきちんとしたお答えをする時間的かつ精神的余裕がありません。
 今回アップする文章は、Bさんへの「とりあえずのお答え」に大幅に手を入れ、かつ自分のための勉強用のメモ、ノート的性格の強い文章を添えたものです。

 本文に入る前に、まずは、HPの「開設のあいさつ」に書いた滝村理論に対する私の基本的スタンスを、あらためてここに述べておくことにします。
 何度かメールのやり取りをした方から、わたしの姿勢が峻烈に過ぎ、「お前は、要するに滝村の批判は絶対に許さないという態度だ!」というお叱りを頂戴したこともあり、そういう妙な誤解を生まないためにも、私のHPの趣旨をもう一度提示する必要があると考えるからです。






「社会科学の孤独」にも書きましたが、滝村隆一というのは、実に不幸な、孤独かつ孤高の理論家です。理論的にはけっして難しくないし、歴史のダイナミズムがよく分かる理論であり、『国家論大綱』などは単純に読み物としても面白い。
 しかし、社会科学特有のワン&オンリー的な学的特殊性(注1)に規定され、<理論的>継承者が現れる可能性はいまのところ絶無、<知識レベル>での理解すらなかなか容易ではないというのが実状です。
 これは、ヘーゲル・マルクス系の方法的原理的発想(注2)が総崩れという時代的影響が大きいでしょう。また、マルクスや弁証法を論じる人間の間にも、今や死に絶えたマルクス主義哲学の悪影響が根深く残っていて、滝村への<知識レベル>の理解を妨げているようです。“あらゆる個別科学を超え自然・社会・人間を包含する哲学大系”というお馴染みのマルクス主義哲学発想(注3)に囚われていると、自然科学や人間科学における実験科学的フィールドとは異なる、社会科学的著述の<体系性>を、明晰に透かし見ることが難しくなるでしょう。
 わたしは、そんな学的継承と理解に特殊な困難をもつ社会科学の特質を踏まえ、孤高の理論家・滝村隆一を、まずは<知識レベル>で理解するための基礎作業として、このHPを開設しました。
 貧乏暇無し生活の故、いつまでHPを維持できるかわかりませんが、とにかく、ヘーゲル・マルクス・三浦・滝村などの学匠を<知識レベル>で精確に解読すること、それからでも、<思想>の絵図を描くことは遅くはあるまいと考えています。
 管見では、『国家論大綱』出版以降の滝村隆一批判の中に、きちんと滝村理論を<知識レベル>で精確に理解した批判は、残念ながら一つもありはしません。
 滝村批判おおいにけっこう。「滝村のマルクス批判が納得できぬ」というのもその意気や良し! 
 しかし、批判にしろ反発にしろ、<知識レベル>できちんと理解してから批判するなり反発するなりしろよ!と、声を大にして、厳しく言っておきたい。
 わたしは現実の生活ではそんなに偏狭というわけでもないし、思想方面ではユルユルに柔軟な発想をする方なのですが、しかしこと<理論的>なレベルの話では、人によっては厳しすぎると感じるくらい峻烈であるべきと考えています。
 もともとIQ80の劣等生であり、現在も何をやっても鈍な人間ですが、そういう大鈍才の故に<理論>というものへの強烈な憧憬があり、<理論>というものを大切にしたい気持ちが強い。また、理論的な議論を、一種の<技の優劣の試し合い>(試合)と考える傾向がある(この点は、スポーツ柔道をやっていたことと、父親や南郷継正の影響かもしれない)。
 ある理論・理論家への<知識レベル>での解読を巡る議論を一つの<試合>と考えれば、その解読の正否は厳正に判定されるべきであって、「勝ちは七分の勝ちを良しとし、残り三分は相手に譲り花をもたせる」というような、いかにも日本的な和の精神からくる生活の知恵など、持ち込むべきではない。
 <試合>とは<技>の優劣の<試し会い><競い合い>であり、自分の議論の内容(技)が勝る場合は断固として徹底的に勝ちに拘るが良い。しかし、わたしの姿勢は、あくまでも<試合>(技の試し合い)というレベルで激烈なのであって、自分の議論の内容(技)が相手に劣る(負けた)ことが分かれば、相手が拍子抜けするぐらい、けっこうあっさりと負けを認めます。「滝村への批判・不満」がそれなりのものなら(たとえ批判の内容はハズレであっても、その批判が、一定の<方法>的・<理論>的また<思想>的意義を孕んでいるならば)きちんと正当に評価します。  

 以上が私の基本的スタンスです。以下、本題に入ります。




進む