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目次
 


<B>理論は理想をどう語り得るか</B><BR><BR> ―読者の方からの反応に寄せて5―</div> 『理論は理想をどう語り得るか
―読者の方からの反応に寄せて5―



はじめに

 1 総論―「イマジン」の論理の陥穽―

2 宗教止揚の問題

3 国家死滅の問題

4 分業止揚の問題

付1 ―ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスにおける<自由>の問題―

付2 ―滝村のマルクス批判の思想的意味―/a>

【注釈】



2 「イマジン」の論理の陥穽



 これまでにわたしが見聞きしてきた滝村理論への思想的不満表明への率直な感想は、

【 理論家に思想的不満をぶつけても、あまり有意義なことではない。というか、“滝村は国家の死滅を不可能と言った”という不満をぶつける事自体、理論と思想、科学とイデオロギーの区別と連関の問題、理論家というものの<理論的分限>がいかなるものか?…理論家は理想や思想どう語り得るものなのか?…、そういう問題を正当に把握できていないことを自己暴露している。 】

 というものです。<理論家>というものが、国家の死滅を<理論>的に語る場合、あくまでも、

いま<現在>ここにある歴史的社会、いま<現在>ここにある現実の歴史的諸個人

 を前提に出発するものであり(マルクスが強調したように)、今ここにある<現実>のただなかで、この<現実>に即して<理論>を構築しなければなりません。そして、<理論家>が<未来>を語る場合も、

【われわれが生きる現実の歴史的社会において、その現段階において、発展的展開の諸契機・その必然性・現実的諸条件がありうるとしたら……】

 という限定のもとにのみ、語ることが出来るでしょう。それが<理論>というものです。理論家は、あくまでも<現段階>に立脚するアナリストなのであって、<現段階>において今ここにある<現実>に立脚してしか、<未来>を語ることは出来ない。マルクス曰く、

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの<状態>、それに則って現実が正されるべき一つの<理想>ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する<現実的>な運動だ。この運動の諸条件は、今日現存する前提から生まれる」(新版編輯『ド・イデ』岩波文庫 71頁)

 この有名な章句では、マルクスに先行する「空想的」な共産主義的諸潮流とマルクス・エンゲルスを分かつ分水嶺の如きものが明瞭に打ち出されています。

[ これまでの共産主義思想は、現実がそうある「べき」ひとつの「理想状態」(共産主義社会)を空想的に設定し、それを以て「現実が正されるべき」としてきた。共産主義を可能とするような現実的な歴史的諸条件を欠いたところで、単なる夢想として主張されてきた。
 しかし、資本制的生産様式の君臨する諸社会においては、共産主義を現実的に可能とする現実的諸条件が、資本制的生産様式の高度な展開において、資本制的生産様式そのものの内部から不断に、必然的に生起してくる。資本主義それ自体を「止揚」するための革命的な運動、共産主義という「<現実的>な運動」が生まれてくる。]

 これがマルクスの章句の厳密な意味です。果たしていま現在、マルクスが考えたように資本制的生産様式それ自体から共産主義の現実的諸条件が生まれていると言えるのかどうか?……という問題はさておき、共産主義を単なる「理想」として掲げるのではなく、その「理想」の歴史的実現諸条件を<現実>の分析の中から掴もうとする<理論・科学>的立場は、マルクスならではの素晴らしいものであり、滝村もこの立場を継承しています。
 ただし滝村の場合は、この<理論・科学>的立場をマルクスと同じくしながらも、その理論的分析の結論がマルクスとは違っています。『国家論大綱』では、「宗教の止揚」の問題は直接論じられていませんが、「国家の死滅」は次のように論じられています。

「ひとたび成立した国家権力は、<内外危難に対する諸個人の社会[共同体]総体としての維持と発展>に現実的な基礎をおいた、社会[共同体]の<国家>的構成と組織化が、必要かつ必然であったかぎりにおいて、存立し続ける」(『国家論大綱 下巻』642頁)

 この言い方は、<歴史・社会・政治のアナリスト>として、「国家の死滅」という<思想>的問題を<理論>的に考察する場合の、理論的<分限>をよく意識している物言いです。
 滝村は、“国家権力は永遠不滅です!”なんて予言者風のストレートな言い方をしない。「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」しなくなったら「国家権力」は消滅するだろう。しかし、「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」する「かぎりにおいて」「国家権力は存立し続ける」。
 <理論家>は、あくまでも、<現段階>において今ここにある現実の歴史的社会、現実の歴史的諸個人を前提に出発するものですから、今ある現実の<現段階>(世界史的現在)の分析の結果、

《 「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」する事態など想定できない。すなわち、国家を死滅させる現実的諸条件・現実的基礎が存在しない 》

 という結論に達した以上、「国家の死滅はありえない」という結論を提出するのはあたりまえでしょう。滝村が「宗教の止揚」を論じる場合も、おそらく<宗教の止揚が可能だとしたら、かくかくしかじかの条件が前提になる>という言い方になるはずです。
 ところが、“滝村は国家の死滅を不可能と言った”という不満をぶつける人というのは、理論家の<理論的分限>というものの無理解の上に乗っかって、“国家を死滅させたい!”という己の主観的願望を、まずイデオロギー的に設定し、その設定地点から滝村を非難しているに過ぎない。そんな非難、己の主観的願望を滝村に押しつけ文句を垂れているだけの話です。
 もし滝村の結論に不満だったら、今ある現実の歴史的社会を分析し、「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」しなくなる事態の<現実的>可能性<現実的>諸条件を、科学的に理論的に説得力あるかたちで提出すればいい。
 これは、なにも滝村のような数十年の研鑽をしろ!というような話ではない。滝村ほどの「投下労働量」ではないにしろ、それなりに真剣に現実と挌闘し、リアルに現実の社会と歴史を見透かす合理的努力を積み重ねていけば、滝村が下した理論的結論の正否を判定するくらいのことは、1Q80の大鈍才でも可能です。
 ボールは読者に投げ返されているのです。後は、滝村の投げたボールを受け止め、さらに滝村に投げ返せばいい。読者が独自に<理論的>に追求し、その上で、主体的実践的な<思想>的絵図を、それぞれが描いていけばいいことなのです。
 それをすることなしに、“国家を死滅させたい!”という己の主観的願望を、まずイデオロギー的に設定し、その設定地点から<現実>を捉えようとする発想を、「イマジン」の論理と名付けることにしましょう。すなわち、

“ 現在から遠い<未来>のある時点、あるいは現実からかけ離れた<彼岸>に、国家なき世界・宗教なき人間と社会、分業に隷属せざる真に人間らしい人間の社会、要するに究極的な理想的未来像のようなもの(「イマジン」的な世界)を思想的に想定し、その極限的な理想像をイデオロギー的基準にして、この汚辱にまみれた<現実>を照射し、醜悪な<現実>を裁断するような思考 ”

 です。なるほど確かに、ジョンの「イマジン」に共鳴し、

「国家なんてうっとおしいもの、なくなればいいのに…分業に隷属するなんて人間性に反してる…宗教的迷妄に囚われてるなんてオカワイソウ…」

 という己の<思想>的問題意識自体を持つことは、悪いことではないと思います。理想を持つのはとても良いことです。理想無しに生きていけるほど人間は強くない。トロツキー曰く、

「人生は容易ではない……。もし、自分を個人的悲惨から、また弱さ、すべての裏切り、愚かさから奮 い立たせるような、自分を超えた偉大な理想を心に抱いていなかったら、虚脱やシニスムに陥ることなく、人生を生きることはできまい」(『亡命日記』現代思潮社版 100頁)

問題なのは、理想を持つことそれ自体ではなく、<現実>の理論的分析を抜きに理想を持つことの危うさであり、そういう理想の抱え方は、単なる夢想主義に転落する危うさを孕まざるをえないのです。
 「イマジン」のジョンレノンや「さあ、オレ達の心の内なる国家を無化しよう」と観客をアジるジミ・ヘンドリックスなどのポップアーティストたちが、かっちょい〜〜〜〜ぃ芸術的アナーキズムの創造において、現実から離れた<未来・彼岸>の世界を夢想する分にはかまいません。われわれはそういうファンタステック&ドリーミーな世界に浸るために、ポップアーティストの至芸に木戸銭を払う。“ロックを通じて革命を!”なんてらぶ&ぴぃーすもご愛敬。
 しかし、ポップ&ロックならともかく、理論とりわけ社会の現実的分析に関わる領域(社会科学)では、ふぁんたすてぃっく&どりぃみぃな予言者的ご託宣など出せないし、また、出せると考える方がどうかしています。<理論家>はジョンやジミ・ヘンのような「ドリーマー」じゃあないんですから。






 かっちょい〜〜〜〜ぃ芸術的アナーキズム気分の「どりーまー」が、「国家なんてうっとおしいもの無くなればいいのに…分業に隷属するなんて人間性に反してる…宗教的迷妄に囚われてるなんてオカワイソウ…」という<思想>的問題意識を、そのままストレートに現実社会に持ち込むとどうなるか?
  国家・分業・宗教の止揚という思想的課題と称して、<現在>ここにある<現実>の中に、国家の死滅・分業の止揚・宗教の乗り越えのための「現実的基礎と現実的諸条件」(「未来への変革の契機」というやつです)を、なんとしても見いだしてやる!……無理やりにでも見いだしてやるぞ!!という、<理論>的に逆立した誤謬を生み出してしまう。自己の思想的な思い入れを<現実>に投影し、<現段階>(世界史的現代)のリアルな<現実>を見る眼を曇らせてしまうことになる。
 これは一種の哲学的アプリオリズムに属する思考方法です。
 この幣を避けるために、理論家というものの眼は、遠い<未来>に到達すべき抽象的な理想像をイデオロギー的に設定し、そこから<現在>をイデオロギー的に照射するものであってはならない。
 滝村の場合、「社会と歴史のアナリスト」として、<現段階>において今ここにある<現実>の歴史的諸社会、現実的諸個人を前提にして、理論を開拓する。
 この眼前にある現実の社会を、歴史的に最も発展した<社会構成体>として、われわれにとっての現時点での最高到達地点(世界史的現段階)として、理論的分析の素材とする。
 そこで獲得した理論的成果をもってあらためて<過去>から<現在>の流れを捉え、<過去>から<現在>に至る流れの中に<未来>の萌芽(未来への発展的展開の契機)を明敏に探っていくことを、学的課題としているわけです。
 この理論的立場を理解できないと、マルクス主義者によくあるイデオロギッシュな学問観、すなわち、

“弁証法は、ただ単に現実を解釈するためのものではなく、未来への変革を透視するものでなければならない……経済学者は、社会主義的変革の必然性を語る者でなければならない……政治学者は、国家の死滅の必然性を論証しなければならない”

 という発想で、弁証法論者や社会科学者を“未来予想イデオロギー屋”に貶めることになってしまう。そして、<理論家>としての立場を貫く学的探求者に、

“滝村理論は、現存する近代ブルジョワ社会と国家を永遠のものとして固定化し、国家を乗り越える進歩的戦いに敵対する「一定の」反動的役割を担っている!”

 などとイデオロギー的に「糾弾」することにもなってしまう。
 人類史上の<現段階>における現実の歴史的社会、現実的諸個人を前提にする限り、十九世紀人マルクスが夢見たような歴史的必然性、人類を構成する人間総体が宗教を止揚し、高度生産力を維持しつつ社会的分業を止揚し、国家という社会の政治的共同体を死滅させるための<現実具体的諸条件>は、<未来への発展的展開の契機>として存在しません。
 宗教としての宗教が弱まれば(西側先進国においては明らかに歴史はその方向に向かっている)、様々なヴァリーションの疑似宗教的迷妄が蔓延し、分業への属人的固定化の弊害を止揚するためには、政・経分離(分業)の大枠の中で、 更なる高度な分業の展開が必然化され、世界がグローバルになり国境の枠を乗り越えて人と物の交流が密になればなるほど、逆に国家という政治的共同体(社会構成としての実体的な枠組み)が浮かび上がって来る。それが<世界史的現在>というものでしょう。
 そしてこの程度のことは、別に滝村を読まなくても、なにも難しい理屈をこね回さなくても、現実感覚と理論的センス、絶えず現実と向き合う姿勢のある人ならば、高校生にでも分かることです。
 この<世界史的現段階>、そこにおける歴史的諸社会と現実的諸個人の<到達地平とその限界>を理論的に承認したからと言って、なにもその人が現実ベッタリのズブズブの現実主義者ということにはなりません(注4)
 そういう<世界史的現在>をきちんと認識してなお、人間が宗教的迷妄を脱し、分業的隷属を超え人間的諸力を多方面に開花し、国家という怪物が孕む抑圧性を可能な限り低くし「国家を開いていく」(吉本隆明)ことを思想的に目指し、その現実的諸条件を探っていくことは可能だからです。
 留意しておくべき事は、

【 我々が理想を語るとき、<未来・彼岸>から<現在・現実>を照射し、現実からかけ離れた抽象的一般的理想像をもって現在を裁断するべきではないということ。逆に、<現段階>(世界史的現在)において我々の眼前に広がる<現実>に立脚し、<過去・現在・未来へと至る流れを照射し、この<現在>において現実的に語り得る理想を語ること、この<現在>において現実的にあり得べき理想を、未来において現実具体的にあり得べくするには、いま何をなすべきか?……と考えていくこと。 】

 これこそが、真に<理想>を語ることではないかと思います。






  このHPでは、現実の思想的な問題に踏み込むことはできるだけ避けたいと思いますが、「イマジン」の論理について述べたこともあり、ほんの少しだけ言わせて貰うと、わたしは、「人権上好ましからざる」伝統や習俗慣習を過激に糾弾するいわゆる“進歩的”人権擁護運動、死刑廃止運動、過激なジェンダーフリー教育、憲法九条絶対護持の反戦平和主義にも、「イマジン」の論理というべき発想の危うさ、現実(世界史的現在)を無視した空想的蒙昧性を(ときには宗教的狂信性すら)感じます。
 現実とかけ離れた抽象的な理想的人間・社会像、たとえば、<宗教的迷妄を完全に止揚した人間と社会>、<男女の性差を超えた人間と社会>、<心の中の国家や国境を無化した人間と国家なき世界>を思想的に設定し、その極限的な理想像を以て、古い習慣・習俗や宗教的意識に囚われた者を、男らしさ女らしさに価値を見る者を、愛国心を持つ者を、軽蔑し非難する。その極限的な理想像をストレートに現実に押しつけ、その立場を貫くためには手段を選ばず……と過激化先鋭化する。
そういう発想の無理を、左翼&サヨクの中に(もちろんある種の右翼にも)びんびんに感じます。

“現実はもちろん重視すべきだが、現実に埋没し現実にずぶずぶ屈服するのではなく、現実の中に未来への変革の契機を探らなければならない”

 というそれ自体は正しい物言いで、「現実主義者」なるものを軽蔑非難する人たちというのは、現実の中に“変革の契機”を探るというより、現実の中に「理想」に合致する(合致しそうな)事象を恣意的にピックアップするだけじゃあないかYO!ということが、あまりにも多いのです。
 しかしわたしがこういうと、

“おまえは進歩的な理想を掲げることを悪だと言うのか!”

 と憤激するオッチョコチョイもいるやもしれぬので、あらかじめ断っておきますが、わたしはなにも、蒙昧を因習をの蒙を啓くことそれ自体、男女平等を目指すことそれ自体、死刑廃止を理想とすることそれ自体、平和を希求することそれ自体を、悪いこととかムダなことだと冷笑しているのではありません。そうではなく、

【 進歩的啓蒙の立場やジェンフリや死刑廃止論や反戦平和主義が、理想というものを語るとき、その<理想の設定の仕方>というか<理想の置き方>そのものが、根本的に間違っていないか?……。 それは、ユートピアニズムによる逆ユートピアの論理でしかないのではないか?……。】
 そう言いたいのです。夢見がちな左翼&サヨクの理想主義的な人間・社会像が、内容的に正しいか間違っているか、理想の中味が美しく崇高であるかそうではないか、その内容の正否を直接問題にしているのでありません。理想の中味ではなく、その<思考方法そのもの>を、まさに問題にしているのです。
 二十世紀における共産主義の実験の無惨な失敗(そして、ある意味ではファシズム運動の壊滅も)においては、そういう<思考方法と思考パターン>そのものが根本的に誤りではなかったか?……ということが、まさに歴史的に問われたのだと思います。






 具体的には、国家死滅論、分業論の問題に即して後述しますが、滝村理論の<思想>的意義についても、ここでちょっと述べておきます。


 <理論家・科学者>というものは、自らの<思想・イデオロギー>的立場は一応(かっこ)に入れて、客観的な立場を把持しなければならず、とりわけ、社会科学・政治学という、観念的・イデオロギー的事象を直接扱う学問分野では、そういう客観的態度が厳正に求められます。
 新カント派のように、seinとsollenを機械的に切断するのではなく、
 <社会はいかにあるべきか?>
 という<思想・イデオロギー>的問いの前に、
 <そもそも社会とはなにか?>
 という一般論理的な<理論・科学>的探求を為さねばならない。
 <社会はいかにあるべきか?>
 という<思想・イデオロギー>的問いを、
 <そもそも社会とはなにか?>
 という一般論理的な<理論・科学>>的探求に<媒介>されたかたちで提起しなければならない(新カント派の認識論の場合、「sollenは常にsollenから導き出され、seinから導かれることはない」という反映論否認の発想だから、<思想・イデオロギー>と<理論・科学>の<媒介>関係という発想が生じない)。
 これがマルクスの基本的な立場であり、滝村理論もまたそれを継承しています。
 マルクスがこれまでの「空想的社会主義者」と決定的に違っていたのは、ありうべき未来社会の詳細で具体的な設計図作りに熱中する愚を犯さなかった事です。
 マルクスはアプリオリに理想を語るのではなく、世界史の<現段階>において今ここにある現実の歴史的諸社会、現実の歴史的諸個人を前提に、その科学的理論的分析(眞理の認識)から出発し、現実の中に未来への変革の芽、現実的諸条件(理想の実現可能性)を探るという<科学者・理論家>としての立場を断固として堅持していました。
 しかし、マルクスとエンゲルスの場合(注5)、その共産主義論を見る限り、<思想・イデオロギー>と<理論・科学>の<媒介>関係という発想が貫徹されず、変容しています。
 マルクスは新カント派の対極に立ち、
 <そもそも社会とはなにか?>
 という一般論理的な<理論・科学>的認識から、直接ダイレクトに
 <社会はいかにあるべきか?>
 という<思想・イデオロギー>的問いが導かれる……というか、
 <そもそも社会とはなにか?>
 という認識が、そのまま直接ダイレクトに、
 <社会はいかにあるべきか?>
 という主体的立場を、<理論・科学>的に証明・補強するという思想構造
になっている。
 自己の社会科学者としての研鑽も学的探求も、書斎の単なる<純粋な理論・科学的探求>ではなく、若い頃から構想していた人間解放思想の理論的科学的証明、プロレタリ革命と社会主義的変革、革命主体としてのプロレタリアートの世界史的使命、その歴史的必然性を論証するという、<思想的>意義を与えられていた。
 マルクス・新カント派・滝村の<理論>と<思想>の関係は、大胆に図式化してみると、

 マルクス;<理論・科学> = <思想・イデオロギー>
 新カント派;<理論・科学> / <思想・イデオロギー>
 滝村  ;<理論・科学> ⇒ <思想・イデオロギー>

ということになるでしょう。このマルクスの発想を、初期マルクスの共産主義的人間解放思想との関係で捉え直せば、

《 マルクスは、初期に抱いた人間解放思想を、理論・科学的に基礎づけるために、経済学の研究へとのめり込み、資本主義社会の経済構造をトータルに解明し得たが、その解明に、初期に抱いた人間解放思想が、投影されざるをえなかった。》

 ということになると思います。マルクスの理論=思想体系は、彼の学的体系と共産主義社会論との関係で見る限り、

現実の歴史的社会、現実の歴史的諸個人の<理論>的分析

未来のありうべき理想的社会・人間の<思想>的提示


という<理論⇒思想>の展開に、なっているようで、実はなっていない。共産主義社会論として見る限り、若き日に抱いた未来のありうべき理想的社会・人間像を、まずアプリオリに設定し、その実現可能性をなんとしても科学的理論的に“論証”しようという、哲学者にありがちなアプリオリズムという性格を、マルクスといえども避けられなかった。
 共産主義者マルクスには、<科学者マルクス>と<哲学者マルクス>の二面性があった、ということです。
 ヘーゲルにもマルクスにも、三浦にも滝村にも、<科学者>的な貌とともに<哲学者>的な貌もあるはずです。理論家といえども現実の政治的経済的、社会的文化的諸関係の中で思想的イデオロギー的立場を生きる個人ですから、思想的な思い入れに基づく<哲学者>的な貌を完全に払拭するなど、できることではありません。
 しかし滝村の場合は、自己の思想を語ることに禁欲的であるがゆえに、今のところ<哲学者>的に悪い面を露呈する愚を賢明にも避けていると言えるでしょう。
 マルクスは「ヘーゲルの弟子」として、<哲学者ヘーゲル>の壮大にして空虚な哲学大系を、<科学者ヘーゲル>の論理をもって批判し、ヘーゲルの弁証法的な方法を、哲学においてではなく、個別科学のレベルで継承発展させました。
 これはマルクスと滝村の関係においても同じですが、滝村理論の場合、ヘーゲル・マルクスの嫡子でありながら、<理論>と<思想>を<原理的>に峻別しつつ<実体的>に重ね合わせてしまうくヘーゲル・マルクス的理論=思想構造>にはなっていません。
 まさにそれ故に、滝村理論というのは、<世界史的現段階>において今ここにある現実の歴史的社会、現実の歴史的諸個人の理論的分析から出発するという<科学者・理論家>的立場をマルクスから継承し、

<科学者=理論家マルクス>の論理を以て<哲学者=思想家マルクス>を解体止揚する

ための極めて有効な<思想>的視角を、我々に提供してくれていると、わたしは思います。



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