『国家論大綱』にはなかったと思いますが、滝村さんは『世紀末時代を読む』で「宗教の死滅」云々の議論を述べています。まあ、『世紀末』は座談だから、けっこう雑な物言いをしていて、たとえば、
『……先進国では、とくに1930年代、大戦と恐慌をへるなかで、なんといっても管理通貨制度を導入することで、この恐慌的爆発というものを封殺することに成功したわけでしょう。にも関わらず、宗教が存在するということ自体が表すものは、宗教は,『社会』に比しての『個人』の無力さ、有限性があるかぎり、なくならないということにあると思うんです」(『世紀末「時代」を読む』)
というような、「恐慌」云々の物言いはたしかにヘンです。恐慌の封殺を「成功」させたことと、マルクス・エンゲルスの言う「生産手段の統御」がイコールなわけがないですから。しかし、これは、ご本人も「あとがき」で述べている「論文だったらとても書けないような不確かなこと」「結果的なエラー」でしょう。
宗教の止揚の問題に関しては、わたしは滝村とだいたい同じ意見です。
エンゲルスがいうように、「宗教とは自然的社会的諸力の空想的神秘化」です。
人間主体は、自然や社会に比しての人間の圧倒的無力さと有限性を思い知らされるが、しかしその無力で有限であるはずの人間が、<精神>としては無力でも有限でもないが故に、あたかも人間主体の<精神>の偉大性・無限性・普遍性を証すかのように、自然的社会的諸力の絶対性と無限性を観念的に対象化し、宗教的諸観念を析出していく。
こういう観念的疎外は、自然や社会に比しての人間個人の圧倒的無力さと有限性の<逆立的・逆説的表現>です。
だから、「宗教とは、自然的社会的諸力の空想的神秘化」という把握が正しいとして、ではなぜ、人間は「自然的社会的諸力」を「空想的に神秘化」せざるをえないのか?……とさらに理論的に追求していけば、結局は、
【 「個人」の個別性・有限性・部分性 ⇔ 「類」の普遍性・無限性・全体性 】
という、ヘーゲル⇒フォイエルバッハ⇒マルクスへと流れる<個>と<全体>の矛盾という基本構図の問題に行き着かざるを得ない。マルクスの「共産主義人間解放思想」も「宗教の死滅」の問題も、こういう「個人」の個別性・有限性・部分性 ⇔ 「類」の普遍性・無限性・全体性 という構図を踏まえ構想されている(この点は「付論1」参照のこと)。
滝村が「『社会』に比しての『個人』の無力さ、有限性があるかぎり、宗教はなくならない」というのは、まさにこの【 「個人」の有限性 ⇔ 「類」の無限性 】という矛盾の構図を指しています。
「個人」の有限性をもっと俗な言葉で言うならば、生老病死で四苦八苦というのが逃れられぬ人の世の定めであって、「『社会』に比しての『個人』の無力さ、有限性」が「生老病死で四苦八苦」というかたちで現れる限り、「宗教はなくならない」(「自然的社会的諸力の空想的神秘化」という観念的疎外の構造は止揚できない)ということになる。
そして、人類史の<現段階>においては、どんなに文明が高度化しようと、「生老病死で四苦八苦というのが逃れられぬ人の世の定め」が無くなることは、まず空想としてしかありえない。ここで、
“いや、たしかに、四苦八苦が消滅することはありえないだろう。だが、たとえ、四苦八苦の世の中でも、神仏頼むに足らずという境地に達し、その四苦八苦を乗り越えて生きる人間だって存在するのだ。だから、宗教的蒙昧を観念的に乗り越え、宗教を止揚することは可能なのだ!”
なんて言ってしまったら、そもそも議論が成り立たない。
四苦八苦の世の中で、「神仏頼むに足らずという境地に達し、宗教的蒙昧を観念的に乗り越え宗教意識を止揚する」ことは、あくまでも<個人>のレベルの話です。しかし、本来、「宗教の止揚」というのは、<個人>の「境地」というレベルではなく、あくまでも<社会>レベルでの話だったはずです。<社会>レベルの話を<個人>レベルの話にすり替えて論じてはいけません。
私事で恐縮ですが、わたしの母親はもともと神官の家筋に当たるせいか、宗教的なものを好む体質の人で、十代の頃はカトリックだったらしい。その後いろいろと思うところがあったのか、仏教系の信仰を持ったりした。現在は、特定の宗派を信仰しているわけではなく、漠然とした宗教的情操というか、宗教的価値観に育まれた、日本人らしい道徳倫理観を強く持っているという感じです。
天国とは、人生を一生懸命誠実に真面目に善良に生きた人間が、最後に瞑目するとき、我が人生に悔いなしと思って息を引き取る瞬脳裏に浮かぶイメージである。もしかしたら神様もいらっしゃるかもしれないし、天国もあるかもしれない。が、それは死んでからのお楽しみとでも考えているようで、まあ、彼女の内部では宗教としての宗教はほとんど道徳へと<止揚>されているのでしょう。
現時点でわたしにはっきりと言えることは、世界史的現在において、もし「宗教の止揚」が可能だとしたら、わたしの母のように、<個人>的生活における<個人>的モラルのレベルで、<宗教意識>が高い<規範意識>へと昇華止揚されるというかたちしかあり得ないということです。
<社会>を構成する<社会構成員>の総体が、「神仏頼むに足らず」という「境地」に達し、「宗教的蒙昧を観念的に乗り越え宗教意識を止揚する」ことができるのか?
ここで重要なポイントは、「宗教の止揚」という思想的課題を論じる場合にも、さきほど述べたように、あくまでも我々が生きるこの<現実>に立脚して、「宗教の止揚」の理論的可能性を考えることが、議論の基礎になるということです。
宗教の死滅を<理論的>に論じる場合、その<世界史的現代>の現実の歴史的社会の中に、国家や宗教の死滅を可能にする現実的諸条件(四苦八苦の消滅)がないという理論的結論に達すれば、<世界史的現在において、それは不可能>ということになるでしょう。
人類の現段階(世界史的現在)において、そんな<社会>レベルでの「宗教の止揚」(社会構成員総体が、無神論的科学精神を体現し、その人生観・死生観において宗教的迷妄に囚われることなどありえない)など不可能だというのは、ちょっと考えれば分かることです。
そしてまた、モラルというものは、宗教的雰囲気宗教的情操の中で(「神様がお許しにならない」とか「お天道様が見ている」とか「天網恢々疎にして漏らさず」とか)涵養されるものなのであり、宗教と離れたところで純粋なモラルなどあり得るのか?……というお馴染みの問いも成り立ちそうです。
松任谷由実の母親は、「宗教抜きの道徳は悪魔の道徳になる」と娘に教えていたとのことですが、なかなか良い言葉だと思います。たしかに、日本の左翼&サヨクの“人権上好ましからぬ宗教的伝統・因習・習俗への進歩的戦い”と称する“進歩的啓蒙”運動を見ていると、左翼&サヨクの「宗教抜きの純粋なモラル」の方がよっぽど恐ろしいナアと感じることがママあります。
わたしは、人類の<現段階>(世界史的現代)において宗教の止揚など<個人>レベルではともかく<社会>総体としては不可能といいましたが、これは、今ここにある<現実>的諸個人を前提にする限り「不可能」ということです。
しかしこれを逆に見れば、未来社会において、人間が<現在>ほど弱くなく、もっと明晰でもっと賢くもっと強くなれば(つまり、「<現在>の現実の人間」という前提が変われば)、<宗教の死滅>は可能ということにもなるでしょう。
この問題を考えるにあたっては、トロツキーが述べた「共産主義的人間」観が、よい手がかりになるだろうと思います。以下、この点について、いささか勉強ノート的な内容ですが、述べていきます。
わたしはHP「眞理は汝らに自由をえさすべし」の中で、トロツキー『文学と革命』第一部第八章中の「人間の改鋳」という項目を紹介しましたが、トロツキーはその「人間の改鋳」論で次のように述べています。
「未来の人間がみずからをどこまで自己支配できるかどうかを予測することは、人間が技術をどこまで高めるかを予測するのと同じように難しい。」(『文学と革命』岩波文庫上巻345頁)
トロツキーはそう言いながらも、1920年代ボルシェビキの理想主義的高揚の息吹を感じさせる実に情熱的かつ魅力的な文章で、この真に「自由」なる未来の「共産主義」を語っています。
「共産主義的な生活は、珊瑚礁のように自然に出来てくるのではなく、意識的に建設され、思想の検証を受け、方向づけられ、修正されていく。日常生活は、自然発生的であることをやめることにより、停滞的であることもやめるであろう。」(同上 343頁)
トロツキーのこの発想は、別にロシア・インテリゲンチュアに内在するロシア的特質などというレベルのものではない。マルクス主義者ならだれでも素直に受容できるものでしょう。おそらく、マルクスも草場の陰で、
[そうだよ、トロツキー君。未来の共産主義社会は「珊瑚礁のように自然に出来てくるのではなく」とは、君もなかなかうまいことを言うね。「人類本史」は、ありうべき理想を現実に押しつけるユートピアニズムではなく、資本制的生産様式の高度な展開を土台に、それを<止揚>し継承することで花開く、自由な人間たちの自由な結合体なのだ]
と肯定するでしょう。
マルクスとマルクス主義は、孔子の思想と朱子学・陽明学が同じである程度において同じであり、違う程度において違っている、というのは吉本さんの名言です。
私はHPで、マルクスの思想は、ドイツ社会民主党への道と、レーニン・トロツキー・ブハーリンらロシア・マルクス主義者への流れ、いずれにも向かい得る<芽>が内在していると述べました。
確かに、マルクスとロシア・マルクス主義は、孔子の思想と朱子学・陽明学が「同じ」である程度において「同じ」であり、「違う」程度において「違う」ものであるだろう。
しかし、こと「共産主義」論の場合、カウツキーの待機主義的革命論よりも、レーニンやトロツキーの方が、マルクスの共産主義思想の<核>を、本質論レベルで精確に深く把握できていると思います。
共産主義社会は「珊瑚礁のように自然に出来てくる」ものではなく、<プロレタリア政治革命>によるブルジョワ体制の転覆と<社会主義社会革命>による資本主義社会の構造的止揚として、「意識的・人工的」に創出されるものである。
マルクスとロシア・マルクス主義は、孔子の思想と朱子学・陽明学が「同じ」である程度において「同じ」というのは、まさしく、<プロレタリア政治革命>によるブルジョワ体制の転覆と<社会主義社会革命>による、資本主義社会の構造的に止揚という根本発想にこそあります。
では、その意識的人工的に創出される「共産主義社会」を構成する「共産主義的人間」とはいかなるものか?……。トロツキー曰く、
「人間は、ついに、自分自身を真剣に調和させるように目指しはじめる。労働や歩行、遊びのさいに、自身の器官の動きが高度に明瞭で目的に適い倹的であり、またしたがって美しくあるように目指す。自身の器官の半ば無意識的な過程、さらには無意識的な過程、つまり呼吸や血液循環、消化、受精などを掌握したいと思うようになり、必要な限度で理性と意志の統制下に置く。生活は、純粋に生理学的なものすらも、集団的・実験的なものとなるであろう。」
「解放された人間は、自己の器官の活動により平衡をもたらし、自己の組織の発達と消耗がより均衡をとれているように望むものであり、すでにそれだけによっても、死の恐怖を、危険に対する器官の的確な反応の枠内に導くことができるだろう」
「人間は、自身の感情を支配し、本能を自覚の高みにもちあげて透明なものにし、意志の導線を、隠れた地下のものにまでゆきわたらせ、そうすることによって、自身を新しい段階に高めることを ―より高度な社会的・生物学的タイプ、強いていうなら超人を作り出すことを― 目的とするであろう。」
「……文化建設と共産主義的人間の自己教育の過程が身にまとうであろう外皮は、今日の芸術の生命力ある全要素を最大限に発展させるであろう。人間ははるかに強く、賢明で、繊細なものになり、その身体はより調和がとれ、動きはより律動的で、声はより音楽的になるであろう。日常生活の形式は動的な演劇性をおびてこよう。人間の平均的なタイプは、アリストテレスやゲーテ、マルクスのレベルにまで向上しよう」 (『文学と革命』岩波文庫上巻343〜5頁)
文芸批評家トロツキーは、希代の革命的アジテーターらしい極端に誇張された魅力的表現で、人間の「解放」(人間的自由の実現)というものを、個体的個人の内在的な<社会力・自然力>の全人的発現、「社会的本質存在」としての人間的本質の完全なる顕現……というレベルで把握しています。
「呼吸や血液循環、消化、受精」すらも「必要な限度で理性と意志の統制下に置」けるかどうかどうかはさておき、マルクス主義者なら、「人類本史」が、「人類前史」の疎外され抑圧された階級的諸個人などよりも遙かに高度な段階にある、人類前史的レベルからみたら、仰ぎ見るような「超人」たちの「自由な結合体」だということを、否定しないでしょう。
この「超人」たちの段階に、もし人類が達したとしたら、当然、「遺伝や盲目的な雌雄淘汰の暗黒の法則」に隷属することなく、
「傷つき止んだヒステリー的な死の恐怖を生の本能に添え、理性を曇らせ、私語の存在をめぐる愚かで屈辱的な幻想」
すなわち「宗教的蒙昧」など、完全に<止揚>していることでしょう。アリストテレスやゲーテ、マルクスというより、なんだかゴルゴ13を想起させるような議論ですが、トロツキーの発想が、ヘーゲル・マルクス的思想系譜の核を掴み、継承したものであるのは確かです。マルクス曰く、
「死は、限定された個人にたいする類の無情な勝利として、両者(類と個人)の一体性に矛盾するように見える。だが、限定された個人とは、ただ限定された類的本質存在に他ならないのであるから、そのようなものとして、死をまぬがれない」
(注1)
マルクスの「共産主義人間解放思想」も「宗教の死滅」の問題も、こういう「個人」の個別性・有限性・部分性 ⇔ 「類」の普遍性・無限性・全体性 という基本構図を踏まえて構想している。すなわち、
[ 「有限なる個人」は、なるほど個人・個体として見れば、個別的・有限的・部分的である。しかし、人間は、単なる孤立的個人ではなく、「限定された類」なのである。その内在的本質において、個人は「類的本質存在」なのであり、<個人>としては有限だが、<類的存在>としては普遍的・無限的な存在である。
そして、人間が<類的=社会的本質存在>である以上、人間の自由は、抑圧や隷従を逃れ災厄を避ける消極的自由や勝手気ままな恣意的自由ではない。「類」としての本質を全面的に顕現する<社会的解放>の中に、ブルジョワ自由主義的なレベルを超えた<人間的自由>がある。
真の「人間解放」は、人間主体に内在する<類>としての普遍性(<社会=協働的>連関)に相応しい<協同的>社会を創出することであり、この協同社会において、人間ははじめて、自己に内在する<社会力>を全面的かつ完全に解き放ち、<類的本質存在>としての普遍性・無限性を顕現させることができる。 ]
こういう発想で、「共産主義的人間解放」を考え、「宗教を止揚」した現実的諸個人が連合する「自由なる社会」を考えている。
ここで、さしあたり問題のポイントは二つあります。
第一に、こういう「超人たち」の「自由な結合体」を、歴史的現実的に創出するために、<プロレタリア政治革命>によるブルジョワジーの打倒を成功させ、<社会主義社会革命>を展開させ始めたとしたら、その革命によって、「超人たち」の「自由な結合体」を実現することができるか?……という社会構成レベルの問題(これは、政治・経済分離という近代的社会原理の問題を含め、大きく「社会的分業」止揚の問題に関わってくる)。
第二に、そもそも、人間は人間である限り、「超人」にはなりえないのではないか?……「自由」というのは、有限で弱く脆い人間達が、その有限性の中で追求し享受する「社会的自由」と「個人的自由」の微妙な連関・緊張関係の中で実現するものであり、「超人」の「自由」などありえるのか?……それは、ルソー的表現で言えば「人間は自由でなければならず、自由でなければならないが故に自由を強制される」逆ユートピアでしかないのではないか?……という人間論的レベルでの「自由」の問題。
この点に関しては、そうとう突っ込んだ議論が必要でしょう。