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<B>理論は理想をどう語り得るか</B><BR><BR> ―読者の方からの反応に寄せて5―</div> 『理論は理想をどう語り得るか
―読者の方からの反応に寄せて5―



はじめに

 1 総論―「イマジン」の論理の陥穽―

2 宗教止揚の問題

3 国家死滅の問題

4 分業止揚の問題

付1 ―ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスにおける<自由>の問題―

付2 ―滝村のマルクス批判の思想的意味―/a>

【注釈】



 分業の止揚の問題



 われわれがよりよい社会を目指していくとき、たえずマルクスに還り、マルクスの理論的遺産を滋養としなければなりません。
 マルクスとエンゲルスは、それまでの空想的社会主義者のように、未来の理想社会の具体的詳細な設計図を提出することの愚を固く戒めていました。アプリオリに理想を語るのではなく、いまある現実の歴史的社会を前提に、その科学的な分析(眞理の認識)から出発し、現実の中に未来への変革の芽、現実的諸条件(理想の実現可能性)を探るという、理論的姿勢を堅持しました。
 しかし、それにも関わらず、マルクスの場合、その学問体系が、若き日に抱いた共産主義人間解放思想(その根底には、極めて進歩的理想主義的な啓蒙思想からの影響がある)を終生把持し、その理想を科学的理論的に論証しようとする(プロレタリア革命の歴史的必然性を経済学という理論科学大系において学問的に論証できると考える)、ある種のアプリオリズムから完全に脱し切れてはいなかった。われわれは、マルクスの遺産を継承しつつ、

【 マルクスという思想家が、<理論>と<思想>を<原理的>峻別しつつ<実体的>に同一化していく思想的構造を有している。この理論=思想構造の否定面をきちんと押さえなければならない。】

   のだと思います。分業の止揚論もまた、このマルクスの<理論=思想の同一構造>との関連で、把握しなければならないでしょう。以下、この点を見ていきます。






『ドイデ』における分業止揚論の発想は、後期には放棄されたというような議論があります。
 しかし、『資本論』での断片的な「未来社会像」を見る限り、『ドイデ』の分業止揚論的発想は、後期においてより発展的に構想されている。

[ 資本主義の高度な展開が、プロレタリアートを、現実の労働過程において、様々な諸機能を代わる代わる受け持ち諸能力を発達させることで、現実的な未来の共産主義的主体たらしめるというかたちで、分業止揚の現実的基礎を生み出している。]

 こういうかたちで、後期においても発展的に継承されている。
 だから廣松渉も、『ドイデ』の「朝には漁師、昼には牧人…」の箇所をもって「牧歌的ユートピアを云々するのは論外」としながらも、「属人的に固定された分業の廃止という主張そのものは積極的に出されている」(『廣松渉コレクションU』259頁)ことは認めたり、マルクスはエンゲルスの分業論には否定的だったが最晩年の『ゴーダ綱領批判』になると「若いときからエンゲルスが主張していた固定化された分業をなくす考えに積極的賛成している」(同上 216頁)と言わざるをえないわけです。
 そもそも、マルクスの共産主義論も分業止揚論も、彼の基底的な<理論・科学>レベルの本質的な社会・人間観から導かれています。
 <思想>と<理論>の同一構造にあるマルクスが、その基底的な理論・科学レベルの社会・人間観を、初期から晩年まで原理的に一貫させている以上、共産主義論も分業止揚論もまた、後期においても把持されていると見るのが妥当でしょう。
“初期にはあった発想は後期には放棄された”というのは、マルクスという理論家=思想家の<理論=思想の実体的同一構造>をきちんと押さえた議論ではない。
 マルクスにあっては、<社会的分業>の止揚という場合、別に社会的諸機能・作用に対応した多様な役割分担を否定しているわけではありません。
 この点は、廣松渉が野球におけるプレイヤーの位置に喩えています。

「草野球のチームのように、機能的には分業編成でありつつも、原理的には誰もがどのポジションにも就きうるシステム」(『マルクスの根本意思は何であったか』情況出版 26頁)

 というのが、マルクスやエンゲルスのイメージでしょう。
 その役割分担が属人的に固定化し、その固定化された諸個人たちが、諸個人たち立場の共通性⇒利害の共通性⇒という風に階層的に固定化し、新たな階級・階層的分裂を阻止するという問題意識から、分業の止揚を論じている。滝村さんが言うように、マルクスの分業<止揚>論というのは、社会的<利害>の分裂<止揚>論として想定されています。
 したがってまた、分業は、単に社会経済組織の機能的分担の問題ではなく、国家統治を含めた公的な社会的全機能・全業務レベルの問題であり、分業の止揚は、ブルジョワ的な<政治・経済分離>(<社会構成>レベルでの社会的分業)止揚という構想において考えられることにもなります。






このブルジョワ的な<政治・経済分離>(<社会構成>レベルでの社会的分業)の止揚という発想が、革命主体としてのプロレタリアートの形成と<政治革命><社会革命>という思想的イデオロギー的問題へと<思想的に飛躍>したとき、パリコンミューンの理念化の問題性が、おおきく浮かび上がってくることになります。
 マルクスは、『フランスの内乱』で、「労働の経済的解放をなしとげるために、ついに発見された政治形態」と理念化しました。この「コンミューン型国家」が、分業止揚論において、共産主義社会論にとって決定的な意味を持ちます。
 「コンミューン型国家」は、ブルジョワ的な政・経分離的分業の<止揚>であり、三権分立という政治形態レベルの分業<止揚>であり、プロレタリア大衆が自らを<自己統治>することで、ブルジョワ的な公私の分裂を止揚する。
 経済組織としては、諸個人が、「あらかじめ定められた計画」に従い、意識的・計画的・合理的に経済社会組織を管理・統制し、分業を属人的に固定化することなく様々な諸機能を代わる代わる受け持ち諸能力を発達させ、自らを<陶冶>するかたちで分業を<止揚>する。
 そういう意味で、コンミューン国家は「労働の経済的解放をなしとげるために、ついに発見された政治形態」と称揚されます。
  マルクスによるパリコンミューンの理念化を、こういうブルジョワ政経分離的分業の<止揚>という脈絡で考え、ブルジョワ的公私の分裂<止揚>の問題として位置づけなければ、マルクスの分業<止揚>論は理解できません。
 では、マルクスの言うコンミューン型国家における政・経分離的分業の<止揚>、三権分立的分業の<止揚>という発想で、<政治革命>と<社会革命>やったら、どんなことになるのか?……。
 しかも、レーニンのように、マルクスの発想をそっくりそのまま<眞理>として受容し、強力無比な革命主体を形成するための最強最高の組織論を武器に、<政治革命>と<社会革命>やったら、どうなるか?……。
 この点はHPの「眞理は汝らに自由をえさしむべし」で展開しましたが、ここで再説しておきます。問題の核心は、次の点にあります。すなわち、

  【 <統治>レベルにおいても、経済社会組織レベルにおいても、社会構成員が様々な諸機能を代わる代わる受け持つというのは、村や町レベルなら可能だろうが、数千万から一億以上の人口を擁する現代国家・社会レベルでは、ほぼ不可能。これは、今後どんなに生産力が発達しても、いや、<発達すればするほど>ますます不可能になるということである。
 統治レベルでいえば、プロレタリア政治革命をやりブルジョワジーを打倒し、社会革命を遂行するためには、強大な専制的革命権力を創出しなければならない。そして、その革命権力を継続し、しかも過去の体制の公的業務と課題を引き継がなければならない。
 その上、革命権力は、ブルジョワ的な政経分離を止揚し、自ら立法し自ら執行する行動的コンミューン国家であり、政治的軍事的また経済社会的、文化的諸業務を一手に集中させるわけだから、様々な諸機能を代わる代わる受け持つという原則ではなく、高度な専門的技量を有する集団に委ねられざるをえない。
 その集団が、社会主義的に合理的な社会の管理・運営・統制に任じる以上、滝村が言うように、「物の管理・運営のかたちで人の支配が現れる」 】

 エンゲルスなら、プロレタリア国家では、ブルジョワジーは一掃され、戦争はなくなり、資本主義的ブルジョワ的社会につきものの無駄な浪費は消えてしまっているから、その公的業務はシンプルかつスリムというかもしれない。
 だが、ブルジョワジーを一掃し、戦争をなくし、資本主義的ブルジョワ的社会につきものの無駄な浪費を消すためには、どれほど強烈な<専制>権力が必要か……ということです。
 しかも、コンミューン型国家が専制国家として肥大化したら、三権分立否定の行動型国家である以上、その肥大化に内在的に歯止めを掛けることは原理的に無理で、いちど創出された専制権力が、その<専制>としての内在的論理に従うのは、歴史的=論理的に必然と言うことになる。<統治>という社会的分業を止揚するために、<統治>権力が専制化し巨大化しなければならないパラドックスである。
 この事態を考えるとき、滝村三権論は、大きな理論的思想的意義を有すると思います。
 滝村さんの議論は、『大綱』「特殊的国家論 第三篇」27項だけを全体から切り離して雑に読むと、“マルクスが文革期の急進的実験のようなものを構想していたと、滝村は批判している!”と理解しかねない叙述になっていますが、滝村さんが提出した「国家権力による社会の国家構成の必然性」という国家の一般構成原理、「統治・行政」の二重原理、「三権分立論」の展開を、それから「専制国家論」との関連でみていけば、そんな程度の低い批判ではない。

 以上述べたように、分業止揚論の一番のポイントは、<政治経済分離>という近代的<社会構成>の根本原理を止揚することができるのか?…止揚したとしたら、どういう社会構成が可能なのか?…というところにあります。
 管見では、世のマルクス主義者の中で、この<政治経済分離>という近代的<社会構成>の根本原理という大きな問題から、分業止揚の問題を捉える議論は、ただの一つもありません。
 これは当たり前で、世のマルクス主義者というのは、そもそも<社会構成>を、<経済的社会構成>に還元して論じる経済還元主義的発想が支配的です。そのため、<政治的社会構成>という実体的な制度的組織的枠組みにおいて、<社会>を統一的に論じる事が出来ない。
 この事態を国家論レベルで捉え返せば、若き日の滝村が提起した<広義の国家>(政治的社会構成)という原理的発想が、いまだにまったく学的に問題にされず、国家といえば国家権力という<狭義の国家>論レベルでしか考えられず、せいぜい「国家=幻想の共同性」論(注6)を抽象的に論じるだけでしかないということです。
 現在のマルクス主義者の分業止揚に関わる議論は、一番やっかいな国家の問題はネグったまま、たとえば廣西元信『資本論の誤訳』の先駆的業績に依拠し、マルクスの未来社会論がレーニン以降の「一国一工場制度」的なモデルではないと文献学的に考証したりするような議論に、とどまっています。






 経済社会的組織レベルの分業の問題では、芹沢俊介の『世紀末』での発現を想起すると話が分かりやすくなると思います。
 芹沢は、飛行体験シュミレーションマシーンのようなものを使って、素人でもパイロットになれる……みたいなことを述べています。
 現に、アメリカ国防省では、戦争シュミレーションゲームソフトを開発し、それを使って教育すると、武器に習熟していない新兵でも、実に効率的合理的に殺人マシーン的に育つとのこと。
 しかし、よく考えてみると、そういうシュミレーションゲームで、だれでも兵士になれ、だれでも最新鋭の器機に短期間で習熟できる一方で、そういう高度なシュミレーションゲームの開発においては、更なる高度な分業的分化が進展している。
  結局、滝村が言うように、高度生産力を維持・発展させること自体、<分業>の進展と裏腹の関係にある。
 諸個人の能力を<全人的>に発達させ、属人的な分業の固定化を止揚し、共産主義的人間の<陶冶>ができるようになるためには、分業を止揚するための分業を進展させるという、いたちごっこみたいなことになるでしょう。それが<世界史的現在>というものです。
 決定的に重要なのは、ここでも、全社会的レベルでの管理・運営・統制の問題であり、<統治>と<経済社会的行政>における管理・運営・統制の背後で、<人による人への支配>が貫徹する構造が、止揚されることなく拡大再生産されていく。
 これを食い止めるために、たとえば「スローライフ」のような発想で、そういう高度生産力の進展自体を部分的に鈍化させたり停めたりという選択肢も、可能といえば可能でしょう。
 しかし今度は、では、どのレベルで無駄な分業的分肢を見極め、選択し、廃棄し、社会的資源をどう合理的効率的に再配置するのか?……が問題になる。
 合理的・効率的な「社会的理性」による計画を、<誰>が作成し、<誰>が命令するのか?……という管理・運営・統制主体と、その実体的な社会的・制度的枠組みの問題があらためて浮かび上がってくる。
 滝村が、マルクスの分業止揚論について、「現実をみた議論」ではなく、「思弁」であり「頭で創っている」と述べているのは、この管理・運営・統制主体とその実体的な社会的・制度的枠組みの問題を、完全にネグッた議論ではないか、という問題に繋がっています。
 現代のマルクス主義者たちは、マルクスの文献解釈的なレベルで、“マルクスの未来の経済社会的な構想は、一国家一工場的な国営市場主義ではない”と一生懸命文献考証的に議論を積み重ねていますが、あまり実のある議論になっていないように見受けられます。
 その根本的な原因は、近代的な政・経分離という<社会構成>に関わる大きな原理的問題を踏まえた上で、合理的・効率的な「社会的理性」(マルクス)による計画を、<誰>が作成し、<誰>が命令し、<誰>がどのように管理するのか?……という社会的な管理・運営・統制<主体>と、その実体的な<社会的・制度的枠組み>の問題を完全にネグったまま議論しているからです。

 “いやあ、マルクスも未来社会の「ブループリント」を作ることを差し控えたわけで。でも、未来の高度生産力を前提にすれば、それは可能だ”
 とばかりに、楽天的かつ待機主義的かつ経済還元主義的に、“共産主義的未来”を語っているようにしか見えません。わたしは、彼らの文献学的考証を否定するわけではありませんが、

  【だからぁ、「未来の高度生産力」を維持発展させ得る社会的な管理・運営・統制<主体>は<誰>で、その実体的な<社会的・制度的枠組み>がどういうものか?…それは、いまここにある現実の歴史的社会の中で、どういう脈絡で生まれてくるのか?……が、問題の核心だと言ッとろおうがぁ! <現在>の<現実>から<未来>像を導けないってことは、現実の歴史的現段階に、資本主義とは異なる「未来の高度生産力」の現実的諸条件を発見できていないってこったろうがぁ!!】

 とツッコミを入れなきゃならんでしょう。
 わたしたちが社会主義という問題を考え、社会主義を構想していくとき、こういう問題をきちんと語れなければ、空理空論を自慰的に弄ぶ高等駄弁の哲学談義でしかなく、社会主義も共産主義を理論的に語ったことにはならないでしょう。





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