このブルジョワ的な<政治・経済分離>(<社会構成>レベルでの社会的分業)の止揚という発想が、革命主体としてのプロレタリアートの形成と<政治革命><社会革命>という思想的イデオロギー的問題へと<思想的に飛躍>したとき、パリコンミューンの理念化の問題性が、おおきく浮かび上がってくることになります。
マルクスは、『フランスの内乱』で、「労働の経済的解放をなしとげるために、ついに発見された政治形態」と理念化しました。この「コンミューン型国家」が、分業止揚論において、共産主義社会論にとって決定的な意味を持ちます。
「コンミューン型国家」は、ブルジョワ的な政・経分離的分業の<止揚>であり、三権分立という政治形態レベルの分業<止揚>であり、プロレタリア大衆が自らを<自己統治>することで、ブルジョワ的な公私の分裂を止揚する。
経済組織としては、諸個人が、「あらかじめ定められた計画」に従い、意識的・計画的・合理的に経済社会組織を管理・統制し、分業を属人的に固定化することなく様々な諸機能を代わる代わる受け持ち諸能力を発達させ、自らを<陶冶>するかたちで分業を<止揚>する。
そういう意味で、コンミューン国家は「労働の経済的解放をなしとげるために、ついに発見された政治形態」と称揚されます。
マルクスによるパリコンミューンの理念化を、こういうブルジョワ政経分離的分業の<止揚>という脈絡で考え、ブルジョワ的公私の分裂<止揚>の問題として位置づけなければ、マルクスの分業<止揚>論は理解できません。
では、マルクスの言うコンミューン型国家における政・経分離的分業の<止揚>、三権分立的分業の<止揚>という発想で、<政治革命>と<社会革命>やったら、どんなことになるのか?……。
しかも、レーニンのように、マルクスの発想をそっくりそのまま<眞理>として受容し、強力無比な革命主体を形成するための最強最高の組織論を武器に、<政治革命>と<社会革命>やったら、どうなるか?……。
この点はHPの「眞理は汝らに自由をえさしむべし」で展開しましたが、ここで再説しておきます。問題の核心は、次の点にあります。すなわち、
【 <統治>レベルにおいても、経済社会組織レベルにおいても、社会構成員が様々な諸機能を代わる代わる受け持つというのは、村や町レベルなら可能だろうが、数千万から一億以上の人口を擁する現代国家・社会レベルでは、ほぼ不可能。これは、今後どんなに生産力が発達しても、いや、<発達すればするほど>ますます不可能になるということである。
統治レベルでいえば、プロレタリア政治革命をやりブルジョワジーを打倒し、社会革命を遂行するためには、強大な専制的革命権力を創出しなければならない。そして、その革命権力を継続し、しかも過去の体制の公的業務と課題を引き継がなければならない。
その上、革命権力は、ブルジョワ的な政経分離を止揚し、自ら立法し自ら執行する行動的コンミューン国家であり、政治的軍事的また経済社会的、文化的諸業務を一手に集中させるわけだから、様々な諸機能を代わる代わる受け持つという原則ではなく、高度な専門的技量を有する集団に委ねられざるをえない。
その集団が、社会主義的に合理的な社会の管理・運営・統制に任じる以上、滝村が言うように、「物の管理・運営のかたちで人の支配が現れる」 】
エンゲルスなら、プロレタリア国家では、ブルジョワジーは一掃され、戦争はなくなり、資本主義的ブルジョワ的社会につきものの無駄な浪費は消えてしまっているから、その公的業務はシンプルかつスリムというかもしれない。
だが、ブルジョワジーを一掃し、戦争をなくし、資本主義的ブルジョワ的社会につきものの無駄な浪費を消すためには、どれほど強烈な<専制>権力が必要か……ということです。
しかも、コンミューン型国家が専制国家として肥大化したら、三権分立否定の行動型国家である以上、その肥大化に内在的に歯止めを掛けることは原理的に無理で、いちど創出された専制権力が、その<専制>としての内在的論理に従うのは、歴史的=論理的に必然と言うことになる。<統治>という社会的分業を止揚するために、<統治>権力が専制化し巨大化しなければならないパラドックスである。
この事態を考えるとき、滝村三権論は、大きな理論的思想的意義を有すると思います。
滝村さんの議論は、『大綱』「特殊的国家論 第三篇」27項だけを全体から切り離して雑に読むと、“マルクスが文革期の急進的実験のようなものを構想していたと、滝村は批判している!”と理解しかねない叙述になっていますが、滝村さんが提出した「国家権力による社会の国家構成の必然性」という国家の一般構成原理、「統治・行政」の二重原理、「三権分立論」の展開を、それから「専制国家論」との関連でみていけば、そんな程度の低い批判ではない。
以上述べたように、分業止揚論の一番のポイントは、<政治経済分離>という近代的<社会構成>の根本原理を止揚することができるのか?…止揚したとしたら、どういう社会構成が可能なのか?…というところにあります。
管見では、世のマルクス主義者の中で、この<政治経済分離>という近代的<社会構成>の根本原理という大きな問題から、分業止揚の問題を捉える議論は、ただの一つもありません。
これは当たり前で、世のマルクス主義者というのは、そもそも<社会構成>を、<経済的社会構成>に還元して論じる経済還元主義的発想が支配的です。そのため、<政治的社会構成>という実体的な制度的組織的枠組みにおいて、<社会>を統一的に論じる事が出来ない。
この事態を国家論レベルで捉え返せば、若き日の滝村が提起した<広義の国家>(政治的社会構成)という原理的発想が、いまだにまったく学的に問題にされず、国家といえば国家権力という<狭義の国家>論レベルでしか考えられず、せいぜい「国家=幻想の共同性」論
(注6)を抽象的に論じるだけでしかないということです。
現在のマルクス主義者の分業止揚に関わる議論は、一番やっかいな国家の問題はネグったまま、たとえば廣西元信『資本論の誤訳』の先駆的業績に依拠し、マルクスの未来社会論がレーニン以降の「一国一工場制度」的なモデルではないと文献学的に考証したりするような議論に、とどまっています。