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理論は理想をどう語り得るか
―読者の方からの反応に寄せて5―
『理論は理想をどう語り得るか
―読者の方からの反応に寄せて5―
はじめに
1 総論―「イマジン」の論理の陥穽―
2 宗教止揚の問題
3 国家死滅の問題
4 分業止揚の問題
付1 ―ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクスにおける<自由>の問題―
付2 ―滝村のマルクス批判の思想的意味―/a>
【注釈】
【付2 滝村のマルクス批判の思想的意味】
マルクス共産主義的人間解放思想は、従来の共産主義思想とは画然と区別されるレベルにある。
従来の共産主義思想が「空想的」といわれるのは、現存する歴史的社会の社会構造の理論・科学的分析抜きに、将来のあり得べき共産主義的社会像を思想・イデオロギー的に設定・構想し、そのレベルから現実の社会と歴史の悲惨・ブルジョワ社会の形式的自由・平等と実質的不自由・不平等(注2)
を批判・糾弾し、将来のあり得べき賞賛主義的社会像を詳細に「ブループリント」として社会変革・改造を指向するところにある。
マルクスは、将来のあり得べき共産主義的社会像を胸に抱きながら、現存する歴史的社会の社会構造の理論・科学的分析に全力を傾注した。このことは、思想家マルクスが、
(1)哲学から科学へという近代的な<知>の流れの中にあり、思想・イデオロギー的立場と理論・科学的認識の<原理>的分化・分離の方向性を踏まえた思想家である。しかし同時に、
(2)思想・イデオロギー的立場と理論・科学的分析を<原理>的にも<実体>的にも壮大な<哲学大系>へと統一・融合しているヘーゲルの根本発想(ヘーゲルに限らず、哲「学」としての哲学とはそういうものである)を、個別科学的レベルで継承している。
すなわち、思想・イデオロギーと理論・科学を<原理>的に峻別しつつ、<実体>的には同一化し、<理論・科学>的な経済学的分析がそのまま「社会主義的変革の歴史的必然性」の論証へと収斂するという、理論=思想構造になっている。
マルクスの場合、フォイエルバッハ的な「哲学的良心を清算」するかたちで、若き<哲学=思想家>マルクスは<科学・理論=思想家>マルクスになった。
しかし、『資本論』を構築した<科学・理論家>マルクスは、初期の理想主義的人間解放思想を基底的に把持し、終生、その人間解放思想を学的に基礎づけようとする<科学・理論=思想家>であり続けた。
プロレタリアートを人間解放のための革命主体として想定するのは、初期マルクスから終生変わらなかった思想的・イデオロギー的確信であり、『資本論』でもまた、「資本主義の墓掘人」プロレタリアートがその世界史的使命を果たしえる現実的必然性を、経済学的基礎から論証する方向で、その未来社会論を断片的に語っている。初期に述べた分業止揚論と後期マルクスの経済学的探求の関係も、こういう理論=思想構造との関連で、押さえなければならない(この点後述)。
マルクス唯物史観は、理論的・科学的な<世界史的社会構成論>と、そこに自己の思想的・イデオロギー的視点を合わせた<階級闘争史観>が、密接不可分ものとして統一され、そういうものとして、経済学的解明の「導きの糸」となった。
「ブルジョワ社会を永遠のもの」と見なす古典派経済学ではなく、ブルジョワ社会を歴史的に特殊な階級社会・もっとも発展した階級社会として措定するマルクスの立場こそが、剰余価値の科学的解明を可能にした。
しかし、<理論>と<思想>を<原理的>峻別しつつ<実体的>に同一化していく思想構造は、マルクス主義へと至る<芽>を胚胎させていた。
これは、思想家マルクスが後世のマルクス主義者とまったく同じアナのムジナとか、同罪というような意味ではない。
@マルクスの唯物史観における<階級闘争史観>がイデオロギッシュな方向性に作動し、<世界史的社会構成論>の枠組みを超えた革命的プロレタリアートの<世界革命>的主体形成論となり、
A経済学者特有の経済還元主義的発想が、『資本論』その他後期の著作のそこかしこにあり、とりわけ断片的な未来社会論を大きく規定し、
Bパリコンミューンの理念化により、政経分離(社会的分業)止揚・三権分立(政治形態レベルの分業)止揚というコンミューン型国家論が生まれた。
マルクスが把持したそれらの理論的諸前提を、レーニンたちがまるまる思想・イデオロギー的かつ科学・理論的な<眞理>として継承した。
レーニンたちの<プロレタリア政治革命>と<社会革命>の現実的展開において、マルクスが抱えていた理論的諸前提が、その後の現存「社会主義社会」に基底的な影響を及ぼし、<結果的>に、<理論的>には正当な<社会・人間>観から、<思想的>にファシズムもどきの<社会・人間・人生観>が帰結することにもなった。
その危険性は、マルクス・エンゲルスの理論=思想構造の中に潜在していた……、ということになる。
これはたとえば、生物学において正当な生物進化論(ダーウィンの、ということではなく、今西をも含めた進化論的発想の正当性という意味)が、醜悪な社会進化論へと<思想的に飛躍・転成>する事と、論理的には同一だろう。
マルクスを思想的に糾弾するとかそういうことではなく、マルクスとマルクス主義は、孔子の思想と朱子学・陽明学が「同じ」である程度において「同じ」という、その<連続性>をきちんと理論的かつ思想的に問題にしなければならない。
私が滝村理論を高く高く評価するのは、厳密なマルクス思想の理論的検討と批判の可能性を、我々に開示してくれたと思うがゆえである。
滝村理論は、ヘーゲル・マルクスの正統な嫡子でありながら、<理論>と<思想>を<原理的>峻別しつつ<実体的>に重ねていくマルクス的理論=思想構造には、なっていない。
滝村は、「社会と政治のアナリスト」として、歴史的に<現実>に存在してきた世界史的社会・国家・人間を対象的素材として、国家と政治の<理論>を創り上げてきた。
この学的立場からすれば、<思想・イデオロギー>を語る場合も、<現実>にある<社会><国家><人間><自由><平等>etcの<理論>的解明を前提に、現実にある<社会><人間><自由><平等>に即した<理想>を、限定的に語るということになるのであろう。
これを逆に言えば、歴史的にこれまで一度も存在したことのない歴史過程(人類本史)を想定し、そのレベルからブルジョワ社会の形式的自由と実質的不自由・形式的平等と実質的不平等を思想的に撃つ<哲学=思想家>的発想を、取っていないということである。
また、歴史的にこれまで一度も存在したことのない「真に自由なる社会」の現実的可能性を、理論的・科学的に論証しようという、<理論・科学=思想家>的立場を、取ってはいないということでもある。
滝村の場合は、<科学・理論=思想家>マルクスに内在する<歴史・社会・経済のアナリスト>的性格を継承するかたちで、<歴史・社会・政治のアナリスト>へと自らを純化した。
だから、 滝村が国家の死滅を論じる場合も、“国家は永遠だ!……国家は不滅だ!!”というイデオロギッシュな言い方をしていないし、<歴史・社会・政治のアナリスト>の分限を弁えた言い方をしている。
国家が歴史的に生成発展してきた現実的根拠を、『国家論大綱』全体で執拗に論証し、その上で、国家の死滅に関しては、社会が国家として構成される現実的必要と必然性がある限り、その限りで国家は存続する(逆に言えば、国家存立の現実的諸条件が消滅すれば国家もまた消滅する)という言い方である。
この理論家的立場を理解できないと、マルクス主義者によくあるイデオロギッシュな学問観、すなわち、“弁証法は、ただ単に現実を解釈するためのものではなく、未来への変革を透視するものでなければならない”とか、“経済学者は、社会主義的変革の必然性を語る者でなければならない”、“政治学者は、国家の死滅の必然性を論証しなければならない”という風に、弁証法論者や社会科学者を“未来予想イデオロギー屋”に貶めることになってしまう。
なるほど、人間には<理想>がなければダメというのは、真実である。しかし、<理想>は完全なる実現が不可能だからこそ<理想>なのではなかろうか?……という<理想主義>への懐疑というか疑念を根源的に孕んでいない思想は、危ういものなのである。
滝村国家論の場合、歴史的に<現実>に存在してきた世界史的社会・国家・人間を対象的素材として、<理論>を創るということそれ自体が、いまだ実現せざる真の<自由><平等>というレベルから現実を斬る!……というマルクス主義的発想への、学問的批判たりえている。
私は、これが、<社会と政治のアナリスト>に徹するという、学的探求者の<理論>的分限の弁え方だと考えている。
私はそこにこそ、滝村理論の<思想>的意義を見いだしたい。もっといえば、<歴史と経済のアナリスト>というマルクスの社会科学者的真骨頂を、<理論>的正嫡として継承しているのは、まさにそういうところだろう。
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