【眞理は汝らに自由を得さすべし】

―社会科学的<人間>規定とイデオロギー的<人生>観―


(読者の方々からの反応に寄せて4)




 はじめに

1 理論・科学レベルの<社会・人間>規定と思想・イデオロギーとしての<人間観・人生観>

2 眞理は人を自由にする

3 社会と歴史のアナリストの評価を巡って

4 マルクス共産主義社会論概括の正否

5 マルクス主義人間解放思想に対する<理論>的把握の正否

6 <理論>的<思想>把握の意義

7 マルクスの理論的諸前提

8 革命的逆ユートピアの論理的プロセス

9 ユートピアと人間的自由の問題

 おわりに





  はじめに


 今回の改訂で、ごく少数の方々にHP更新のお知らせメールを差し上げておりますが、これまで何度かメールの往来のあった読者の方から、次のような返信メールを頂戴しました(イニシャルを取ってNさんとします)。
 滝村のマルクス人間解放思想批判に関するメールです。なかなか面白い問題ですので、Nさんへの御返事というかたちで、少し自分の考えを述べてみたいと思います。
 マルクス主義や共産主義・社会主義などの<思想>的問題については、滝村国家論とは別に、私自身思うところがありますが、マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンなどの古典、社会主義史に関わる基本文献も読み直さずに、軽々に迂闊なことは言えないな……と思っています。
 しかしまあ、基本的なことだけは、ごく簡単に、草稿というかノート的なレベルでも、ここに書き留めておいた方がいいでしょう。
 Nさんの御議論を踏まえ、滝村のマルクス主義批判を考えるにあたり、まず、前提的かつ総括的な話をします。



1 理論・科学レベルの<社会・人間>規定と思想・イデオロギーとしての<人間観・人生観>


   人間というものは、自らの生きる世界を、世界全体としてトータルに捉えたい、そして出来ることなら、世界の深奧の秘密の核を掴まえたい……という知的欲求を、必然的に持つものです。
 だからこそ、「哲学という学問」の知的需要は尽きることなく、自然・社会・人間を貫く世界全体のトータルな認識としての「哲学という学問」は、現在でもその命脈を保っています。
 しかし、近代以降の知的世界を一瞥すれば、「学問としての哲学」は、大きく<思想・イデオロギー>と<理論・科学>に、<原理的>にも<実体的>にも分化していることが分かります。
 この学的発展は、大きく四つの意味を持っています。 

 第一に、世界を世界全体として統一的に捉える(世界認識)知的課題は、「哲学という学問」ではなく、この世界に生きる己の<主体的・実践的・能動的な構え>をいかに創るか?……という、<思想・イデオロギー>的フィールドの課題となりました。

  <思想>とは、
【この世界(自然・社会・人間)がいかにあるべきか?……己はそれに主体的にどう関わるべきか?……】

 という主体的・実践的・能動的認識(理念)を、体系的に展開したものだと思います。
 <イデオロギー>とは、<思想>というものを、とくに、己の階級的・党派的立場に規定された実践的認識(理念)として捉えたもの、

【この社会(政治・経済・文化)をいか変革していくべきか?……己はそれに主体的にどう関わるべきか?】

 という主体的・実践的な社会・歴史認識(理念)を、体系的に展開したものです。
 <思想・イデオロギー>的課題は、倫理的・道徳的・宗教的な精神文化的価値観が絡んできて、究極的には、<
BR> 【人間いかに生き・死ぬべきか?……】

という<人間観・人生観>の問題に帰着します(そういう意味で、思想・イデオロギーは<学問>に非ず)。

 第二に、理論・科学は、世界を世界全体として統一的に捉える世界「学」ではなく、現実世界の有り様に即して、自然科学・社会科学・精神科学へと大きく分化します。そしてさらに、その現象的な領域分化に即して、個別諸科学に分化します。
 たとえば、政治的社会構成・経済的社会構成・精神文化的諸形態に即して、それぞれ政治学・経済学・精神文化的諸科学へと分化し、分化しつつ、体系的な学問として生成―発展することで、今度は、他の隣接諸領域の成果を取り込んだり影響されたりという学際的連関が、必要に応じて生まれてきます。
 この<理論・科学>と<思想・イデオロギー>の関係は、

【世界(自然・社会・人間)は、いかにあるべきか?……】

 という実践的認識(思想・イデオロギー)の基底に、

【そもそも、世界(自然・社会・人間)は、どういうものなのか?……】

   という<理論・科学>的認識が控えている、そういう<媒介>的関係となっています。
 その人の<思想>の高さは、科学的な現実把握力の深さと広さ=<理論>水準に大きく規定されています(ただし低い<理論・科学>的現実把握から、深い<思想>的提起が為されたりして、<理論>と<思想>の媒介関係は単純かつ一様ではないが)。 
 この<理論・科学>と<思想・イデオロギー>の<媒介>関係に自覚的でないと、理論・科学と思想・イデオロギーを形式的かつ機械的に分離する発想(いわゆるseinとsollenの二元論)に陥ることにもなります。

    第三に、<世界観>(自然観・社会観)というものが、<理論・科学>と<思想・イデオロギー>への分化・独立によって、<理論・科学>レベルの世界観と、<思想・イデオロギー>としての世界観という二面性を、帯びることになります。

 a)<理論・科学>レベルの世界観

 哲学体系から個別諸科学へという<学>の発展によって、世界をまさに世界全体としてトータルに捉えたい、世界の深奧の秘密の核を掴まえたい……という知的課題は、学問・理論・科学とはまったく次元の異なる<思想・イデオロギー>的領域の問題に限定され、押し込められたままではありません。
  高度に専門分化した個別諸科学・理論に、深く静かに内在するように、弁証法的にして唯物論的な科学的自然観・社会観が、おおきく<媒介>的に、個別諸学を基底的レベルから支えます。
 弁証法的・唯物論的な自然観・社会観は、あくまでも、抽象的・一般的な自然「観」・社会「観」です。
 したがって、自然「観」・社会「観」それ自体は、「学」というに相応しい理論的内容構成を有しませんが(注1)、いわば理論的・科学的な「導きの糸」としての基底的役割を、果たすことになります。

b)<思想・イデオロギー>としての<世界観>
 
 他方、自然観・社会観は、そういう<理論・科学>的性格とともに、<思想・イデオロギー>的方向性でも、重要な役割を担います。
 たとえば、ダーウィンの生物進化論とそれを支える自然観は、あくまでも、自然科学としての生物学のフィールドで開拓されたものです。しかしそれにも関わらず、その基本発想を、社会・歴史的認識にまで拡張・転成的に飛躍させると、スペンサー流の「社会進化論」になり、自由主義保守思想の一部に取り入れられたり、人種優越論などのイデオロギー的役割(注2)を担ったりします。
  <理論・科学>レベルの自然観・社会観が、<思想・イデオロギー>レベルの自然観・社会観へと転成的に飛躍すれば、最終的には、

【人間は、自然に、社会に、人間そのものに、いかに関わり、どう向き合うのが正しい生き方なのか?】

 という<人間観・人生観>の問題に帰着します。
 これから論じる問題は、
<理論・科学>レベルの<本質論的社会観>(<個人―即―社会>と<社会―内―個人>の統一)と、それに規定された<本質論的人間観>が、
<思想・イデオロギー>としての<人生観・死生観>へと拡張・転成的に<飛躍>すると、いったいどういうことになるのか?……という問題です。
 この<理論・科学>レベルの<社会・人間観>と<思想・イデオロギー>としての<人生観・死生観>の問題は、

【人間にとって自由とはなにか?】

 という問題でもあります。


(注1)
 この唯物論的にして弁証法的な自然観・社会観それ自体は、あくまでも科学的な自然「観」社会「観」です。
 科学的な自然「観」社会「観」それ自体は、個別科学の大系のような具体的かつ膨大な学問的理論構成など、とるわけがありません。 
 それはそうでしょう。唯物史「観」それ自体を、どんなに膨らませて記述してもせいぜい数十行。唯物史観「学」など成り立ち得ない。
 これは「弁証法」も同じです。
[万物は絶えざる生成―発展―消滅の過程にあり、有機的に相互に連関しあっている]
 という弁証法的文言に、エンゲルスの三大法則を絡めて記述しても、やっぱり十数行。その十数行に、“ほら、こういう事例は弁証法の見本だ”とばかりに、自然科学や社会科学の実例を集積して叙述しても、それは厳密な学的・理論的<体系>性をもちえません。

   (注2)
 <理論・科学>レベルの弁証法的諸規定が、<思想・イデオロギー>レベルの弁証法的発想へと転成的に飛躍するということも、おこります。
学的体系構成法としての弁証法や、弁証法の三大法則という理論・科学的レベルを超えて、<思想・イデオロギー>的方向で使用され、“原始共産主義→階級社会→共産主義は否定の否定”とか、“人類の進歩的変革を見透す弁証法”などという風に通俗化されると、弁証法の学的信用をガタガタに落とすことになります。




2 眞理は人を自由にする

 マルクス・エンゲルスの思想には、直接の学的系譜でいえばヘーゲル哲学、より大きく広くみれば、「眞理は汝らに自由を得さすべし」(ヨハネ傳福音書第八章三十一節)」という西欧キリスト教的伝統発想が、バックグラウンドとしてあります。
 もちろん、キリスト教的「眞理」とマルクス主義的「真理」では中身が違うわけですが、発想の型においては共通するものがあるということです。
 マルクス・エンゲルスは

、 【 自然的・社会的・精神的事象に客観的に内在する<真理性>を理論体系的に洞察し、主体的に獲得した<真理にしたがう>ことで、はじめて人間主体は<自由>になれるのである 】

 という立場で、<必然性>の洞察(認識)に媒介された<自由>の在り方を提起しています。
 この発想自体はまったく正当なものだと思いますが、これを理想社会論との絡みで言い直すと、

 [ 人間というものは、<本質的>に、「肉体的にも精神的にも相互に造り合う」gesellschaftlicheな社会的存在である。 
人間主体は、その自らの<本質>を理論的に深くただしく洞察・認識しなければならない。
 そして、現実的歴史的な直接の社会的制度・組織においても、gesellschaftlicheな<本質>に見合うかたちで、その<本質>を顕在化するかたちで、社会(social)を、内部調和的・非敵対的な協同社会gemeinschaftとして、実践的に創り変えなければならない。
 諸個人が、自らの<社会的本質>を透明かつトータルに認識し、その<真理>に基づき・その<真理>を歴史的現実において顕現させるべく<社会的>に生きることこそが、エゴイズムにまみれたブルジョワ的自由(恣意)・ブルジョワ個人主義を超えた、真の<社会的自由>なのであり、ブルジョワ的な「公私の分裂」の<止揚>なのである。]

 ということになるでしょう。
 こういう「自由」の捉え方は、近代社会が到達した<個人的自由>とは異なる水準の<自由>論です。
 われわれが通常一般的に考える「自由」とは、

【 個人主体が、自らの主体的意志と責任において、政治的・経済社会的また文化的な諸領域で自由に活動し、その結果が吉と出よう凶と出ようが、その結果責任は自らが主体的に背負う 】

   という<個人的自由>です。そして、堕落したりヤクザなデラシネ生活送ったりという恣意的自由をも含めて、<個人的自由>は存在するものと、一般的には考えられます。
 ところがマルクス・エンゲルスの場合は、そういう一般的常識的レベルではなく、
『資本論』で言う「社会化された個人」が、「社会的理性」または「結合された理性」(国民文庫訳。長谷部訳だと「社会的悟性」)を働かせ、その「社会的理性」に従い、合理的に、内部調和的に、社会を統制・管理・運営することで、「社会化された個人」は、真に<社会的に自由な個人>たりえる
 という発想です。
 この発想は、明らかに「眞理は汝を自由にする」というキリスト教的土壌の上で咲いたものと見ることが出来るが、マルクス・エンゲルスの場合、「真理」と「自由」つなげ方が、他の近代思想家・理論家とは異なる特殊な性格をもっていることに、留意しなければならないでしょう。

   先に述べたように、近代以降の学問的発展においては、

(1)「真理は汝らに自由を得さすべし」というときの「真理」を、<理論>的に認識(自然・社会・人間とはなにか?)することと、

(2)その「真理」に従って人間が生きるときの主体的・実践的な<思想>的立場性(自然・社会・人間はいかにあるべきか?)

 が、<原理>的にも<実体>的にも分離・分化する方向に進みます。
  しかしマルクス・エンゲルスの場合、近代以降の一般的な意味での<理論・科学>と<思想・イデオロギー>の実体的な区別・分離発想を、提起しているわけではありません。
 自己の社会科学的<理論体系>それ自体に、自己の主体的・実践的な共産主義的<思想・イデオロギー>としての性格を孕ませる、というのがマルクス・エンゲルスの基本発想です。ここが、他の近代以降の理論家たちとは異なる特殊性だと思います。
 昔、宇野弘蔵らと正統マルクス経済学者たちの間で、「マルクス経済学」かそれとも「マルクス主義経済学」かという議論がありましたが、マルクスその人にとって、自分の経済学は単なる純粋<理論・科学>ではない。
 自らの共産主義思想の正しさを科学的・理論的に論証しえる、すなわち、資本主義社会の高度な発展による社会主義的変革の歴史的必然性を、学的・理論的に認識するものである。
理論・科学と思想・イデオロギーを<原理>的に区別しつつも、<実体>的には重ね合わせていく(マルクスの師匠・ヘーゲルの哲学大系の場合は、<理論>と<思想>を、<原理>的にも<実体>的にも統一的な哲「学」へと収斂させているが、そもそも哲学とはそういうものです)。
 このマルクス的立場は、彼の共産主義論を考えていくうえで、極めて重大なポイントです。
 マルクスの思想体系は、<理論・科学>と<思想・イデオロギー>の実体的同一性という構造になっていて、それを信奉する党派は、そのマルクスの学的体系の構造を丸ごと<真理>として受容する。
「資本主義社会の高度な発展による社会主義的変革の歴史的必然性」(真理)を自覚し、「人類前史」の幕を下ろし「人類本史」の幕を上げる崇高な世界史的使命を体現するプロレタリアートの階級的立場に立ち、その<真理>を現実的に顕現させる、崇高な使命を担う、ということになる。
 マルクス自身の思想の中に、<マルクスからマルクス主義へ>という路線がぱ〜〜んと引かれていたというか、マルクス思想そのものに、マルクス主義へと育つ芽が胚胎しています。
  後年のマルクス主義者たちが、自らの立場を科学的<真理>として誇り、その<真理>に従うことこそが、真の<社会的自由>であり、個人の恣意性に委ねられた「ブルジョワ個人主義的自由」などを超えたものなのだと自負を抱くのも、そもそもの発想としては、マルクス・エンゲルスに、さらに遡ればヘーゲルにあるわけです。
 マルクス晩年の作品に、「バクーニン『国家と無政府』ノート」というのがあります。
 バクニーンがマルクスたちを批判し、
「プロレタリア国家では、ドイツ人数千万人が数千万人すべて政府の構成員になるのか?」
 という言葉に対して、マルクスは開き直るように、
「まさにそうだ、全人民が全人民を自己統治するのだ」
 と言い放っています。
 マルクスのパリ・コンミューン原則の理念化においては、ブルジョワ的な政治・経済の分業を<止揚>すべく、この「全人民」がすべて国家構成員になり、「自己統治」する過程において、人民自らが自己を「陶冶」し、<人間的本質を全面的に発展させた自由なる個人>をとして、人間的本質にふさわしい社会(共産主義)を実現する。
  「全人民」は、「人類前史」に幕をおろし「人類本史」の幕を上げる人類史的使命を担う。人類史の歴史的必然性を認識し、<真理>に従い、<真理>を体現して生きることで、堕落したブルジョワ的自由を超えた真に<社会的に自由な存在>になるというわけです。 
 私は昔、友人との議論の中で、
「マルクス・エンゲルスの思想を、忠実に継承したのは、レーニンなのか?……それともカウツキーなのか?……」
という議論をしたことがあります。
 マルクス・エンゲルスの思想には、どちらにも向かい得る芽が本質的に内在している、というのが私の結論でした。
 資本主義の高度な展開が社会主義的変革を必然化するという、マルクス主義の基本発想を堅持しながら、実質的には議会主義路線を歩みつつプロレタリア革命を(待機主義的に)切望するのが、カウツキー(プロレタリア革命を拒否し議会主義的社会改良主義に純化するのが、ベルンシュタイン)。
 マルクスのパリ・コンミューン理念化を断固として継承し、議会主義的路線によらずプロレタリア<政治革命>によるブルジョワジー打倒と<社会革命>を強力に展開する途を選んだのがレーニン。
 しかし、そのプロレタリア政治革命と社会革命を可能にする<人間主体形成>とは……。

 <真理>に生き<真理>に従う真に<自由>な生き方という発想は、マルクスのの<本質論的な社会観・人間観>に大きく媒介されながら、「プロレタリアートの戦士」的に特異な<人生観・死生観>を結実します。
 この「プロレタリアートの戦士」的<人間観・人生観・死生観>においては、<個人的自由>の問題が<社会的自由>の問題に、<個人的解放>の問題が<社会的解放>の問題に重ね合わされている。
 これは、ヘーゲル・マルクス・エンゲルス的な<社会観・人間観>に内在する<社会なくして個人なし>という理論的に正当な発想が、個人という位相を捨象するかたちで、<思想>的に飛躍させられたものと見ることが出来る。すなわち、

<社会あっての個人であり、個人あっての社会ではない>
            ↓
<社会の歴史的必然性を認識・自覚し、その必然に従い、必要ならそれに殉じる「社会化された人間」の主体的人生こそが、真に自由に生き・死ぬことなのだ>
            ↓
<人類の究極の理想、その崇高な大義の前には個人の生命など問題にもならぬ>
 という<思想>的飛躍です。
 そしてここが重要なところですが、この特異な<人生観・死生観>は、なにも共産党員・共産主義者だけのものではない、ということです。これは当然でしょう。 
 マルクスのパリ・コンミューンの理念からすれば、政治的・公的レベルでの分業を止揚し、「全人民」が「自己統治」することで自らを「陶冶」しなければならないのだから、なにも共産党員・共産主義者だけの生き方に限定されない。
 
  滝村さんは『世紀末』で、

「国家を死滅させるために、個々人の人生にたいしては回り道も何も許さないというような社会的状態をつくるためには、もの凄い専制権力をつくらないとできない。<国家の死滅>を可能にする社会的な前提条件そのものが、専制国家を肥大化させる」

 という発言をしています。
 「個々人の人生にたいしては回り道も何も許さないような社会状態」というところを読み、わたしは、ドストエフスキー的な、「人間は<幸福>に生きなければならないが故に、<幸福>に生きることを強いられる社会」の悲劇的喜劇的パラドックスを思い出しました。
 それから、昔、漫画家のジョージ秋山漫画家が「デロリマン」(?)というマンガで、この悲劇的喜劇を描いたことも思い出しました。
 人類のダラシナサを見るに見かねて、ある日宇宙人が地球に舞い降り、「正しく」生きることを強制しはじめる。「俺はこのままの堕落した生き方でいいんだ!」と反抗する人間は、レザー光線で消滅させられます。
 人間の自由というものは、なんなのか?……人間の自由というものは、個々人の<恣意性>というかたちに媒介されて顕現する(堕落する恣意的自由も含めて、個人の自由はある)ものではないのか?……。そんなことを考えさせられるマンガです(注3)。
 この問題は、<革命思想>のパラドックスとでもいうべき問題で、偉大な文学者たちが文学的・思想的直観で鋭く捉えてきた<思想>の悲劇的パラドックスの一つです。

[ 掲げる大義が崇高であればあるほど、その大義が崇高であるがゆえに、人間に対して無限に絶対的に残酷無情になるという<思想>の不可避的パラドックス。共産主義であろうが、宗教であろうが、崇高な大義が崇高であるが故に、その大義は裏切られざるをえないという、悲劇的パラドックス ]

   これは、ロシアや中国のような遅れた社会だろうが、ヨーロッパのような先進諸国だろうが関係なく、また、政治革命であれ宗教的信仰であれ、気高い理想に燃える人間主体が、本気で革命や変革事業をやろうとする限り、思想的にシビアに突きつけられる、普遍的かつ現代的な問題であります(注3)。
 我々は、マルクスが考えるような<社会的自由>とは異なるレベルで、<個人的自由>というものを考えなければならず、<社会的自由>と<個人的自由>の関係を思想的に位置づけるていかなければならない。
 しかしこれは極めて難しい、シビアな問題です(注4)。


  (注3)
  ロシアのボルシェビキたちは、革命家の基礎教養として、フランス革命史に通じていました。
革命家としてジャコバン・テロリズムの手法を学ぶと同時に、「革命が、革命の最良の子らを食い殺した」同志的共喰いだけは繰り返すまいと、教訓を胸に刻んだそうです。
 しかし、彼らが学んだジャコバニズムの恐怖政治が、もっと徹底的かつ陰惨な人民の大量虐殺となって再現したばかりか、「革命が、革命の最良の子らを食い殺す」同志の共喰いもまた、もっと大規模かつグロテスクに再現したのです(小規模でなら、連合赤軍や中核VS革マルというかたちで、現代の平和な日本でも再現された)。
 血生臭いフランス革命の大立て者ロベスピエールも、雄弁家・ダントンも、「恐怖の大天使」サン・ジェストも、知的にも人格的にも一角の大人物です。
 その後輩に当たる「反抗的知性」たち、レーニンもトロツキーもブハーリンも、当時のヨーロッパ水準の知的教養人であり、人格的にも優れた第一級の人物です。そんな彼らが陥らざるをえなかった、フランス革命からロシア革命に繋がる革命ののパラドックスの歴史を、よく考えなければなりません。
 左翼&サヨクが、“オレ達は反戦平和的理想を掲げ、高い人権意識を持ち、白鷺のように美しい市民だから、ダイジョウブ”くらいの認識で、“先進国で、資本主義が成熟し、文化的に高度で、人権意識の根付いた社会なら、そんなことは起こり得ない”というのは、浅はかなのもいいところです。
 いまなおゴリゴリの左翼も、イマジン歌って平和反戦を唱え「ブッシュは殺人鬼!」と叫んでもチベットの民族浄化にはゴニョゴニョと口ごもるサヨクたちも、その理論的水準の低さと思想的偏狭さと人間的醜悪さをみれば、吉本隆明のいいぐさではないが、「いっしょだよ。この連中がひとたび革命的権力を握ったら……」としか思えない。
 いまも左翼的な立場からマルクスにこだわっている日本左翼&サヨクというのは、ほんとうに思想的<絶望>が浅い人たちだと思います。一度徹底的に<絶望>し、立ち直れないぐらいになってから、それでもなんとか必死に立ち上がり、もう一度マルクスの思想的・理論的遺産をどう継承すべきか……問題を提起するぐらいじゃないとダメだと思います。


(注4)
 スターリン時代のソ連と違い、ブレジネフ時代のソ連社会は、息苦しいことは息苦しいが、自由にものを考えさえしなければ、そしてそこで暮らしていくコツのようなものを掴めば、それなりにお気楽に、のんべんだらりと暮らせる社会でした。人間はどんなに不自由でも、それを不自由に感じることなく、それなりに幸福に生きていけるものです。
 しかし「人は麺麭のみによって生きるに非ず」。
 ごく少数の、不自由を不自由と感じる人間にとって、自由とは生きることそのもののであり、ときには敢然と立ち上がり、命に替えてでも戦い取らねばならなくなる。
そして、不自由を不自由と感じない圧倒的多数の大衆の中からも、ある日突然、不自由を不自由だと感じ、敢然と立ち上がる人間がでるかもしれない。
そこに、人間的自由というものの厄介さがある。
 そういう私の問題意識からみて、たとえばハイエクのような自由主義的保守知識人のマルクス主義・全体主義批判は、賛成か反対かとは別に、傾聴に値します。 彼らを読んでいると、

【 個人の自由は、個人の恣意性に委ねられているが故に個人の自由である 】

 というある種の<ほろ苦い諦念>のようなものを底に湛えていない思想というものは、危ういものだなあ……というようなことを、考えさせられます。




3 社会と歴史のアナリストの評価を巡って

 以上の総括的な議論を踏まえて、滝村さんのマルクス人間解放思想批判の正否を検討していきます。
 まずは、Nさんのメールを引用致しましょう。


〔 Nさんのメール 〕

………………引用開始………………
佐々木 さん
お久しぶりです。
ご連絡に感謝いたします。
あれ以来、仕事の方が忙しくて文献の検討もままならぬ事態が続いております。
佐々木さんのHPに対するいろいろな方の反応など、興味深く読ませていただきました。
滝村の「大綱」もまだ全体を読み通してはいません。滝村と芹沢の対談本は、ネットで入手してちらちらとは目を通しています。正直言って、滝村があの中で開陳しているような現状認識には違和感を感じます。
滝村の理論が現実的には一定の反動的な役割を果たしかねないのではないかという危惧は、現在も持っています。
理論家にとってリアリスティックな論理と目が必要なのは言うまでもありません。しかし、ただ現実の理解だけに終わるならば、それは結局のところ「現実への居直り」に帰着してしまうのではないか。一言で言えば、私の懸念はそういうことになります。
滝村が「広義の国家」の解体不可能を主張するとき、いつのまにか<国家>と<社会>の論理的区別(実体的区別ではありません)が曖昧になっているのではないでしょうか。
マルクスは「ゴータ綱領批判」の中で「未来の国家組織」について論じています。階級対立が消失し、「狭義の国家」が解体したとしても「広義の国家」の解体は確かに困難です。どの本か忘れましたが(「革命とコンミューン」?)、滝村はブハーリンの「過渡的経済論」に対するレーニンの批判を引用しながら、「狭義の国家」→「広義の国家」という解体の道筋を明らかにしました。

エンゲルスは「国家の死滅」について、確か「眠り込む」というように表現していたと思います。この言葉は、「広義の国家」の解体についても当てはまるでしょう。いずれにしても、「国家は眠り込む」という表現は<国家の死滅>が非常に緩やかな長期的な過程であることを示唆しています。

マルクスが構想した「共産主義社会」とは、いうまでもなく自由な諸個人によって形成された<有機的>に組織された社会です。したがって、このことは当然のことながら諸個人の間に非対立的ではあれ差異が存在することを前提にしていると思います。このことだけでも、私は滝村のマルクス批判の誤りは明らかだと思います。滝村のマルクス批判が正しいとすれば、マルクスの<共産主義論>は実際には<社会否定論>だということになるでしょう。

 滝村がマルクスの人間論だとして提出しているのは、マルクスよりもむしろフォイエルバッハの<類の思想>やその影響を受けた非弁証法的な「真性社会主義」にこそ相応しいもののように思います。

マルクスがヘーゲルから継承した<弁証法>の論理が、様々な学問的分野において強力な武器たりうることはいうまでもありません。しかし、歴史的社会の認識においては、弁証法は同時に未来へ向かう変革を透視する方法でもあるはずだと私は思います。


……………引用終わり………………



 Nさんの御議論の中で、気になったところをいくつか上げておきます。

>滝村の理論が現実的には一定の反動的な役割を果たしかねないのではないかという危惧は、現在も持っています。

 という批評は、その非難の姿勢のあり方において、ちょっと筋が違うのではないかと思います。
 滝村さんは『国家論大綱』の中で、自らの主体的実践的な<思想>的また<イデオロギー>的な立場を展開するのではなく、「社会と歴史のアナリスト」(『世紀末時代を読む』)という科学的・理論的な立場を徹底的に貫ぬこうとしている。
 もちろん、滝村さんがソ連・東欧や中国などの「社会主義」諸国に言及するとき「社会主義」とカッコ付きで表記することから、<あんなものは社会主義じゃない!>という思想的・イデオロギー的立場を取っているな……という程度のことは、うっすらと読みとれる。
 しかしそれ以上に踏み込んで主体的・実践的な自らの<思想・イデオロギー>を語ることに、滝村さんは禁欲的であるわけです。
 あくまでも、自己の三十年以上にわたる理論的・科学的研鑽の中で到達した<学問的見地>として、マルクス主義批判を展開している。<理論>的視角から<思想>というものを捉えている。
 そういう「社会と歴史のアナリスト」に、「滝村の理論が現実的には一定の反動的な役割を果たしかねない」という、いかにも左翼・マルクス主義的な決まり文句を投げて、いったいなんの意味があるのでしょうか?
“「滝村理論」は客観的にみれば「反動」に奉仕している……「ただ現実の理解だけに終わるならば、それは結局のところ「現実への居直り」でしかない……”という批判を浴びせられても、「社会と歴史のアナリスト」は困惑するだけでしょう。

 滝村さんの<歴史と社会のアナリスト>という理論家・社会科学者としての根本姿勢は、おおよそ次のようなものでしょう。

【いやしくも学的研究者たるもの、己の思想・イデオロギー的立場、思想的思い入れや主観、偏見などの色眼鏡で、研究対象を見る眼を曇らせてはならない。
そういう主観的立場に囚われることなく、己を殺して、静かに対象の中へと没入し、対象の内在的な<論理>を透かしみ、その<論理>をしっかりと手繰り寄せなければならない。
そして、その対象に内在する<論理>を、学的認識へと、すなわち、統一的・有機的な<理論>へと、体系的に構成していかなければならない。】

 こういう客観的姿勢に対して、“そんなのは科学主義的客観主義だ!”とか、“人間は思想・イデオロギー的立場から逃れられないのだから、思想・イデオロギー的立場排除する純粋に客観的・科学的立場などありえない!!”というような通俗マルクス主義的悪罵を投げつけたり、“人類の変革への理想を語らない「純粋な科学・理論」としての歴史・社会認識など、反動に奉仕するブルジョワ客観主義である!!!”などと言う人たちがいますが、ナンセンスです。
 むしろ逆なのです。
 人間というものは、己の思想・イデオロギー的立場から「逃れられない」からこそ、イデオロギー・フリーな客観的・科学的立場を、研究主体として、意識的自覚的に堅持する必要が産まれるのです。
 人間主体は、社会の物質的生活と精神的生活のただ中で、家庭で、学校で、地域で、マスコミ媒体の情報洪水の中で、世界・自然・社会・人間などのあらゆる事象に関わる思想的・イデオロギー的なシャワーを浴び、それを受容したり拒絶したりして成長していきます。
 そして、己が生きる中で、己の生きる環境、階級・階層的位置などに大きく規定されながら、ある一定の思想的・イデオロギー的なもの(体系的か非体系的か、また知的に高度か否かに関わらず)を形成します。
 社会科学としての政治学は、そういう思想・イデオロギーという極めて扱いづらい観念的事象を、政治・経済・社会全体に関わる限りで俎上に乗せる学問ですから、他の諸学以上に、イデオロギー・フリーな客観的・科学的立場を、意識的自覚的に堅持する研究主体としての姿勢を、厳しく要求されることになります。




4 滝村によるマルクス共産主義社会論概括の正否

 滝村さんのマルクス主義的人間解放思想批判の正否を、検討していく場合、議論のポイントは二つあります。
 第一に、滝村さんの

「マルクスはエンゲルスとの緊密な理論的協働作業によって、少なくとも、初期の『ドイツ・イデオロギー』[一八四五〜六年]頃までには、『共産主義社会』についての原理と具体的な全体像を、完成させている。それ以後、まとまった著書・論文が存在しないのは、この点についての大きな変化と変更が、なかったからである」(『大綱 下巻』六一一頁)

 という把握、およびマルクス共産主義論の概括は正当か否か?……ということです。
 第二に、滝村さんのマルクス主義人間解放思想批判の<理論>的意義を、どのように捉えたらよいか?……という問題です。
 滝村さんのマルクス主義思想批判に対する私の率直な感想は、<本質論的レベル>ではこれでキマリだろうとは思うが、文献解釈学的レベルでの緻密さと叙述の展開の厚みがないため、あのままでは、文献学的に武装した世のマルクス主義者や左翼が、「こりゃあ参った」と内心で甲を脱ぐだけの決定打たりえないだろうなあ、というものです。
『エルバーフェルト演説』や『ド・イデ』などに述べられたマルクスとエンゲルスの共産主義社会のイメージが、後期マル・エンにおいても<基本的骨格>において同じか否か?…、さらに、マルクス・エンゲルスの二人の間に、思想的・イデオロギー的なところで<基本的>に相違がないのかどうか?…。
 そういう分厚い学説批判的叙述が欲しいなという感じがます。
 まあ、そこが「草稿」の「草稿」たるゆえんでしょうし、滝村さんの「マルクス主義の方法的解体」の副題が「とりあえずの覚え書き」だというのも、そういう意味で捉えるべきでしょう。『国家論大綱』第三巻(学説史)の出版を期待したいところです(「フーコー権力論の解体」も予告されていて、どんなものになるか、基本ラインはある程度論理的に予想できますが、とにかく読んでみたいテーマです)。
 しかし、もう十数年前にマル・エン全集を読んだ印象では、滝村さんが言うとおり、マルクスもエンゲルスは、その基底的な本質論的社会観・人間観も、社会的分業論も、その<基本的骨格>においては、『ド・イデ』から『ゴーダ綱領批判』まで変わっていないと、私は考えています。これは、
(1)マルクスが<本質論的な社会・人間観>を、自己の<思想>の中にどう位置づけているか?……という問題を踏まえた上で、(2)『資本論』をはじめ後期マルクスの著作を一瞥すれば分かることです。
 三浦に習い蔵書を持たぬ(持てぬ)主義で、手元にマル・エン全集もないし、図書館で借り出し読み直す時間的余裕もありませんから、昔読んだ『資本論』や『バクーニン・ノート』『ゴーダ綱領批判』などの記憶から言うしかないですが、滝村さんの概括で間違いないでしょう。
 ただ、ここで一点注意しなければならないことがあります。
 マルクスとエンゲルスは、未来の具体的な社会像に関するブループリントを語らぬところに、自分たちより以前の社会主義者・共産主義者と、自分たちとの<思想的党派性>の相違を置いています。
 具体的な歴史・社会分析もせずに、そういうブループリント創りに熱中するのは「空想的」な試みであるというのが、マルクスとエンゲルスの立場です。
「それ以後、まとまった著書・論文が存在しない」というのは、そういう発想の所産であるとも言えるでしょう。
 後期マルクスは、別に、『ド・イデ』時代の理想社会像を放棄したから、未来社会に関する「まとまった著書・論文が存在しない」というわけではない。
『ド・イデ』時代の理想社会像を、密かにしっかり胸に抱いていることはいる。
 しかし、それを、空想的社会主義者や共産主義者のようにブループリントとして語ることなく、具体的な社会的・歴史的分析に全体重を傾けます。
 資本主義社会の高度な発展が、社会主義的変革を必然的にするのであり、その必然性を科学的・理論的に認識することによって、その変革によって生まれる将来の社会の基本的骨格も、はじめて提示できるのだ。
 マルクス・エンゲルスというのは、そういう立場です。

 次に、滝村さんのマルクス共産主義論の概括自体は正当か否か?……マルクスに即して見ていきます。再度、滝村さんの「マルクス共産主義社会像」の概括的定義を引用します。

「マルクスが『未来社会』として思い描いた『共産主義社会』とは、本質論的な意味での<社会>gesellschaft、つまり、<諸個人が労働の対象化において現実的に結合し、その活動を相互に交換することによって、肉体的にも精神的にもつくり合う、生活の生産関係>というあり方に相応しいかたちで、諸個人の直接的な意味での組織的・制度的な諸関係もまた、非敵対的な直接に社会的な形態、つまりは<共同体>emeinschaft,gemeindeとして、組織し実現しようとという発想以外ではないからである」(『大綱下巻』609頁 )

  マルクスにとって<社会>とは、<諸個人が労働の対象化において現実的に結合し、その活動を相互に交換することによって、肉体的にも精神的にもつくり合う、生活の生産関係>であり、<人間>とは、「社会的諸関係のアンサンブル」です。
 この<本質論的な社会観>とそれに基づく<人間観>は、『ド・イデ』から『ゴーダ綱領批判』に至るまで、基本的に一貫しています。
 マルクスの共産主義社会論の基本骨格とその主体的実践的姿勢というのは、まさにこの<本質論的な社会観と人間観>を<理論>的前提に、その<本質論的な社会と人間>のあり方に「相応しいかたち」で、現実の<社会>を、主体的・実践的に創り変えようとするところにあります。
 しかも、マルクスの場合、一般的な意味での理論と思想の実体的区別・分離ではなく、理論・科学と思想・イデオロギーを<原理的>に区別しつつ、しかし<実体的>同一性を指向する思想家(この点は項目2で述べた)です。
 その<理論・科学>的な経済学的分析が、そのまま<思想・イデオロギー>的階級的性格を孕むことになる。
 学的・理論的レベルでの<本質論的な社会観と人間観>から、思想的・イデオロギー的レベルでの理想社会論が、論理必然的に導かれるという性格を持っている。
 だから、
『ドイデ』時代までには確立していた<本質論的な社会観と人間観>が、初期から後期まで<理論>的に一貫している
以上、そこから導かれた<理想社会>論もまた、初期から後期まで<思想>的な基本的骨格において首尾一貫する
というのは、マルクスの発想からいって、まったく当然なのです。
  これは、『資本論』はじめ、マルクスの後期著作を一瞥すればよりはっきりします。

  マルクスは晩年の作品「バクーニン『国家と無政府』ノート」で、
「プロレタリア国家では、ドイツ人数千万人が数千万人すべて政府の構成員になるのか?」
 というバクーニンの言葉に、
「まさにそうだ、全人民が全人民を自己統治するのだ」
 と言い放っています。
 この「全人民」がすべて国家構成員になり「自己統治」する過程において、人民自らが自己を「陶冶」し、<人間的本質を全面的に発展させた自由な個人>を創出し、人間的本質にふさわしい社会(共産主義)を実現する。
 マルクスが想定していた国家と社会はそういうものなのですが、この議論には、経済学的レベルから<社会>を把握するとき必然化する政治的・国家的問題の捨象傾向と、「経済的に支配する階級が消滅すれば今日的な意味での国家はなくなる」という絵に描いたような階級国家論的発想(プロレタリア国家が結局は「少数者による多数者の支配になる」というアナーキスト・バクーニンの鋭い予言的問題提起に対して、マルクスはそう説いている)が前提になっているのではないかと思います。
 先にも述べたように、マルクスとエンゲルスは晩年、歴史的現実過程の分析抜きに未来社会のブループリントを語ることはできない、と発言しました。これは一般論的には正しい。マルクスもエンゲルスも、自分たちより前の社会主義者・共産主義者と自分たちを区別するために、そう言っています。要するに、オレ達は、先輩社会主義者・共産主義者みたいに、歴史的現実過程の分析抜きに未来社会のブループリントを語るほど、「空想的」じゃあないんだよと。
 では、マルクス・エンゲルスのいう<理論>的な「歴史的現実過程の分析」は、<思想>的な共産主義社会論と、どう絡んでいるのか?
 マルクスの「歴史的現実過程の分析」からは、資本主義の高度な発展が、資本主義の胎内からその「墓堀人」を必然的に生み出さざるをえない……という<思想>的結論が、論理必然的に導かれる。
 これは『資本論』の中にも明瞭に<透かし見る>ことができます。

 マルクスは、資本主義の高度生産力の展開の中で、プロレタリアートという「資本主義の墓掘人」が生産されるということを、そのまま<プロレタリアート>=<人間的本質を全面的に発展させた自由な諸個人の現実的原型>の誕生としています。
 マルクスは、資本主義社会の教育を論じ、<さまざまな社会的機能をかわるがわる行うような、全体的に発達した個人>を、資本主義的大工業は不可避的に生み出さざるを得ないとしているんです(『資本論』第一巻第四編)。
 この<全人的発達>可能性を完全に顕現するためには、<社会革命>を遂行しなければならない。
 そして<社会革命>のためには、<プロレタリアート>=<人間的本質を全面的に発展させうる自由な諸個人の原型たち>が、<政治革命>で国家権力を握り、ブルジョワジーを一掃し、経済的諸組織を掌握し、社会的所有のもとで合理的社会(社会主義・共産主義)を創出する。
 そういう発想です。
『資本論』第三巻では、生産者達が自分たちの生産を意識的・計画的に管理・運営・統制する社会に言及し、社会的生産を規制する「法則」は、盲目的・外部強制的なものではなく、「社会化された人間」たちの「結合された理性」(国民文庫訳。長谷部訳だと「結合された悟性」)によって、その「法則」が合理的に把握・支配・統御されているとされます。
 <分業の止揚>の問題もまた、明らかに、「ドイデ」で語られた「朝には猟師・昼には牧人」という発想が、資本制社会の高度な生産力を前提に、その延長線上に構想されています。
 個人の自由な時間を基礎に自己陶冶し、<全面的にその能力を開花させた個人>が、<さまざまな社会的機能をかわるがわる行う>かたちで、特定の専門に固定されないという「専門家否定」の発想で「分業の止揚」が構想されているわけです。
 マルクスがパリコンミューンを理念化したのも、まずは国家統治レベルで<さまざまな社会的機能をかわるがわる行う>ことの端緒を、構想していたからなんです(もっとも、コンミューン原則が作動せず、革命の進展とともに革命的専制権力としての本質が全面的に顕在化することは、論理的にも現実的にも必然です。この点、「『社会主義』専制国家論」の論証はさすがとうなりました)。
  マルクス・エンゲルスの「共産主義観」は、「エルバーフェルト演説」のエンゲルスと基本的に同じか?……その後も基本的骨格は変わらないか?……という問題は、『資本論』や後期著作の内容に即して考察してみれば、その<思想的骨格>は基本的に変わっていないと、言わざるをえないと思います。<
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5 マルクス主義人間解放思想に対する理論的把握の正否

 次に、第二の問題、滝村さんのマルクス主義人間解放思想に対する<理論>的批判の意義を、どのように捉えることができるか?……という問題に移りましょう。
 しかしその前に、まずはNさんの滝村さんへの批判の当否について。Nさんは、

  >マルクスが構想した「共産主義社会」とは、いうまでもなく自由な諸個人によって>形成された<有機的>に組織された社会です。したがって、このことは当然のこと>ながら諸個人の間に非対立的ではあれ差異が存在することを前提にしていると思い>ます。

 と述べておられますが、「自由な諸個人」「非敵対的差異」という言葉を滝村さんの概括に対置しても、批判にはならないと思います。
 第一に、滝村さんは、マルクスの考える共産主義社会が、マルクス的な意味でなら「自由な諸個人の社会」であることを、まったく否定していないからです。
 “マルクスは『資本論』において未来社会を「自由な諸個人の連合体」として構想しているのであり、文革やポルポトのような社会を構想していたわけではない”というマルクス共産主義的人間解放思想の擁護パターンが昔からありますが、そりゃあマルクスだって、ソ連や中国の現実を生きて目の当たりにしたら、ひでえもんだと思うでしょう。
 しかし問題は、その「自由」の中身です。マルクスが「自由」というものをどう位置づけているかです(注5)。
 マルクスの場合、我々が普通一般に考える「個人的自由」とは異なる次元で「自由」を位置づけている。
 これを理解するためのポイントは<真理>です。ヘーゲル・マルクス的な<真理>と<自由>の位置づけ方です(この<真理>と<自由>の問題は、マルクス思想を考える上で極めて重要な論点で、先に項目2で述べました)。
 滝村さんは、理想の極地みたいなマルクスの<自由なる諸個人の協同社会>を、理想のままに止めておくことなく、本気で実現しようと<政治革命>と<社会革命>をやったら、そこでの<自由>というものは、いったいどういうものにならざるをえないか?……という風に、問題を設定しています。
 第二に、滝村さんは、マルクスの共産主義論の概括の中で、「諸個人間の非対立的差異」の存在を否定するようなことは、一言も述べていません。
「いっさいの差異と対立のない社会」という表現は、論文の論旨と文脈を読めばわかることですが、”個体的差異と非敵対的対立の消失”なんてレベルの話ではない。
 <敵対的な社会的利害の差異と対立>の止揚、<社会構成員>間で<特殊利害>が生じ、それぞれの<特殊利害の共通性>から<階級階層的差異と対立>が生まれる事態の止揚克服、もはや個人が社会と敵対することなく、<一人が万民のために、万民が一人のために>生き、<公・私の分裂の止揚>された社会構造の創出、というレベルで言われています。
 この点を明らかにするために、滝村さんのマルクス共産主義論の概括を、再び引用しましょう。

「マルクスが『未来社会』として思い描いた『共産主義社会』とは、本質論的な意味での<社会>gesellschaft、つまり、<諸個人が労働の対象化において現実的に結合し、その活動を相互に交換することによって、肉体的にも精神的にもつくり合う、生活の生産関係>というあり方にふさわしいかたちで、諸個人の直接的な意味での組織的・制度的な諸関係もまた、非敵対的な直接に社会的な形態、つまりは<共同体>gemeinschaft,gemeindeとして、組織し実現しようとという発想以外ではないからである」(『大綱下巻』609頁)

 gesellschaft・「gemeinschaft・gemeindeという概念にご注目下さい(gemeinschaftと区別されるgemeinde概念は、初期滝村国家論の<共同体―即―国家>と、後期滝村国家論の<外的国家構成>の学的連続・発展を考える上で、重要な概念規定だと思う)。
 これらは、滝村さんが『マルクス主義国家論』の中で再措定したマルクスの基本的な<社会観>に関わる基礎的諸概念です。
 滝村さんは、
「gesellschaft」(生活の生産諸関係)
「gemeinschaft」(社会を、<協同社会>としての内部調和的統一性に即して把握)
「gemeinde」(社会を、<共同体>としての外部的構成において把握)
 というタームを駆使し、マルクスの理論的・科学的な<社会本質論>との関係において、思想的・イデオロギー的な<共産主義社会論>を概括している。
 マルクスの共産主義論を人間主体に即して言えば、

  <社会的存在としての人間が、その社会的性格に相応しいかたちで、自らの人間的本質を全面的に開花発展させた、自由なる諸個人による内部調和的な協同社会>

ということになるでしょう。
 トロツキーの言葉を借りれば、「未来の共産主義的人間」は、
「自らの意識も意志も完全に統御でき、その思考も身体も完璧で、その平均的な知的レベルはアリストテレスやマルクス」。
 そういう真に<自由>な人間たち(トロツキーは「超人」という言葉を使っています)が主体的に構成するのが、共産主義社会です。
 共産主義者・マルクスの思想の中では、共産主義社会というgemeinschaft(協同社会)において、「万人の利害が一致し、個々人の利害が互いに敵対せずに一致する」ということと、gemeinschaft<協同社会>において<個人が個人として自由である>ということは、別に背理するものではない。
 <共産主義社会>というものを、

a)協同社会としての<内部的調和性>にスポットを合わせて、<社会と個人>の関係を捉えれば、「万人の利害が一致し、個々人の利害が互いに敵対せずに一致する社会」ということになりますし、

b)協同社会を担う<個人主体>にスポットを合わせて、<個人と社会>の関係を捉えれば、「自由な諸個人によって形成された<有機的>に組織された社会」ということになるわけです。

  マルクスは『資本論』の中で、「諸個人の完全に自由な発展を基本原理とする高度な社会形態」に言及し、物質的生活過程が「社会化された個人」により意識的・計画的に統制・管理・運営されているという未来社会のイメージを、断片的に語っています。
 人間主体が、「社会化された個人」として、「結合された理性」を主体的・実践的に働かせ、「結合された理性」に自ら主体的・実践的に従い、自分たちの社会を合理的に、内部調和的に統制・管理・運営する。そうすることではじめて、<社会的に自由な個人>たりえるわけです。
共産主義社会がブルジョワ的に欺瞞的な「公私の分裂」を積極的に<止揚>するものだというのも、そういうレベルで使われています。
  このgemeinschaft(協同社会)の<内部的調和性>を、滝村さんは、<利害>論として概括しています。

「<万人の利害が一致し、個々人の利害が互いに敵対せずに一致する>。これは、<諸個人の社会的階級階層的差異が消失するからで、そこでは、<利害の共通性が原則となり、公共的利害と個別的利害との差異自体が消失する>」(『大綱』下巻 612頁)

「万人の利害が完全に一致して、個人としての個別的利害や諸階級・階層としての特殊利害と、社会全体の公共的利害との差異と対立が、まったく存在しない」

「<社会としての諸個人>における、あるいは<諸個人の総体 としての社会>と個人>との<絶対的な調和>」(下巻618頁)

 滝村さんは、マルクスの共産主義社会像というものが、「<社会>gesellschaft」という本質的なあり方に「ふさわしいかたち」で構成されるという、gemeinschaft(協同社会)の<内部的調和性>を捉えて、「<社会としての諸個人>における、あるいは<諸個人の総体としての社会>と<個人>との<絶対的な調和>」と表現しているわけです。
 だから、滝村さんの「一切の差異と対立の存在しない社会」という概括は、<あらゆる利害対立の止揚された協同社会>、あるいは、<ブルジョワ的公私の分裂が止揚され、一人が万民のために万民が一人のために生きる協同社会>という意味なのであって、なにも、“あらゆる個体的差異の消えた人間たちの社会”というものではない。
未来社会で、個々人が「今日の飯はなににするか」で揉めたりとか、ベニー・レナードとロベルト・デュランが戦ったらどっちが勝つかで議論してケンカになったとか、個人間の間で解決の難しいゴタゴタがあったとか、そういう「非敵対的差異と対立」の話ではないのです。
 滝村さんの「一切の差異と対立の存在しない社会」という文言をそれ自体切り取って、
 “滝村は、マルクスが諸個人に一切の差異と対立のない社会を夢想しているというマルクス共産主義社会像を自分でデッチ上げ、そのデッチ上げた虚像を相手に、独り相撲的非難を浴びせている!”
 などという批判は、批判として成り立たないわけです。


(注5)  “マルクスは『経哲草稿』などで「粗野な共産主義」を批判し「自由」に言及してるから、滝村の批判はあたらない”というような“反論”は、反論として生産的なものではありません。
 その昔、ポーランド「連帯」のワレサ議長が来日したとき、インタビューに答えて、「レーニンが生きて今のソ連をみたら、共産党の幹部連中を皆殺しにするよ」と答えていました。
 レーニンばかりかマルクスだって、今の中国や北朝鮮をみたら、ヒデエもんだと<主観的>には思うでしょう。
 しかし問題は、彼が<主観的に>何を思い、何を語り何を言っているか?……という文言レベルではなく、その「自由」の中味です。 
スターリンは、自由な討論と批判の自由がなければ真の学問的発展はないと力説し、文章にもちゃんと明記しています。では、スターリンは学問的自由の擁護者か?
 毛沢東は、共産主義者たるもの、いかなる権威にも盲従せず断固たる批判的態度を堅持しなければいけないと力説し、文章にもしっかり明記しています。では、毛沢東は反権威主義の擁護者か?
 日本共産党は、「共産党政権になったら思想・信条、言論・出版・表現の自由が認められないのでは?」という質問をされると、党は綱領にしっかり思想・信条、言論・出版の自由を堅持するとはっきり明記していますから、ダイジョーブですと答えます。では、日本共産党は将来にわたって、思想・信条、言論・出版・表現の自由の擁護者として信頼できる、だって「綱領」に書いてあるから安心だあ〜〜っ!と言えるのか?
 マルクスは、『経哲草稿』で「粗野な共産主義」を批判し「自由な諸個人によって形成された<有機的>に組織された社会」を構想している。だから、ソ連にも中国にもベトナムにもカンボジアにも北朝鮮にも、マルクスには思想的責任はないと、ホクホクできるのか?
「共産主義社会」とは、「自由な諸個人によって形成された<有機的>に組織された社会ですか?」と、マルクス主義者であるレーニン・スターリン・毛沢東・金日成・ホーチミン・ポルポトに質問したら、地獄の釜の中で、彼らはきっと「然り!」と答えるでしょう。
 向坂逸郎などは、ソ連こそがほんとうの「自由」な社会であり、資本主義社会の堕落した「ブルジョワ的自由などとは比較にならない」と力説しています。北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」が正式国名で、世界でもっとも高度に発展した「民主主義」国なのだそうです。
 問題は、彼らが主観的に何を思い、何を語り何を言っているか?……という文言レベルではなく、「自由」なり「民主主義」の現実の中身なのであり、その「自由」なり「民主主義」の現実の中身を基底的に支えるマルクス主義の<理論>と<思想>なのです。




6 <理論>的<思想>把握の意義

 Nさんは以前のメールで、

> <社会あっての個人>という発想をマルクスがしているわけではないでしょう。

 とおっしゃっていました。
 しかし、<社会あっての個人>という<社会観・人間観>は、とくにアジア的・東洋的な特殊なものというわけではありません。別にマルクスに限らず、西欧哲学の思想的系譜の中にちゃんとある。
 それを哲学的に集約しているのがヘーゲルで、マルクスとエンゲルスは、社会科学を基底から支える<社会観・人間観>というレベルで、それを発展的に継承し、<社会―即―個人>(社会そのものとしての個人)と<社会―内―個人>の統一的把握を提出している。
 <社会あっての個人>という発想は、彼らの<社会―即―個人>(社会そのものとしての個人)と<社会―内―個人>の統一的把握の中に含まれている。 
 だからこそ、英米系の保守的知性たちは、マルクス主義を批判するとき、「国家が死を命じたとき、市民は死なねばならぬ」というルソーまでその系譜を遡り、さらにはプラトンにまで遡るかたちで、その<社会観・人間観>を思想的に批判するわけです。
 滝村さんのマルクス・マルクス主義批判は、天才的な文学者がその芸術的直観によって、優れた保守的知性がその自由主義思想によって鋭く問うてきた<革命の逆ユートピアと人間的自由の問題>を、国家論・政治学のレベルで提起していると見ることが出来るでしょう。
この<社会あっての個人><社会無くして個人なし>の発想は、滝村さんに言わせれば、<理論>的にはまったく正当である。
 しかしその<理論>的正当性にも関わらず、この発想が、マルクス・エンゲルスにおける国家論・政治学の不在、パリコンミューンの理念化、レーニン党組織・革命論などに媒介されるかたちで<思想的に飛躍>させられると、ファシズムと見まごうばかりの<共産主義的人間観・人生観・死生観>を帰結する……ということになる。
  逆に、<社会無くして個人なし>とは対極に立ち、<個人無くして社会なし>という立脚点から社会・国家を論じる契約国家論の系譜が、<理論>的にはダメダメだけど、<思想>的には「人権論」を結晶させるという巨大な成果をあげた。

a)<理論>的に正当な<思想>が、<結果的>には、ファシズムより酷い現実を産み、
b)<理論>的に不当な<思想>が、<結果的>には、<思想>的に共産主義より遙かにまし…となった。

この<結果的>に生じたa)とb)の皮肉の二重の<ねじれ>を、滝村さんは明確に捉えていて、ポパー卿などのマルクス主義・全体主義批判家とは、ちょっとレベルが違うわけです。
 後ほど展開しますが、滝村さんは、この<結果的>に生じたa)とb)の二重の皮肉な<ねじれ>のうち、a)の問題を、『国家論大綱』「補論 特殊的国家論」第二編「死滅せざる国家について」の第四項目「マルクス主義国家死滅論の解体」第五項目「『社会主義』専制国家論」という二つの論文で俎上に乗せています。

 【 まったく<理論>的には正当な<本質論的社会観・人間観>に立脚した者たちが、その<本質論的社会観・人間観>に「相応しい」理想社会を構想し、<国家・民族>を超える世界革命主体としてのプロレタリアートの崇高な人類史的使命を自覚し、その極めて理想主義的な構想を実現するべく、自らを政治革命主体として構成するとしよう。
 具体的な学的国家論・政治学を持つことなく、パリ・コンミューンを理念化し、レーニン党組織論を武器に、<プロレタリア政治革命>を成功させると、結果的にどういうことにならざるをえないか?……】

 これが滝村さんの問題設定です。
  マルクスやエンゲルスの思想を奉じるマルクス主義者たちが、<思想的・イデオロギー的>な革命的実践へと乗り出したとき、道は大きく二つに分かれていきます。

1)具体的な国家論・政治学なしに、パリコンミューンを理念化し、革命的実践へと乗り出し、合理的・実践的に革命運動を展開するために、真剣に党組織・革命論を構築すれば、レーニンたちの道を歩くことになる。

2)具体的な国家論・政治学なしに、“資本主義の高度な発展が社会主義革命を必然化する”というマルクス主義的立場を堅持しつつ、しかしパリ・コンミューンを理念化することなく、議会主義政党へと自らを転化すれば、ドイツ社会民主党の歩んだ道を歩むことになる。
 そうなると、資本主義を構造的に<止揚>する高度な共産主義社会ではなく、資本主義の枠内で労働者の権利拡大に特化した、労働者政党による社会民主主義的福祉社会しか実現できない。

 いずれの道を歩んでも、マルクス・エンゲルスが夢見た、

「本質論的な意味での<社会>gesellschaft、つまり、<諸個人が労働の対象化において現実的に結合し、その活動を相互に交換することによって、肉体的にも精神的にもつくり合う、生活の生産関係>というあり方に相応しいかたちで、諸個人の直接的な意味での組織的・制度的な諸関係もまた、非敵対的な直接に社会的な形態、つまりは<共同体>emeinschaft,gemeindeとして、組織し実現」された<共産主義社会>

 は、実現不可能です。
  滝村さんは、2)のドイツ社会民主党的道ではなく、1)のレーニンの道、共産主義的革命主体形成の実践的方法論としてもっとも有効・合理的なレーニン党組織論・革命運動論に即して、革命のパラドックスと言うべきものを論じています。  『大綱』「第二篇 死滅せざる国家について」で問題にしているのは、あくまでも「マルクス主義国家死滅論」。ドイツ社民的道の場合は、共産主義社会を目指すものではないから、議論の対象にならない。
 滝村さんの問題設定の組み立ては次のようなものでしょう。
 第一に、ソ連・中国・北朝鮮etcの悲惨極まる現実を生み出した<直接的>原因として、レーニン党組織・革命論、パリ・コンミューンの理念化、マルクス・エンゲルスにおける国家論・政治学の実質的不在がある(これを集中的に論じたのが「『社会主義』専制国家論」)。
 第二に、その革命主体の政治的実践において、ブルジョワ的な「公私の分裂」の<止揚>というかたちで、プロレタリア革命の歴史的必然性という<真理>を自覚し<真理>に従い<真理>に殉じることこそが、ブルジョワ的「自由」を超える真に<社会的に自由な生き方>であるという、特異な<共産主義的人間観・人生観・死生観>が生み出される。
  この点を、もう少し詳しくみていきます。




 7 マルクスの理論的諸前提

 滝村さんのマルクス主義人間解放思想批判を、その<人間観>の問題に即して捉え返してみれば、次のようになるでしょう。

a)マルクス・エンゲルスには、抽象的一般的な国家の本質規定はあっても、学的なレベルでの国家論・政治学はない。

b)その国家論・政治学の不在は、<イデオロギー>的立場から、<思想>的方向で<社会>を語るとき、マルクス自身が開拓したはずの<社会構成理論>(とりわけ<政治的社会構成>としての実体的な枠組み)をふっとばす、経済学者的発想となって現れた。
 この<政治的社会構成>としての実体的な枠組みをふっとばす発想は、

現実の<社会>というものが、<政治的社会構成><経済的社会構成><思想・観念的諸形態>の三層があって初めて<社会>として「一本」である

 という<社会構成>の歴史的=論理的あり方を、きちんと押さえていないことを意味している(滝村さんが「国家」の死滅の不可能性をいうとき、通常のマルクス主義的国家死滅論の「国家」概念ではなく、<政治的社会構成>の消滅不可能論として読まなければならない)。

c)マルクスとエンゲルスは、<思想>的に<社会>を語るとき、この<社会構成>の歴史的=論理的あり方をきちんと押さえないまま、<共産主義革命主体>形成の問題を語っている。
 資本主義の高度生産力は、<プロレタリアート>=<人間的本質を全面的に発展させうる自由な諸個人の原型たち>(資本主義のは墓掘人)を産出し、その<共産主義革命主体>としてのプロレタリアートは、世界革命主体として、「プロレタリアートに祖国なし」という風に<国家・民族>を超え、古い<思想・道徳>を止揚し、「人類前史」を終わらせ「人類本史」の幕をあげる世界史的使命を担う。
 これがマルクス・エンゲルスの革命主体に関する基本発想である。

d)しかし、マルクスとエンゲルスは、<共産主義革命主体>としてのプロレタリアートが、<政治革命>主体として国家権力を握り、<社会革命>を遂行するという方向性だけは示しているが、その共産主義に至る過渡期国家が、いかなる政治形態を取るのか?……その<政治革命主体>の組織的な存在形態は?
 というような、もっとも肝心なところは議論として提出していない。わずかにパリコンミューンを「労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態」という発想を提出しているのみである。

  e)さらに、<政治革命>後の<社会革命>においては、「社会化された個人」が、「結合された理性」を主体的実践的に働かせ、「結合された理性」に自ら主体的・実践的に従い、社会を合理的に、内部調和的に統制・管理・運営するという抽象的なイメージを語っているだけである。
 [社会主義的所有形態を有機的に組織し、諸個人は必要に応じて分配を受けるという原則をどう具体的に達成するのか?…それも、マルクス・エンゲルスのいう個人が朝には漁師・昼には牧人みたいな自由な活動様式において、社会全体の高度生産力(共産主義の物質的基盤)をどう維持するのか?…その維持のための統制・管理機能を<だれ>が<どういうふう>に<有効>に担うのか…]
 こういう具体的な議論は、その基本的骨格レベルにおいても提出していない。
 “いまの段階で具体的なブループリントを語ってもしょうがない”というマルクス・エンゲルスの発想は、“高度な生産力が全面開花すれば、人間は余暇時間がう〜〜んと増えるし、その時間を使って共産主義的人間としての全面開花が可能となる”というレベルに、とどまっている。

f)以上のような、国家論・政治学の実質的不在、<国家・民族>を超える世界革命主体としてのプロレタリアートの世界史的使命、パリコンミューン論の理念化etcという、マルクスやエンゲルスの<理論>的到達水準を踏まえ、その信奉者たちの党派が、<思想的・イデオロギー的>な革命的実践・運動を合理的・有効に展開するために、真剣に党組織・革命論を構築すれば、レーニンたちの道を歩くことになるだろう。




8 革命的逆ユートピアの論理的プロセス

 マルクス・エンゲルスの到達した理論水準を前提に、それを実現すべくレーニン的党組織論・革命運動論に則り、プロレタリア政治革命と社会革命を成功させるということは、次のような論理的プロセスを辿ることを意味する。

@ プロレタリア政治革命は、法を創り法を執行する実践的なコンミューン型国家を、強大な一大政治machatとして構成し、国家権力を打倒し、旧体制勢力を一掃し、旧体制の政治的諸課題のうち引き継ぐものは引き継ぎつつ、新たな革命的諸課題を遂行するものである。
 マルクスが『フランスの内乱』で語ったように、政・経レベルの社会的分業を<止揚>するべく、「全人民」は、国家統治レベルで<さまざまな公的秩序維持・統制機能をかわるがわる行う>。
「全人民の全人民による自己統治」が行われ、その「自己統治」によって、<人間的本質を全面的に発展させた自由な個人>へと自らを「陶冶」できるようになる。
「全人民」すべて政府構成員にならないければならない(「バクーニン・ノート」)というのはそういう意味である。

   A プロレタリア社会革命は、「社会化された個人」が、「結合された理性」を主体的・実践的に働かせ、「結合された理性」に自ら主体的・実践的に従い、自分たちの社会を合理的に、内部調和的に統制・管理・運営する経済構造を創出する過程である。
 その内部調和的統制・管理・運営を、統一社会的レベルで有機的に構成するためには、革命主体は、強大な一大経済machatへと自らを構成しなければならない。

  B 生まれたばかりのプロレタリア国家を守り、その<政治革命>と<社会革命>を、長期的・継続的に遂行するためには、革命に対して干渉・侵害・攻撃を仕掛けてくる外国勢力を排除しなければならない。そこで、プロレタリア国家は、一大軍事的machtとして自らを構成しなければならない。

C 要するに、革命主体は、政治的・軍事的にも経済社会的にも、とてつもない巨大なmachatとして自らを完成させていなければ、<政治革命>も<社会革命>も首尾良く成功させることが出来ない。
 政治的・軍事的には、ブルジョワジーの反撃を政治的にも軍事的にも粉砕し、あるいはプロレタリアート陣営の内部から不断に生起・復活再生しかねない、旧社会のブルジョワ政治的・思想的自由の残滓・悪弊を矯正・予防し、「全人民」の「自己陶冶」を長期的・継続的に遂行していかなければならない。
 経済社会的には、ブルジョワ自由市場経済の復活を阻止し、あるいはプロレタリアート陣営の内部から不断に生起・復活しかねない旧社会のブルジョワ経済・社会的自由の残滓・悪弊を矯正・予防し、<人間的本質を全面的に発展させた自由な個人>へと自らを「陶冶」していかなければならない。

D しかし、これら膨大な政治軍事的・経済社会的・文化教育的な公的全業務を、「全人民」が、国家統治レベルで<さまざまな公的秩序維持・統制機能をかわるがわる行う>ことなど、村や町レベルならともかく、近・現代社会においては現実には不可能である。
 結局、せっかく創り上げた革命国家を守り、社会を維持し、プロレタリア社会革命をやり抜くためには、専任的な統治・行政のプロによる高度かつ有機的な社会的分業を採用・展開するしかなくなる。

E その場合、レーニン党組織・運動論に導かれたコンミューン型国家は、その専制国家としての巨大化は途方もないものになる。
 コンミューン型国家は、政治的レベルでの分業(三権分立)を否定しているわけだから、公的全業務を遂行する社会的分業が高度かつ有機的であればあるほど、その全活動を有機的に統一する指揮中枢指導部への政治的・経済的・文化的な諸権力の一元的集中は加速される。そうなると、結局は、

「国家を死滅させるために、個々人の人生にたいしては回り道も何も許さないというような社会的状態をつくるためには、もの凄い専制権力をつくらないとできない。<国家の死滅>を可能にする社会的な前提条件そのものが、専制国家を肥大化させる」(151頁)

 という革命のパラドックスになる。
人民になりかわり<公的統制・管理・運営権力>を掌握し行使する側が、階級階層的に独立化・固定化し、政治的公的に支配するがゆえに経済的にも支配する政・経未分化の専制支配となって現れる。
 <政治革命>でブルジョワジーを打倒したから、基本的な階級的・敵対的対立が消え、国家権力も国家も長期的には死滅するだろうというのは、ひとたび創出された専制的国家権力と国家の内在的な<論理>を無視し、国家・政治の問題を経済的な階級的基礎の問題に還元する経済主義的発想でしかない(注5)。
 共産主義社会を創り国家を死滅させるためには、巨大な専制国家を創出しなければならず、結局、共産主義は不可能となるだろう。
 あくまでも議会政民主主義に則っていけば、これもまた、共産主義的変革も国家の死滅も不可能ということになってしまう。




9 革命的逆ユートピアと人間的自由の問題

 この<政治革命>と<社会革命>を、<共産主義的人間主体形成>の問題として捉え返せば、<共産主義的人間主体形成>において、マルクスの<本質論的な社会観・人間観>に内在する<社会無くして個人なし>という<理論的>発想が、個人の位相を捨象し<個人>を<社会>に溶解させる<思想的>的発想として、極限的に拡大されていくプロセスを、看て取ることができる。
その論理的プロセスは以下の通り。

(1)<革命主体>たる人間は、人間的本質の開花せる<本質>的な社会的在り方として、ブルジョワ的な「公私の分裂」の<止揚>という未来社会の生き方を、革命前においても、革命過程においても、先駆的に選び取り、その生き方を生きなければならない。

(2)「公私の分裂」の<止揚>という生き方を徹底的に突き詰め、<革命>のために自己の一切を賭けて生き、<革命>のために喜んで死ぬ<人生観・死生観>を確立しなければ、そもそも<革命主体>は<革命主体>たりえない。
理想に殉じる信念が熱狂レベルまで高まらなければ、現実に<革命>を成し遂げる強烈な政治的・社会的パワーは生まれにくい。だが、

(3)現実に<革命>を成し遂げる強烈な政治的・社会的パワーが顕現し、<公私の分裂の止揚>という生き方を徹底的に突き詰め、<革命>のために自己の一切を賭けて生き、<革命>のために喜んで死ぬ<人生観・死生観>を確立した人間達が、レーニン党組織論・革命論を武器に、<革命権力>を掌握したととしよう。
 そのときから、【崇高な大義が崇高であるが故に、大義そのものが裏切られる悲劇的パラドックス】が始まる。

  (4)この<公私の分裂の止揚>という発想の基底に、マルクス的な<社会―即―個人>と<社会―内―個人>の統一された科学的<人間>規定が、大きく媒介的な(直接的にではなく)規定性を及ぼしている。
 より正確な言い方をすれば、<社会―即―個人>(社会そのものとしての個人)と<社会―内―個人>という<人間>規定に内在する、<社会なくして個人なし>という本質論的人間観が、個人という位相を捨象するかたちで、<思想>的発想として全面的に躍り出てくる。すなわち、

<社会あっての個人であり、個人あっての社会ではない>
            ↓
<社会の歴史的必然性を認識・自覚し、その必然に従い、必要ならそれに殉じる「社会化された人間」の主体的人生こそが、真に自由に生き・死ぬことなのだ>
            ↓
<人類の究極の理想、その崇高な大義の前には個人の生命など問題にもならぬ>

 という<思想>的飛躍である。
 この特異な<人生観・死生観>は、共産党員だけのものではない。
 なぜなら、マルクスのパリ・コンミューン論の理念をそのまま実践する限り、ブルジョワ的な政治・経済の分業を止揚すべく、全人民がすべて統治に参加し「自己統治」し、「社会化された人間」として<人間的本質を全面的に発展させた自由な個人>へと自らを「陶冶」していかなければならないからである。
 全人民は、「人類前史」に幕をおろし「人類本史」の幕を上げる人類史的使命を担う。人類史の歴史的必然性を認識し、<真理>に従い、<真理>を体現して生き、必要とあらば<真理>に殉じることで、堕落したブルジョワ的自由を超えた真に<社会的に自由な存在>になるからである。

  滝村さんのマルクス批判の中から、以上のような論理的脈絡を読みとることが出来ます。 

   この「未来の共産主義的人間」の形成に関して、トロツキーが『文学と革命』の中で、「人間の改鋳」という問題として論じています。
 「未来の共産主義的人間」は、自らの意識も意志も完全に統御でき、その思考も身体も完璧で、その平均的な知的レベルはアリストテレスやマルクス。そういう「超人」たちが主体的に構成するのが、共産主義社会です。
 まさに理想主義の極地ですが、ここまで理想を突き詰める体質の人間たちが、もし政治権力を握ったら、理想の実現を阻む障害にたいして、断固として情け容赦なく徹底的に振る舞うのは必然でしょう。
 KGBの前身チェーカーのレーニン時代のパンフレットに、
「我々チェキストは人類の究極の理想を果たそうとしている。人類の究極の理想の前には、これまでのすべての道徳は無である。我々チェキストは人類の究極の理想のために、すべてが、どんなことでも許されているのだ!」
 というような趣旨のことが書かれています。
 そういう理想の実現に、全身全霊をこめて邁進することこそが、ブルジョワ的な「<公私の分裂」の<止揚>です。
 「公私の分裂」を<止揚>した<社会>的にして即<個人>的なコミュニストは、共産主義という理想大義のためには情け容赦なく他人(敵)に死を強制できるし、自らも必要とあれば喜んで死ななければならず、そうすることで「共産主義的人間」の先駆的生き方の実が示される。
 マルクスの娘婿は、老いて病み、党活動ができなくなったと判断したとき、自殺したはずです。トロツキーも自殺に関して似たような発想を述べています。
スターリン時代、逮捕前後に自殺した党員は、革命の戦線から自分勝手に離脱したエゴイズム的死、党の大義のために死ぬべきコミュニストにあらざるブルジョワ的な死として、死後も糾弾されました。大月書店から出ている『資料 共産主義の歴史シリーズ 1932年〜38年 大粛清』という膨大な資料集に、当時のロシア共産党党中央委員会総会の会議録がのっていて、彼らがどういう<人間観>を持っているか、実に興味深い。
 そういう<人生観>と<死生観>は、イデオロギーの中味をかえれば、
「私の狙いは、人間を蜂のように、女王蜂のためにもくもくと働き女王蜂のためにもくもくと死ぬ働き蜂のようにすることだ」(『永遠なるヒトラー』ラウシュニング)
と広言したヒトラーとも、狂信的な神聖国家とも、一つの共通の特徴をもつことになる。
 イラン・イラク戦争で、イランは大量の少年兵を徴募したが、少年兵たちに地雷地帯を突撃させ、爆発後に正規兵が進撃するためだった。
こういう人間の扱い方は、フランス革命軍にも赤軍にもみられることで、ナチズムであろうがイスラムであろうがデモクラシーであろうがマルクス主義であろうが、崇高な理想の追求が狂信レベルまで行き着けば必然的にそうなるし、そして、崇高な理想の追求が狂信レベルまで行き着かなければ、そもそも<政治革命>を成し遂げ<社会革命>を貫徹するパワーなんて生まれないわけです。


   以上、滝村さんのマルクス主義人間解放思想批判を、私なりの言葉で纏め直しておきました。
  マルクスの抽象的一般的には正しい<本質的な社会観と人間観>を共有する人間たちが、具体的な学的国家論もなにもないまま(注5)、<社会的存在としての人間が、その社会的性格に相応しいかたちで、自らの人間的本質を全面的に開花発展させた高度な社会>という理想主義の極地みたいな社会を実現するべく、その理論的に正当な発想を思想的に飛躍させ、レーニン組織論に基づき現実的な政治的革命パワーへと自らを転化したとき、<公私の分裂の止揚>という未来社会の先駆的生き方が、【<思想>の不可避的パラドックス】というかたちで顕現することになる。
  これまで、天才的な文学者や優れた保守的知性が鋭く捉えた革命の逆ユートピアと人間的自由の問題を、文学でも思想でもなく、<社会科学><国家論>のレベルで提起し、【マルクスの論理を以てマルクスを解体する】がごとき姿勢で、逆ユートピアニズムの政治的メカニズムの解明を、マルクスの<社会―即―個人><社会―内―個人>にまで目を届かせ議論を展開するという<方向性>にこそ、その画期的な意義があると思います。
 滝村さんの議論はマルクス思想を文献学的に緻密に追ったものではないし、「草稿」(『大綱』)ゆえの、また「取りあえずの覚え書き」(「マルクス主義の方法的解体」)ゆえの叙述・構成の問題は残るし、マルクスの特異な真理論に媒介された人間的自由の位置づけ方の問題にはほとんど触れていない点で、これで完全とは思わない。
 しかしまあ、<本質論>レベルではこれできまりでしょう。
 <思想>の悲劇的パラドックスを背負いながら、<資本主義>という「人類史が生んだ知恵ある錯誤」(吉本隆明)に対して、いかに立ち向かえるか?……という重い問題を考えるとき、滝村さんの<理論的>指摘を踏まえなければ、<思想的>には一歩も前に進めないと思っています。




 さいごに

 Nさんのメールに触発されて、自分なりに考えてみたことを思いつくまま書いてみました。
    「国家死滅の不可能性」の問題ですが、研究者の理論的結論に、
“滝村は理論的結論と称して、国家を乗り越える戦いに水をさすかのように、国家の永遠をあちこちで触れ回っている!”
 といった類のイデオロギッシュな憤激を浴びせても、なんの意味もないことです。
 滝村さんが、
 “国家は永遠に不滅です!……国家を崇拝せよ!!……これは理論的・科学的に証明された定説です!!!”
 と言ったというのなら、まあ、憤激する気持ちも分からぬでもないが、滝村さん、そんなイデオロギッシュなことは一言も言ってないわけで。
 滝村さんは、非常に冷静かつ慎重な(揚げ足を取らせないというか)、研究者としての分限を弁えた言い方をしていますよ。

「ひとたび成立した国家権力は、<内外危難に対する諸個人の社会[共同体]総体としての維持と発展>に現実的な基礎をおいた、社会[共同体]の<国家>的構成と組織化が、必要かつ必然であったかぎりにおいて、存立し続ける」(『国家論大綱 下巻』642頁)

 「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」する「かぎりにおいて」、「国家権力は存立し続ける」。
 しかしこれを逆にいえば、「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」しなくなったら、「国家権力」は消滅するわけです。
 だから、“国家権力は永遠不滅である”なんて予言者風のストレートな言い方をしない。
「社会が<国家>的構成と組織化」を「必要かつ必然化」しない事態があるのかどうか、将来のことは言わない。
  ここでボールは読者に投げ返される。

「<内外危難に対する諸個人の社会[共同体]総体としての維持と発展>に現実的な基礎をおいた、社会[共同体]の<国家>的構成と組織化」が、「必要かつ必然化」されない社会って、どんな社会なんだろう?……そんな社会って、歴史的・現実的ににあり得るの??……」

 という風に。後は読者が独自に理論的に追求し、主体的実践的な<思想>的絵図を、それぞれが描いていけばいい。
 研究者として、「国家の死滅」という<思想>的課題を<理論>的に考察する場合、理論的<分限>を弁えるというのは、こういうことなのだと思います。

  社会主義は将来不可能なのか?……という問題は、これは軽々には答えられない問題です。
 社会主義は、ソ連型の「社会主義」というかたち以外ありえないのか?  それとも、まったく別の展望があり得るのか?
 だた、現時点で言えることは、

 【 未来のより人間らしい社会がどのようなものであれ、近代以降に結晶した政治的自由主義(議会制民主主義)と経済的自由主義(市場経済)をぶちこわすラジカルな革命主義からは、資本主義社会の搾取と抑圧に倍する悲惨が必然化するだけである 】

 ということです。
 しかし、ラジカルな、ほとんど狂信に近いイデオロギッシュな主体形成があってはじめて、政治的に大きな変革はなしえないわけで、これは極めて難しい……根源的な問題です。
 私の問題関心としては、『国家論大綱』における「統治」「行政」の二重原理にしても、三権分立論にしても、あるいは、<社会>は「政治的社会構成」「経済的社会構成」「社会的意識諸形態」の三層があってはじめて<社会>として一本である、という根元的な社会構成論的把握なども、極めて有益な<思想的>武器になりえるだろうと思っています。
 それ以上のことは、静かに考えを深め、じっくり答えを出していこうと思っています。



(注5)
 “醜悪極まる社会主義の惨状には、スターリン・レーニンに責任はあり、エンゲルスにも一定程度あるかもしれないが、マルクスにはない!”という古いマルクス護教的発想があります。
 その潮流の中で、“マルクスは国有化絶対論者ではない”といった類の弁護論を言う人たちもいる。しかし、

[ それでは、国有以外の社会主義的所有形態を有機的に組織し、諸個人は必要に応じて分配を受けるという原則をどう具体的に達成するのか?…それも、マルクス・エンゲルスのいう個人が朝には漁師・昼には牧人みたいな活動様式において、社会全体の高度生産力(共産主義の物質的基盤)をどう維持するのか?…その維持のための管理機能を<だれ>が<どういうふう>に<有効>に担うのか…]

 こういう具体的な議論にきちんと答えた(少なくとも骨格だけでもきちんと示した)マルクス主義者、寡聞にして知りません。
  なるほど、広西元信『資本論の誤訳』などは、先駆的業績として高く評価されるべきだと思います。
 広西は、マルクスの概念規定(所有・占有)をエンゲルスが混同し、その混同がロシア語訳に引き継がれ誤謬が拡大し、「社会主義」=国有化・中央集権的計画経済という発想を産み、さらに日本語訳に影響を及ぼし、「所有」「占有」「結合」(コンビネーション)「連合」(アソシエーション)の日本語訳の混同が今度は中国語訳にもろに影響を及ぼし……という文献学的誤謬の連鎖を指摘しています。
 しかし、広西に依拠してマルクスの「アソシエ」論を展開する議論(これは日本共産党にさえ次第に受容されていくだろう)をみていると、その文献解釈学的業績は業績として評価してあげなければならないのでしょうが、マルクスは国有至上主義者に非ず!と言うとき、その「国」とはいかなるレベルで使っているのか?……徹底的に突き詰めて議論していないように思えます。
 彼らは、過渡期国家がプロレタリア独裁なのか?
その政治形態はいかん、その<政治革命>はいかなるものか?
その<革命主体>の在り方は?
 というようなもっとも肝心なところをネグって、
<政治革命>後の過渡期国家の<社会主義革命>段階を語ることに全力を集中しているように見える。
 その姿勢に、私は護教主義とアナーキズムへの転落のにおいをぷんぷん感じます。
 さらに言えば、“いまの段階で具体的なブループリントを語ってもしょうがない”というマルクスの口まね的言い方には、“高度な生産力が全面開花すれば 、人間は余暇時間がう〜〜んと増えるし、その時間を使って共産主義的人間としての全面開花が可能となる”という、単純な経済還元主義的発想を感じます。  






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