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目次
A <本質=関係>把握としての弁証法
はじめに
1 本質=関係概念とはなにか?
2 <媒介>の論理
3 <本質=関係>の具体的展開ー三権分立論に即して
4 <関係>概念の二重性
5 弁証法の方法的位相
6 論理学と個別科学
7 弁証法はいかなるレベルで有効なのか?
「付論―ヘーゲル『論理学』と学的弁証法」
はじめに
本稿では、<本質=関係>という本質観のレベルから、ヘーゲリアン・マルクシズムの<学的弁証法>を論じていく。
<弁証法>と一口に言っても、それが開拓された学的フィールドが、ヘーゲル(哲学者・論理学者)とマルクス(社会科学者・経済学者)、エンゲルス(歴史理論家)ではそれぞれ異なっており、この学的領域の相違が<弁証法>に及ぼす規定性については、十分に留意しなければならない。
後ほど論じることになるが、ヘーゲル弁証法は、<哲学大系>に占める『論理学』の特異な位置から、必然的に
a)
弁証法(体系)=思弁的論理学
であり、且つ同時に
b)
弁証法(方法)≠思弁的論理学
でもあるという、矛盾した構造になっている。この思弁的論理学=弁証法体系(『論理学』)を学の頂点に据えることで、ヘーゲル哲学は<体系>的に構成される。
『論理学』の内部構成は「始元→進展→終局」という完結した<弁証法体系>(円環)を成し、その「終局」が新たな<下位体系>(円環)の「始元」を論理必然的に準備し、ヘーゲル<哲学体系>は論理学⇒自然哲学⇒精神哲学の<諸円環の体系>(円環)として完結する。
この<体系>を神学的・宗教的モチーフからみれば、神的理念が地上界(自然・精神)に貫徹する神の顕現過程であり、学的レベルから捉え返せば、思弁的論理学=弁証法体系から「自然哲学」「精神哲学」への応用論理学的具体化過程とみることができる。
マルクスとエンゲルスは、このヘーゲル哲学の<体系>(円環)を斥けながら、<体系>の内部で<体系>と矛盾し、絶対真理の完結的<体系>を否定・破壊する「革命的方法」を、<弁証法>として取り出した。
ただマルクスの場合は、<弁証法>を学的に継承(止揚)する視角と次元がエンゲルスとは異なっている。個別科学(社会科学・経済学)の立場から、体系⇔方法(弁証法)と単純に対立させることなく、ヘーゲルの
<体系=方法>の論理を、『資本論』に収斂する<個別科学体系>レベルで継承することになった。
ヘーゲルもマルクスも、学問Wissenschaftは<体系>的なものでなければならないと考える点では同じである。
ヘーゲルにとって、学問的<真理>の証明は、ただ単に、“真理は○○である”という一般的・抽象的な<真理>命題を、ぽッと提出して終わりというものではない。客体的に存在する<真理>は、自らが<真理>であることを、
<真理の実在的諸契機a→b→c……の論理必然的な歩み>の中で、過程的・段階的に確証していく。
学的認識主体は、<真理>が自ら歩む客体的な
論理行程(体系性)を捉え、
<真理の概念的諸契機A→B→C……が以て自らの本性を開花・顕現していく>重層的・立体的な<理論体系>へと組み上げていく。それ以外に、<真理>を学的に証明する
<方法>はない。
これがヘーゲルの<体系=方法>の論理であり、『論理学』では、この<真理>の掴み方を、伝統的な形而上学・論理学の存在論的・認識論的諸規定を論理的に再構成しながら、実地に展開して見せている。
ヘーゲルは神学徒上がりの哲学者だから、<哲学体系>の構成も概念内容も、天上を支配する絶対普遍の神的理念が自然界・精神界に自らの論理を顕現・貫徹するという、観念論的・神秘的粉飾と宗教的意味づけが施されている。しかしその粉飾をはぎ取れば、ヘーゲルの<真理>の掴み方(方法)は基本的にマルクスと変わらない。すなわち、
[ 認識主体が<真理>を掴む方法は、対象に内在する客体的な
<論理>(体系性=弁証法性)を捉え、その<論理>に従い、その
<論理体系性>(弁証法性)に相応しい
<理論体系>的叙述を展開する
(<主ー客>が照応する)ものでなければならない ]
ということになる。この事象の<体系的分析・構成法>こそが、ヘーゲルとマルクスの<学的弁証法>である。
後に述べるが、学的<真理>の証明を壮大な<体系>構築を以てするという<体系=方法>(弁証法)は、実験的実証や厳密な数理的論証で<真理>を確証・累積し難い特殊な理論科学領域(政治学や言語学などの社会科学・精神科学)で、その<方法>的有効性を発揮するといえるだろう。【ヘーゲル<哲学大系>⇒マルクス<個別科学大系>への方法的流れについては、「付論―ヘーゲル『論理学』と学的弁証法」であらためて取り上げる】
この <体系=方法>という<方法>(弁証法)は、エンゲルスや三浦のいう弁証法=「対立の統一に関する学」という古典的定義と、相反するものではない。
この点を理解する鍵は、<本質=関係>というヘーゲル・マルクスの本質観である。
「対立の統一」(矛盾)は、直接性と媒介性の統一(矛盾)として捉え返せば、ヘーゲルが『論理学』「本質論」で展開した「反省としての本質」の論理そのものであり、「反省としての本質」の論理は、<本質=関係>の論理である。すなわち、
[ <本質>は、対象の内部に存在する抽象的実体的なモノではなく、<本質>をそれ自体として、「直接」実体的に把握することはできない。<本質>は、自らが<本質>であることを、「他者」(本質ならざるもの)への反照(関係)において段階的・過程的に開示していかなければならない ]
<本質>が自ら<本質>であることを証す<本質=関係>の論理的歩みを、その<内部過程的構造>において捉え返せば
a)ダイナミックな内部<過程>的構造としては
<運動>であり、
b)よりスタティックな内部過程的<構造>としては、
<体系>である。
<本質=関係>の論理的歩みの<内部過程的構造>は、
[ 事象を事象たらしめる<本質>が、その<本質>に相応しい、構造的に複雑な実体的仕組みと、現象的に多様な機能的諸作用・諸連関を、現実の歴史的舞台で、現実具体的に開花・顕現・発展させてい本質⇒構造⇒現象過程 ]
である。この<本質が以て自らを構造的に具体化し現象的に顕現していく媒介=止揚過程>(本質⇒構造⇒現象)を、
<本質の自己発展・自己導出過程>として論理的に純化すれば、厳密に弁証法的な
<運動>概念が成立する。
そしてこの<運動>過程を、内部過程的<構造>としてよりスタティックに捉えれば、<本質=関係>の論理的歩みは<体系>といえる。
事象に内在する個別的・特殊的諸契機a・b・c・d・e……は、事象を事象たらしめる<本質>的性格との<関係>において、個別・特殊それぞれの論理的レベルを確定され、<A―B―C―D―E……>という重層的・立体的な<構造>を成す。<個別・特殊は普遍(本質)を孕み、本質(普遍)は個別・特殊の姿態を取り、個別・特殊に媒介されて、自らが本質たることを遍く開示している。
この個別・特殊・普遍の<媒介=止揚関係の総体>を、内部統一的な連関構造として捉えれば、<本質=関係>の論理的歩みは<体系>となるのである。
「関係概念で媒介構造を把握する」(『認識と芸術の理論』勁草書房303頁)ことを強調したのは三浦つとむだが、<本質=関係>という本質観の深いところでマルクスとヘーゲルは繋がっており、<関係>概念から「媒介構造」を把握することは、厳密に学的レベルで<体系的=弁証法的>方法を理解するための、核心中の核心であろう。
以下の叙述では、この点を具体的に明らかにしていきたい。
1 本質=関係概念とはなにか?
まず、ヘーゲル・マルクスの<関係>概念がどのように使われているのか?……、 ヘーゲルの言葉に即して見ていこう。
「日常生活でWesenという言葉が用いられる場合、それはしばしば総括とか総体とかいう意味しか持っていない。例えば、人々は、Zeitungswesen(ジャーナリズム)とか、Postwesen(郵便制度)とか、Steuerwesen(租税制度)、等々と言う。そしてそれらの意味するところは大体、これらの事柄がその直接態において個別的にではなく、複合体として、そしてさらにまたさまざまな関係において理解されねばならないということである。Wesenという言葉のこうした用い方には、大体においてではあるが、本節に本質として示されたものが含まれている」(『小論理学』112節補遺 岩波文庫下巻10頁)
ここで留意すべきことは、「直接態において個別的にではなく」という言葉が、「複合体として」「関係において」という表現に、等値されていることである。ヘーゲルは、同じ『小論理学』「112節補遺」の中で、「直接態」という言葉を次のように繰り返し使っている。
「例えば、人々はよく、人間において大切なことは、その本質であって、その行為や行状ではないと言う。これは確かに正しいところもあって、人間の行為はその直接態においてではなく、彼の内面によって媒介されたもの、彼の内面の顕示としてのみ見なければならない。ただ、この場合看過してならないのは、本質及び内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示すのである」(同上 14頁)
ヘーゲルはこの『小論理学』の補遺で、対象の<本質論>的解明とは、事象の「直接態」において為されるものではなく、「媒介」的に為されるべきものとしている。
この<直接>⇔<媒介>という対立的把握は、極めて重要な論点である。
諸関係の「総括」「総体」「複合体」を<本質>と見なす発想は、対象の複雑多様な諸相・諸連関を、その「直接態」のレベルのまま把握し現象並列的・網羅的に「総括」「複合」する、即物経験的レベルのものではない。対象の<本質=関係>把握を、<本質の現象的顕現>という重層的・立体的な<媒介の論理>として、提起するものである。
では、<本質=関係>概念と<本質の現象的顕現>という<媒介の論理>は、どのように繋がっているのか?
このことを理解するために、滝村隆一の<本質=関係>理解を見ていくことにしたい。
滝村はその初期から、ヘーゲル・マルクスの<本質の現象的顕現>を対象の弁証法的把握の核心と位置づけ、その<媒介の論理>を<関係概念>の問題として捉えている。ヘーゲル『論理学』で展開された<学的方法>を、滝村国家論に即して理解することで、その難解さを、かなりな程度解きほぐすことができるだろう。
滝村は『増補 マルクス主義国家論』(三一書房)の中で、「対象に対する直接的かつ実体的把握方法」(諸概念・諸範疇の一つ一つを、歴史的現実的な<実体>的諸事象にそのまま機械的・直接的に対応させる発想)を批判しながら、大塚久雄や柴田高好の発想に、自分が「執拗に繰り返している弁証法的な方法」を対置している。
「例えばここに柴田高好という人間がいると仮定しよう。柴田という唯一の<実体的存在>は、大学における生徒との関係では<先生>と呼ばれ、家に帰って妻や子供との関係においては、<夫>や<親父>と呼ばれ、また彼の<子>であり、<兄>や<弟>と呼ばれる存在でもある。また彼が新幹線や電車・バスに乗れば<乗客>であり、本を刊行すれば<筆者>と呼ばれる存在として規定される。このように柴田高好という人間は、実体的には単一の存在でありながら、彼が好むと好まざるとにかかわらず取り結んでいる諸関係においては、どのレベルからどの関係を取り上げるかによって、同時に、実に様々な存在として規定されているわけである。
したがって、われわれが当該対象を弁証法的に把握するためには、同一事象・同一実体に関わる様々な概念に機械的に対応させて、実体的に区別される対象を想定したりするのではなく、かかる諸側面と関連を、原理的な区別と連関において、まさに統一的にとらえなければならないのである」(『増補 マルクス主義国家論』三一書房165頁)
ここで「統一的」というところに注目しなければならない。
滝村は別のところで、「『政治現象』を統一的に(つまり弁証法的に)解明しうる・政治学に独自の方法」(323頁)という言い方で、<統一的>すなわち<弁証法的>対象把握という基本視角を提出している。
「生きた現実、即ち複雑かつ立体的に錯綜して現出してくる歴史的=社会的事象を、様々な角度とレベルから、原理的な区別と連関において統一的に捉える」(同上 163頁)
「原理的な区別と連関」において「統一的」に事象を捉えることが、滝村の「弁証法的」対象把握なのである。
この滝村の基本視角は、『マルク主義国家論』以降も別の表現で繰り返し繰り返し強調されている。
「……学的・理論的把握の精髄は、<対象的事象のトータルな内的連関と仕組み(構造)>の、把握と解明にある」(『国家論大綱』上巻331頁)
「……事物の本質は、現象それ自体ではなく、その背後に内在する一般性、内在的な論理的連関を、把握することによって可能となる……」(同上 332頁)
この直接眼には見えない「内的連関」「論理的連関」を、別のところでは「内部統一的な論理的連関」と言い換えている。この発想は、マルクスも全く同一である。
「きっぱり断っておくが、私が古典派経済学というのは、ブルジョワ的生産諸関係の内的関連を探究するw・ペティ以来の全経済学のことであり、これにたいして俗流経済学というのは、外見上の関連の範囲のみをうろつき回って、いわば最も粗荒な諸現象のもっともらしい説明とブルジョワ的自家用のために、科学的経済学によって久しい以前に提供されてきた材料を新たに絶えず反芻し…………」(『資本論』第一部 河出書房74頁)
マルクスは、「外見上の関連」「粗荒な諸現象」と対比するかたちで「内的関連」を捉えている。この「内的関連」あるいは「論理的連関」がヘーゲルの<関係>に相当するものである。
滝村やマルクスの引用文の中で、この<関係>概念とともに、「構造」「現象」「実体」などの諸概念が使われていることに、注意しなければならない。とりわけ、<構造>概念を<本質=関係>概念との区別と連関において理解することは、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法を学ぶための、最重要ポイントである。
だが、関係・構造・実体・現象などの諸概念は、エンゲルス、あるいは三浦つとむ『弁証法とはどういう科学か』で述べられた、「対立物の統一に関する学問」(25頁)という定義とどう関連しているのか?……訝しく思う人がいるかもしれない。三浦の弁証法啓蒙書では、<関係>などの諸概念と、いわゆる「弁証法の三大法則」がどう繋がるのか?……明瞭なかたちでは叙述されていないからである。
実は、<本質=関係>を別の視角と次元から捉え直せば、「対立の統一」(矛盾)となる。また、三浦のいう「過程的構造」も、「関係概念で媒介構造を把握」し、即物実体的な「構造」把握とはまったく次元の異なる、重層的・立体的な「媒介構造」概念を提起したものである。初期滝村の「統一的」=「弁証法的」という基本視角が、「対象に対する直接的かつ実体的把握方法」を批判するかたちで提起されたことに、留意しなければならない。
「対立の統一」(矛盾)や「運動」といった弁証法的諸概念との関連で、ヘーゲル・マルクスの<本質=関係>概念を考えていく場合、三浦がよく使う「あれもこれも」の厳密な意味を確定すれば、話は分かりやすくなるだろう。
2 媒介の論理
事象の弁証法的把握は、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」でなければならないと言われる。
この「弁証法」VS「形而上学」の対立図式は、これまで、程度の低い通俗解釈がなされることがままあった。たとえば、“ソ連のハンガリ−武力介入それ自体は「悪」だが、アメリカ帝国主義の浸透を防ぎ社会主義共同体を守ったという点では「善」でもあり、善か悪か、あれかこれかと形而上学的(?)に考えるのではなく、あれもこれもと弁証法的(??)に考えなければならない”とか(これに関しては三浦の責任重大である)。
だが、「あれもこれも」というのは、「あれ」と「これ」を同一レベルで並列的に把握し、「あれ」も「これ」も両方どっちも押さえましょう……というような、現象レベルの話ではない。物事は善と悪の両面ある、世の中には裏もあれば表もある、歴史には光と影があるとかいう、現象的ないしは経験法則的レベルとは、そもそも論理的次元が違うのだ。
事象の弁証法的把握は、対象をその<直接>的姿態においてではなく、<媒介>的に把握することであり、<媒介>的な把握とは、「直接性と媒介性の統一」すなわち<矛盾>において把握することである。【補注1】 ヘーゲル曰く、
「普通人々は、哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置されるべきではなく、他のものに媒介あるいは根拠づけられたものとして示されなければならないことを、意味するにすぎない。ここでは、事物の直接的存在は、いわばその背後に本質が隠されている外皮あるいは幕と、考えられているのである。
さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接に現れている通りのものではない、ということを意味している」(『小論理学』112節補遺 岩波文庫上巻11頁)。
自然的事象であれ社会的事象であれ精神的事象であれ、歴史的現実的事象をその「直接態」において見れば、多様かつ複雑な個別具体的諸相a,b,c,d.e……として現れる。
「あれかこれか」の論理は、相互に区別される諸相をそのまま直接捉え、ある事物aに一つの規定<a>を与え、その規定<a>との<論理的連関>なしに事物bに規定<b>を与え、「あれ<a>」かそうでなければ「これ<b>」かと、固定的・対立的に把握することを意味している。
これら具体的諸相a,b,c,d.e……を、「その直接的存在」のレベルで論理的に抽象し、機械的にバラバラに切り離して把握するのが、滝村曰く、
「生きた現実、即ち複雑かつ立体的に錯綜して現出してくる歴史的=社会的事象を、様々な角度とレベルから、原理的な区別と連関において統一的に捉えるのではなく、文献学的な諸概念・範疇と直接的かつ機械的に対応させられた、実体的な『もの』として把握」(163頁)
する発想、すなわち「即物実体的論」である。あるいは、ソリッドな「実体」(モノ)そのものを否定し、直接経験的に実証可能な、現象的に多様かつ複雑に錯綜する機能・作用的連関a、b、c、d、e……を直接把握するのが「現象論的機能主義」である。
ヘーゲル的な事象の<本質>的把握は、これとはまったく違う。
自然的・社会的・精神的事象なんでもいいが、たとえば社会的事象を、その個別具体的諸相a、b、c、d、e……レベルでそのまま「直接」把握するのではなく、現象的諸相の「背後」にあまねく<普遍>的に内在する事象の<本質> (その事象を事象たらしめる根本的な性質)から、大きく論理的に捉え返す。
すなわち、a,b,c,d.e……を、事象の<本質>との<関係>において各々の論理的レベルを確定し、<a−b−c−d−e−f……>という統一的・体系的な<論理的連関>の中に「あれ(a)」も「これ(b)」もと位置づけていき、<本質>に遍く媒介された<特殊>的また<個別>的な諸契機として、重層的・立体的に<構造>化していく。
これは、ヘーゲルのいう総体性Totalitat−契機Momentを意味しているのであって、相互に区別される多様な諸相・諸連関を、内部統一的な<体系>を構成する<諸契機>として、重層的・立体的に「あれ(a)」も「これ(b)」もと配置していくのである。
このように「あれもこれも」を追求していけば、事象を「その直接態のまま放置する」のではなく、<本質>との<関係>において(<本質>に<媒介>されたものとして)把握すべしという、直接性と媒介性の統一(矛盾)に帰着する。
この「対立の統一」こそが、ヘーゲル『論理学』「本質論」の核心的テーマなのである。ヘーゲル曰く、
「論理学の第二部、本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取り扱うものである」(『小論理学』65節注釈 岩波文庫上巻222頁)
ヘーゲル「本質論」では、「第一編 反省としての本質」で、<本質>それ自体をも<本質=関係>概念で捉えている。すなわち、<本質>を<本質>たらしめている根本性格は、「反省」(関係)の論理=<媒介性>そのものである。
「本質論」では、諸規定の進展がすべて「他者への反省」として現れる。
<本質>は、対象の内部に存在する抽象的実体的なモノではなく、 <本質>の<本質>的把握は、<本質>をそれ自体として「直接」実体的に把握するようなものではない。
<本質>は、「他者への反省」において、すなわち「他者」=<非本質>的なものへの「反照」(関係)において、自らが<本質>であることを開示する。<本質>は<非本質>に<媒介>(関係)されてのみ、自らを<本質>として現象的に顕在化することができるのだ。
ヘーゲル曰く
「本質及び内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示す」
しかし同時に、
「事物の真の姿は直接に現れている通りのものではない」(『小論理学』112節補遺 岩波文庫下巻11頁)。
これは一つの<矛盾>である。たとえば、商品の「価値」は「価格」という現象形態において自らが「価値」であることを顕現するが、「価値」=「価格」ではない。「三権分立」という国家権力の最も一般的な制度的形態は、直接<実体>的な制度的構造としては「三大機関」の分立として現れ、直接<現象>的な諸機能・作用としては「三大機能・作用」分化として現れる。しかし、「三権分立」は「三大機関」「三大機能」と直接一致するわけではない。
弁証法で言う「直接性」と「媒介性」の統一はこういう<矛盾>として定立されるのであり、『論理学』「本質論」では、この定立された<矛盾>を、繰り返し繰り返し反復的に、<螺旋的・段階的>に叙述している。
「直接性」と「媒介性」の統一(矛盾)Aが、より高次の段階へと進展し、あらたな「直接性」と「媒介性」の統一(矛盾)Bを開花させ、さらにB→C→D……へと<体系>的に展開することで、<本質>は自らの<本質>を構造的に具体化していく。
これが、「本質は現象しなければならない」ということの厳密な意味である。本質の現象的顕現過程は、<本質>は<非本質>に<媒介>(関係)されてのみ、自らを<本質>として現象的に顕在化することができるという、<本質=関係>の論理の具体的展開なのである。
この<本質の現象的顕現>を、ダイナミックな<過程>的構造として捉えれば、ヘーゲル的な<運動>過程となる。ヘーゲル曰く、
「本質そのものは……否定態であり、他在と規定態とが自己を止揚する運動である」(『大論理学』以文社 寺沢恒信訳17頁)
事象を事象たらしめる<本質>は、その<本質>に相応しい、構造的に複雑な実体的仕組みと、現象的に多様な機能的諸作用・諸連関を、現実の歴史的舞台で、現実具体的に開花・顕現・発展させていく。
この<本質が以て自らを構造的に具体化し現象的に顕現していく媒介=止揚運動>(本質⇒構造⇒現象)を、論理的に純化して捉えれば、厳密に弁証法的な<内的運動>概念が成立するのである。
この<内的運動>は、事象の背後に存在する<論理的な媒介=止揚運動>を、本質⇒構造⇒現象という内部<過程>的構造として捉えたものだから、現実の個別具体的な歴史的・時間的過程、多様かつ複雑に錯綜する現象的変化・運動過程とは、論理的レベルを異にしている。
従来のマルクス主義哲学では、<運動>概念を、即物経験的に実証可能な事物の物理的・化学的な変化・運動過程レベル(肉眼で見えなくても顕微鏡や試薬を使えば直接<見える>)に、単純に還元する傾向にあった。
しかし、事象の現実具体的な直接的姿態を、その複雑かつ多様に錯綜する変化・運動的連関において把握するのは、経験論的発想の本領であって、ヘーゲル・マルクス流のダイナミックな<内的運動>把握はその対極に立つ。
個別具体的な歴史的諸過程の<弁証法>的解明というのは、直接的な歴史過程の背後にあり、その歴史過程を根本的に規定する<内部過程的構造>(本質―構造―現象)を、数十年ないしは数百年という巨視的な時間的尺度で通観し、その<構造>そのものがグラッと大きく転回する歴史的転換過程を、論理的に把握するものである。
この<内部過程的構造>は、その内部<過程>的流れに即して捉えれば、<本質が以て自らを開花・顕現・発展させる媒介=止揚運動>(本質⇒構造⇒現象)であるが、その内部統一的な<構造>的連関にスポットを合わせて捉え返せば、ダイナミックな<運動>概念は、よりスタティックな<体系>概念へと組みかえられる。
事象を事象たらしめる<本質>は、現象的に多様な機能的諸作用(個別)・構造的に複雑な実体的諸態様(特殊)に、あまねく普遍的に内在している。個別・特殊は普遍(本質)を孕み、本質(普遍)は個別・特殊の姿になり、個別・特殊に媒介されて、自らが本質たることを遍く開示している。
この<重層的・立体的な構造を成す本質(普遍)と特殊的・個別的諸契機の相互媒介=止揚関係の総体>(本質ー構造ー現象)を、大きく全体的に把握すれば、<体系>ということになる。
マルクスは「人間の本質とは、社会的諸関係の総体」であるという言葉を述べている。<本質=関係>把握は、“人間はAの面もあり、Bの面もCの面もあり……というように、「諸関係の総体」を「あれもこれも」と並列化するのではない。事象の内在的本質との<関係>において、多様な内在的諸契機を重層的・立体的に<構造>化し、相互に区別される諸契機を区別と連関において、すなわち相互に<媒介=止揚>し合う「諸関係の総体」として、内部統一的な<体系>的連関へと、「あれもこれも」配置することなのである。
以上、「あれもこれも」の問題を軸に、直接性と媒介性の統一(矛盾)が<本質=関係>の論理そのものであり、本質が以て自らの本質を構造的・現象的に顕現する<内部過程的構造>を、よりダイナミックに内部<過程>的構造(本質⇒構造⇒現象)として捉えるか、よりスタティックに内部過程的<構造>(本質ー構造ー現象)として捉えるかで、弁証法的な<運動>と<体系>概念が成立することをみてきた。
しかし、こう言っただけではあまりに抽象的すぎるであろう。
そこで、<本質=関係>の弁証法的論理とはどういうものか?……、滝村理論の白眉というべき<三権分立>論に即して、具体的にみていくことにする。三権分立論の歴史的流れの中で滝村三権論を位置付けてみれば、<本質=関係>概念の難解さを解きほぐすことができるだろう。
[補注1]
弁証法入門書・啓蒙書では、直接性と媒介性の統一(矛盾)を分かりやすく説明するため、現象レベルの比喩に頼り、どうしても弁証法論理の通俗化に陥りやすい。
たとえば、AさんがCに直接話すのではなく、Bさんに間に立ってもらい、BさんからCさんに伝えてもらう。このAとCの関係は媒介関係だが、A→B、B→Cは直接繋がっており、媒介関係はその内に直接性を含んでいる……というような。
こういう説明は、AさんBさんCさんたちの現象的連関を直接取り上げているだけで、弁証法的な対象の本質把握レベルのものではない。三浦の弁証法啓蒙書には、こういう記述がみられるので、特に初学者は注意が必要である。
三浦の学的水準と弁証法的実力を知るためには、やはり主著の『認識と言語の理論』『言語学と記号学』などを参照しなければならない。また、『日本語はどういう言語か』などは、「啓蒙的スタイルを取りながら内容は極めて高度かつ画期的」(吉本隆明)という、奇跡のような啓蒙書である。
しかしこれに比べると、『弁証法はどういう科学か』その他の啓蒙的著述は、 その見かけの易しさとは裏腹に、かなり評価の難しい厄介な書物である。
叙述の至る所で、マルクス主義哲学者・三浦と、科学者・三浦の二つの貌が分かちがたく結びつき、相互に規定し合っていて、読む者は、マルクス主義哲学者・三浦の哲学的限界と、科学者・三浦の真の実力を腑分けしながら読み進まなければならない。
だが、そもそも初学者に、そんな高度な論理的切開などできるわけがない。
初学者向きに書かれているがゆえに、三浦の弁証法的実力を見誤り、「三大法則」に単純に還元できない弁証法的方法の精髄を捉え難い……。そういう意味で、『弁証法はどういう科学か』その他の啓蒙的著述は、弁証法入門書としてみれば、初学者向けであるが故に初学者向きではないのである(この点は別稿「三浦『哲学』について」で取り上げる)。
3 <本質=関係把握>の具体的展開―三権分立論に即して
三権分立の<本質>論的把握は、四権でも五権でもなく、なぜ三権が三大機関に分立するのか?……を、その論理的必然性(三権でなければならない・三権以外ありえないという必然性)において把握するものでなければならない。
この三権分立論の歴史的流れは、
(1)即物<実体>論的な三大機関論
(2)現象<機能>論的な権力作用分立論
(3)<本質=関係>論的な滝村三権分立論
とみることができる。
モンテスキュー以降、三権分立の問題は、まず、実体的な立法(議会)・執行(政府)・司法(裁判)機関の分立と相互牽制的均衡という、三大機関論として提起された。
しかし、議会・政府・裁判所の具体的な在り方を見れば、立法権・執行権・司法権の三権は、三大機関とピタッと対応しているわけではなく、三権と三大機関にズレが生じている。
たとえば、議会が弾劾裁判権というかたちで裁判権をもっていたり、政府が実質的な「立法権」を(政府立法というかたちで)握っていたり、裁判所が判例というかたちで実質的な「法定立」を担っていたり。
そこで、三権分立の問題を、実体的な三大機関分立論として理解するのではなく、立法権・執行権・司法権の三大権力作用・機能の分立として理解するという、機能論的な発想が生まれてきた。
しかし、三権分立を単に権力作用・機能の分立の問題に還元することは、結局、三権分立論の実質的否定に至らざるをえない。
国家的諸機関は、統治、行政諸機関、また中央−地方的諸機関へと多様に分立しており、その分立に応じて多種多用な国家機能・作用が分化している。
したがって、権力分立の問題を作用・機能分立の問題に還元してしまうと、それら多種多様な国家作用・機能の分立から、とくに三大機能を取り上げる必然性がなくなる。なぜ、権力分立論を、とくに<三権分立>論としなければならないのか?……なぜ三権なのか?……という問題意識自体が、消失する。
かくて、三大機能論は、三権に限定されない「多様な権力分立論」として構成され、モンテスキュー以来の三権分立論は、もはや現代国家には通用しない(多様な権力機能が高度に分化発展した現代国家の現実を、説明できない)「古典的定義」という風に、神棚にまつりあげられてしまった。
以上のような権力分立への実体論的、機能論的発想に対して、滝村は、「権力一般論」に<媒介>された三権分立論を提出した。
「<三権分立制の核心は三大機関の分立にあって三大機関の分立に非ず>。三大機関分立の背後には、規範それ自体の内的な運動、つまり規範としての意志の形成−支配過程が、大きく控えている」(同上587頁)。
「<なにゆえ三権でなければならないのか>という意味での、本質的把握は、理論的には、意志論としての規範論を、前提としてのみ可能となる」(『大綱』上巻588頁)。
<三権分立>を直接それ自体として見れば、三大機関の実体的な分割・分立、その三大機関に担われた国家機能・作用として現れている。
<三権分立>の本質的把握とは、この実体的な三大機関、機能的な三大作用という直接的姿態の背後に、「規範それ自体の内的な運動、つまり規範としての意志の形成−支配過程」を、透かし見ることである。
立法権・執行権・司法権の実体的・機能的分化分立は、権力<本質>レベルでいう<国家意志(法)の形成−支配>に、大きく<媒介>的に規定されている。
(1)立法は<国家意志(法)の形成>に対応し、
(2)執行は<国家意志(法)の支配>に対応する。
(3)司法は、個別具体的な違法行為への法的審査・監察・処罰というかたちで、国家的支配(法の支配)を、個別具体的レベルで、最終的に貫徹・確定する。
この「法に基づく審査・観察権」(司法権)は、国家的支配の全域に隅々まで及ぶ(原理的に貫徹する)ものである。すなわち、
【 法を作る→法に基づき執行する 】
という立法・執行の過程全体もまた、<法に則って正しく行われているか否か?>、法的な審査・監察・処罰の対象になる。
したがって、<法の支配>が国家・国家権力の全域に隅々まで及ぶ(原理的に貫徹する)ということは、いかなる権力者もまた<法の支配>に服し、違法行為があれば処罰されなければならない、ということでもある。
<法の支配>を国家的支配の全領域で、個別具体的レベルで最終的に確定するところに、<司法権>の本質(単なる「裁判権」とは原理的に区別される)がある。 [補注2]
このように、権力分立は、権力の「意志(国家法)の形成−支配」に大きく<媒介>されていていて、そうであるがゆえに、四権でも五権でもなく、三権の論理的区別以外ありえない。
国家意志(法)の形成(立法)
↓
国家意志(法)に基づく支配(執行)
↓
国家意志(法)の支配の最終的確定・貫徹(司法)
という構成は、権力の<本質>から言って、論理的必然的な分化・発展ということになる。[補注3]
この滝村三権論は、「三権分立制の核心は三大機関の分立にあって三大機関の分立に非ず」という<矛盾論的三権論>だが、ここに、ヘーゲル・マルクスの「対立の統一」(矛盾)の弁証法的論理を、明瞭に透かし見ることができる。
三権分立論は、三大機関の分立を正面に据えながら、しかし「その直接態のままに放置」することなく、「他のものに媒介あるいは根拠づけられたものとして」把握するものでなければならない。「三大機関の分立」を「権力一般論(規範の形成−支配)」に<媒介>されたものとして把握するということは、「三大機関の分立」を、その「直接的姿態」においてではなく、「媒介的規定を内に孕む<直接性>」(『マルクス主義国家論』213頁)として、厳密に弁証法的レベルで、<本質>的に把握するということなのである。
[補注2]
三権的分化が実体的な制度的構造として歴史的に定着するのは、近代以降の議会制民主主義国家においてである。近代以前の専制国家には見られない。
専制国家にも立法府・執行府・裁判機関の分化あるが、その分化は、専制支配(層)への権力集中を前提としており、権力を集中する専制支配者(層)の意志を代行する分業的に分担にすぎない。立法府も執行府も裁判所も専制支配者(層)に直属する諮問機関の分立(三権分立ではなく三権分属)である。
これは、専制国家に三権が存在しないのではなく、三権分属という未熟な形態でしか存在しない、ということである。
とくに、専制国家には裁判権はあっても<司法権>はない。第一に、法に基づく審査・監察権が、国家的支配の全域に及ばない。したがって当然、デスポット(専制支配者)はその裁判権には服さない。第二に、デスポットの恣意的意志で、たえず判決が覆される(判決の確定力の弱さ)ため、専制国家の裁判権は、<法の支配>の個別具体的レベルでの最終的確定という<本質>的性格を、いまだ全面的に開花発展させていない、ということになる。
4 <本質=関係>概念の二重性
以上、権力<本質>規定に<媒介>された滝村三権論をみてきた。
権力・国家論は、権力の抽象的一般的な<本質>規定のレベルにとどまることなく、その<本質>規定を前提に、より高次な、より具体的な段階へと発展・展開していく。
a)「権力論」⇒「一般的国家論」の流れから捉えれば、「権力一般論」で提出された抽象的一般的<本質>規定が、以て自らの<本質>を開花・顕現する論理的行程であり、三権分立論の構成は、権力<本質>論の<実存的顕現>である。逆に、
b)「一般的国家論」のレベルから「権力論」を顧みれば、権力一般論で提出された<本質>規定が、三権分立論というより高次なレベルへと<止揚>されている。
総体として見れば、権力<本質>論⇒三権分立論という理論的連関は<媒介構造>ということになる。
学的な理論体系というものを、本質の自己発展的顕現(媒介構造)として捉えるところが、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法の核心である。
この論理がなかなか理解しがたいのは、<本質=関係>概念が二重化しているためである。これを理解するために、有名なマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ(六)」を引用してみよう。
「人間の本質とは、個々の個人の内部に宿る抽象体なのではない。それは、その現実の在り方においては、社会的諸関係の総体なのである」(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 廣松渉編訳 237頁)
マルクス価値論の<本質>的価値規定もそうだが、マルクスにとって<本質>は、事物の内部に実在する、なにか抽象的実体的なモノではない。
したがってまた、対象の<本質>規定を抽出していく論理的作業は、キャベツの皮を剥いて最後の最後にかちッと芯を取り出す……ようなものでもない。
「フォイエルバッハ・テーゼ(六)」を、比喩的にイメージすると、ラッキョウの皮を一枚一枚剥いていくと最後はなにも残らない、“ラッキョウ自体”のような本質的抽象体があるのではなく、ラッキョウとは、ラッキョウの皮の「総体」でしかない……、ということになるだろう。
こういう本質観に立脚すれば、<関係>概念は@ <本質=関係>レベルと、A <本質=媒介構造>レベルに二重化することになる。
@ もっとも抽象的一般的な<本質>規定もまた、<本質>論的に把握されることになる。すなわち、抽象的な本質規定それ自体が<関係>概念として構成されざるをえない。
滝村の権力一般論を例に上げると、権力の<本質>規定は、権力をなにか即物実体的なモノとして、捉えるものではない。<権力>を、<規範を軸とする意志の支配−服従関係>として、<関係>概念レベルで捉えている。
そして、この<意志の支配−服従関係>を、規範それ自体の<運動>に即して捉え返せば、規範の形成(意志の対象化)−支配(諸個人の服従)という、対象化された意志(規範)と諸個人の生きた意志との<矛盾>として把握することになる。
抽象的一般的な本質的規定そのものが<関係>概念として構成されているというのは、このような意味である。
A この<本質>規定を「論理的端緒(始元)」に、事象の<本質論>的解明を進め、事象の個別的・特殊的諸契機を、内部統一的な論理的連関(関係)の中で理論体系的に整序していく。
すなわち、現象的に多様な機能的諸作用(個別)・構造的に複雑な実体的諸態様(特殊)を、<本質>規定(普遍)との<関係>において各々の論理的レベルを確定し、重層的・立体的に<構造>化していく。
この内部統一的な論理的連関(関係)は、個別・特殊・普遍という弁証法的諸契機が、相互媒介的に規定し合う諸概念の複合体であるが、これを「過程的構造」として捉え返せば、抽象的な一般的<本質=本質>規定が、以て自らの本質を開花・顕現するかのように、より高次のレベルで「理論的に再現」され、更に、その一定の段階それ自体もまた、更にもう一段高いレベルへと<止揚>され……という、重層的・立体的な<媒介構造>を成す。
以上の議論を踏まえて、ヘーゲル・マルクスの<学的弁証法>とはなにか?……あらためて自分なりの理解を提示してみたい。
先にも述べたように、ヘーゲル・マルクスの<学的弁証法>といっても、壮大な神学・哲学大系において展開したヘーゲル弁証法そのものと、社会科学領域で継承された唯物弁証法では、その在り方が違っている。
また、マルクスとエンゲルスでは、ヘーゲル弁証法への思想的またイデオロギー的対決姿勢の点で同じでありながら、<科学>的なレベルでの唯物弁証法の<方法>的位置づけ方が、違っている(この点は、別に【補遺ーヘーゲル『論理学』と学的弁証法】で取り上げる)
以下では、社会科学的レベルで展開された<学的弁証法>の骨格を、マルクスに即して提示していくことにしたい。
社会的事象に固有の内部構造は、たとえば電子顕微鏡で原子の構造を直接<見る>ようなわけにはいかない。
社会科学は、実験的実証や厳密な数学的論証で真理を確定しがたい特殊な性格をもっており、社会的歴史的事象に内在する<真理性>を論理的に把握し、科学的な<真理>として確定し開示するための武器は、<抽象力>しかない。マルクス曰く、社会科学においては、
「顕微鏡も化学試薬も訳に立たない。抽象力が、この両方のかわりをしなければならない」(『資本論』第一巻「第一版序文」 国民文庫@ 22頁)
そしてマルクスのいう「抽象力」を<止揚>と捉え返せば、弁証法の方法的核心を言い当てたことになる。
@ 弁証法という方法は、まず、事象の直接的姿態の背後に控える、直接眼には見えない(経験実証的に不可視の)内的な論理構造へと分析を進め、事象を事象たらしめる抽象的一般的<本質>規定を抽出していく(マルクスのいう下向法)。
この下向法的分析を内容的にみると、研究<主体>が、現実的事象を正面に据えて論理的分析力(抽象力)を働かせ、現実具体的な事象の「直接的姿態」にまつわる偶然的・攪乱的諸相・諸要素を論理的に抽象=捨象しつつ、事象の内部に<客体>的に存在している、
現象−構造−本質
機能−実体−関係
個別−特殊−普遍
という一般的な<論理>の在り方に即して、現象→構造→本質へと論理的に抽象=止揚していく。[補注3]
そして、
A論理的解析により抽出された抽象的一般的<本質>規定を、ヘーゲル的にいえば<始元>(論理的端緒)として据え、<本質>規定を<構造>論的に具体化していく。すなわち、
【 本質が、自らの本質に見合うかたちで、構造的に複雑な<実体>的仕組みと、現象的に多様な<機能>的諸作用・諸連関を開花・顕現していく 】
<客体>的な論理的行程を、学的認識<主体>の側が、理論的に純化したかたちで(概念の自己運動・顕現行程として)体系的に再現・叙述していく(マルクスのいう上向法)。
かくして弁証法は、<抽象=止揚>を武器とする対象の<内在的論理>解析法と、それを前提とする<理論体系>構成法という、方法的二重性において成立する。この<抽象=止揚>という発想を抜きに学的体系を構成すると、経験的実証的な「分析法」を前提にする「総合法」にしかならない。
もちろん、即物経験的方法でも、現実具体的な現象的姿態が孕む個別性・特殊性をどんどん抽象していき、諸事象の共通性を抽出するという論理解析は当然おこなわれる。これは科学的抽象の一つの在り方であり、個別は個別、特殊は特殊とふわけし、普遍と個別特殊を切り離していく抽象作業である。
しかしそれは、事物A、B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て(捨象)、事物の形式的共通性を分離・抽出するという形式主義的抽象であって、一定の限定に置いてのみ正当な方法であり、これが唯一の科学的方法と固定化されると、誤謬に転化する。
[補注3]
抽象的一般的な本質論(本質規定)を提起するだけではなく、その本質論が構造論的に具体化され、本質論・構造論に媒介された現象過程の現状分析を提出しているか否かに、科学者の理論的力量がある。
たとえば、法学で問題になる「再審の困難性」(最終審判決の確定力)というような事態は、司法とはなにか?……という三権分立論と権力一般論を前提に、それに媒介されるかたちで理論的に分析されなければならない。最終審判決の強固な確定力は、司法権というものの本質から<必然>的なものであるというように。分析は、ある現実具体的な個別的事象が生起する背後の仕組み(構造)を把握し、さらに、その仕組み(構造)自体が、国家権力・権力の一般的な在り方にどう規定(媒介)されているか?……という、本質論的解明でなければならない。
もちろん、別に科学者でなくとも、優れた思想家や批評家、あるいは芸術家などが、事象に内在する本質を鋭く捉え、断章的に提起するようなこともありえる。だが、その場合には、現象→構造→本質という、科学的な論理解析プロセスの所産として本質論を提起しているというより、
現象→(構造)→本質
という、論理的直観力による本質理解のプロセスを取ることになる。
5 弁証法の方法的位相
以上の論述を踏まえ、つぎに、弁証法が社会科学に占める方法的意味を、考察してみることにしよう。
弁証法が対象としているものは、自然・社会・精神の如何を問わず、あらゆる事象それぞれの中に、<客体>的に内在している一般的な<論理>であり、学的弁証法は、この<論理>に根本的に規定された一般<論理>的思考法である(この点は、【付論ーヘーゲル『論理学』と学的弁証法」で述べる)。
弁証法が形而上学や形式論理学と対比されるかたちで、「弁証法的論理学」を構成するものとされてきたのは、この<客体ー主体>の一般的な<論理>を扱うがゆえである。
しかし<弁証法>的論理「学」とは言いながら、それは、数学や物理学、政治学や経済学のような、固有の<特殊>な学的対象領域を有する<個別科学>とは、論理的レベルがまったく異なっている。
三浦はこの点について、エンゲルス『反デューリング論』に依拠しながら、次のように述べている。
「……たしかにマルクス主義では、唯物弁証法を正しい認識方法ないし研究方法と主張しているし、それには違いないのだが、これは、自然・社会・思惟の全体をつらぬく普遍的な運動と発展をとらえるだけに、長所が同時に短所にもなっている。広範な分野で有効な鋭い武器ではあるが、そのまま個別科学の具体的な研究方法にはなりえない」(『認識と芸術の理論』勁草書房177頁)
弁証法を認識<主体>の側から捉え返せば、「あらゆる事物」を一般<論理>的に把握する「認識方法ないし研究方法」である。しかし、「あらゆる事物」を捉えるということは、逆にいえば、「あらゆる事物」の学的解明に「直接」役立つ方法ではない……ということにもなる。自然・社会・精神的事象それぞれに<固有の学的対象領域>を超越した高度な方法的<一般性>という「長所」が、そのまま「短所」になるのであって、これは弁証法の<方法>的パラドックスというべきものである。
三浦のいう弁証法の「短所」については、滝村も、社会科学のレベルから次のように述べている。
「……史家が提供する個別的事実と高度の原理的把握と抽象とでは、何といっても論理的抽象のレヴェルが質的に異なっている。もちろん、あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える弁証法は、扱う対象的事物の自然的・社会的・精神的の如何を問わない、高度の方法的一般性の故に、直接役には立たない。あくまで歴史的・社会的事象としての特質に対応した、社会科学としての一般的方法論が要請される。マルクスの唯物史観における歴史観としての、〈世界史〉の発展史観こそ、実はかかる特殊な方法的要請に真向うから対応したものであった。ところが、かかる唯物史観の存立に直接関わる根本の方法的把握が、マルクス主義・非マルクス主義を問わず、これまで私以外の誰によっても主張されたことがないのである」(『国家の本質と起源』勁草書房20頁)
「あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える弁証法」という章句の「あらゆる」に、滝村は傍点を施している。
「真に偉大な人間は自らを限定できる人間である」(ゲーテ)といわれるが、この格言は、学問の方法においても通用するものである。すなわち、学的方法論というものは、その適用範囲を無限定に「あらゆる」ところにもつことなく、その適用範囲を一定の条件のもとに<限定>しなければならない。
これまで、弁証法が「長所」を発揮しうる<限定>された条件とは、どのようなものなのか?……、その「短所」との連関において具体的に明らかにされてはこなかった。
「長所」と「短所」を非弁証法的に切り離して、“弁証法は世界の連関・運動法則に関する科学である”とか、世界は相互に連関し生成−発展−消滅過程にあり、弁証法はそれを捉える学問だ”という風に位置付けられ、あらゆる個別科学を超えた高度な“一般科学的方法”というような、<限定>された条件を無視した哲学的発想が、跳梁跋扈してきた。いわゆるマルクス主義哲学がその典型である。
マルクス主義は、その壮大な理論科学的体系が、直接そのまま党派的なイデオロギー的性格を持っている。この理論と思想の直接的同一性を支えているのは、「弁証法的唯物論はマルクス=レーニン主義党の世界観である」(スターリン『マルクス主義と言語学の諸問題』大月文庫96頁)という発想である。
この発想では、世界を総体として弁証法的に捉え切ったという意味で、弁証法的唯物論は「科学的な世界観」であり、あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える唯物弁証法は、世界全体の「正しいマルクス主義的認識方法ないし研究方法」だと、位置づけられる。
そして、世界総体を科学的に捉える世界観と、それを可能とする弁証法的方法を完全に体得しえたら、理論的・思想的レベルで「世界をその掌に載せる」ことになり、自らを一大政治machtとして党派的に結集・組織化し国家権力の奪取→世界革命まで完全に成就し得たら、文字通り実践的に「世界を獲得」することになるだろう。
そこでマルクス主義者はまず、“正しい”世界観(弁証法的唯物論)と“正しい”学的方法(唯物弁証法)を“学習”することに全力を傾注し、その“学習”がそのまま“正しい”学問の途ということにもなる。
この“学問=学習”発想は、思考の基本枠組みを先験的に設定する発想だから、まずは方法ありきというカント的アプリオリズム(ヘーゲルの方法とは対極に立つ)と親和性が高く、マルクス主義哲学陣営では、カント的に色づけられたヘーゲリアン・マルクシズム派が大きな影響力を持った。
これが、唯物弁証法を「世界観」レベルで位置づけるというスローガンの正体である。弁証法を「世界観」レベルで位置づけるといえば、なにやら聞こえはいいが、実際にかれらがやってきたことといえば、
a)“この世界は弁証法的構造を孕んでいる”という命題をアプリオリに設定し、弁証法を絶対的真理の方法として現実の「世界」に押しつけ、「世界」全体を“解釈”する哲学的アプリオリズム
b)資本制社会はその内在的矛盾の爆発により歴史必然的にプロレタリア独裁を帰結するという、科学と願望を取り違えた“歴史の弁証法”の提出でしかなかった。
たしかに、現実の世界は、直接眼には見えない事象の内的深部に、<弁証法性>を孕んでいるだろう。 だが、その<弁証法性>を現実に掬い上げるのは、世界の全体を“全体”のまま取り扱い、あらゆる個別科学を超越する“一般科学的方法”の類いではない。“一般科学的方法”が<学>として成り立つほど、現実の世界の構造は単純ではないし、そもそも、個別科学を超越する“一般科学”という発想自体が、現実の世界に関する“哲学”的理解にすぎず、厳密には科学的発想ではないのである。
三浦つとむもまたマルクス主義哲学者として、この種の弁証法主義的発想とは無縁ではなかった。しかし、マルクス主義哲学者・三浦ではなく科学者・三浦(言語学者)は、現実の世界を“全体”として解明する万能の“一般科学的方法”として唯物弁証法を振り回すことなく、弁証法の「抽象性」という「短所」、その方法的「限界」をきちんと弁えてもいたのである。
三浦は、エンゲルスの「哲学一般はヘーゲルをもって終了した」という名言を繰り返し繰り返し強調した。このエンゲルスの金言の厳密な意味は、あらゆる個別科学を超え世界を“全体”として解明するような“一般科学”的発想は、もはやヘーゲルを最後に終焉したということなのである。
この点を、もう少し具体的にみていくことにしよう。
現実的世界の「あらゆる事物」は、その<直接>的姿態においては、自然的・社会的・精神的事象として存在する。
さらに、その自然的事象、社会的事象、精神的事象も、その個々の具体的在り方をみれば、たとえば、社会的事象は政治的事象、経済的事象として存在し、それぞれの事象に<固有の内容>を有している。
もちろん、自然的・社会的・精神的諸事象も(更に、政治的、経済的事象、認識・表現・言語・記号などの精神的事象なども)、それ自体孤立して存在するのではなく、複雑多様に絡み合い、分かち難く相互に連関し、相互媒介的に規定し合いながら存在している。
この現象的な<連関>“だけ”に着目して、“世界の一切は絶えず変化し生成−発展−消滅の運動過程にある”などと言い、その実例を事実的に列挙するのが、いわゆるマルクス主義哲学の“世界観レベルでの弁証法的唯物論と唯物弁証法”である。
しかし、現象レベルの世界の<連関>は、あくまでも、自然的・社会的・精神的諸事象としての分化的実存が前提になっているのであって、<分化>しつつたえず現象的に相互に<連関>しているのが、現実の「世界」の在り方である。
こういう現実の在り方に規定され、個別科学の分化的独立と発展が必然化する。【補注4】
現実の「世界」の<弁証法性>を学的に把握するのは、“弁証法学”でも“一般科学”でもなく、個別科学の任務である。すなわち、自然的事象に内在する<弁証法性>は自然的事象に即して解明される。社会的事象が孕む<弁証法性>は社会的事象に即して、個別科学的レベルで解明されなければならないのである。
これは当然だろう。弁証法はあくまでも、自然・社会・精神の別を問わず、あらゆる事象に共通する、事象一般の内在的論理(現象ー構造ー本質)<だけ>を、純粋に一般的に取り扱うのであって、自然的事象・社会的事象・精神的事象のそれぞれに<固有な内容>を取り扱うものではない。弁証法にあっては、社会的事象に固有の内在的性格は、論理的に抽象=捨象されている。
社会的事象に固有の内在的性格を対象とするのは、あくまでも社会科学であり、そういう意味では、個別の社会的諸学を超えた“社会弁証法”の類が、<学>として自立的に成立する余地などないのである。
さらにいえば、社会的事象の場合、近代以降、政治的社会構成と経済的社会構成へと分化的に発展している歴史構造を踏まえ、まずもって、政治的事象が孕む<弁証法性>は政治的事象に即して<政治学>的に、経済的事象は経済的事象に即して<経済学>的に解明されなければならない。“政治弁証法”だの“経済弁証法”などのは、<個別科学>として自立的に成り立ち得ないのである。
要するに、「世界」総体の<弁証法性>は、重層的立体的な<弁証法的体系>を個別科学レベルで構築することによって、掬い上げられる。 <個別・特殊は普遍を孕む>という弁証法の金言は、個別科学と弁証法の関連においても原理的に貫徹するのであって、弁証法は、個別科学に深く静かに内在するかたちで存在するのである。
【補注4】
もちろん、個別科学と個別科学の学際的連関・融合が、個別科学の独立を前提に、クロスオーバーするかたちで実現されるのは、いうまでもない(たとえば、古典派経済学以前の政治経済学→理論経済学の独立的分化→その独立的分化を前提とする経済学の政治経済学的展開)。
また、分野によっては、旧来の学的垣根そのものが相対化され、新たな学的領域枠組みが形成されていくこともあるだろう。ただし、それは別に、すべての個別科学の垣根が完全に取っ払われて一体化することを意味しない。
ましてや、なんらかの絶対的な“指導原理”のもとに押し進められる“一般科学”への融合などではない。唯物弁証法でも構造主義でも論理実証主義でもなんでもいいが、とにかくなんらかの絶対的な“指導原理”をアプリオリに設定し、その“原理”のもとに「世界全体を掌に載せる」“一般科学”構築という発想そのものが、モロに哲学的発想なのである。
6 論理学と個別科学
以上述べたことを学的<方法>の問題として捉え返せば、三浦が言うように、弁証法は「そのまま個別科学の具体的な研究方法にはなりえない」ということになる。
唯物弁証法を、絶対的な“方法・指導原理”としてアプリオリに設定し、個別科学に押しつけるのではなく、政治学には政治的事象の内在的特質に規定された個別の<方法>が、社会科学には社会科学に固有の特殊な<方法>が、独自に開拓されなければならない。
このことは、自然・社会・精神の内容的特質に即した具体的な社会科学や政治学が、弁証法から<上向>的に導き出されていくわけではない……、ということを意味している。
弁証法的な上向展開(諸概念の論理必然的導出)は、あくまでも、<個別科学>の学的体系内部の論理であり、弁証法と個別科学の関係レベルの論理ではない。
たとえば、政治学の内部では、権力一般論⇒一般的国家論というような理論構成を取るが、弁証法⇒社会科学あるいは弁証法⇒政治学というような<上向>的展開はありえない。
また、弁証法的な上向は、個別科学と個別科学の間においても成り立たない。経済学を直接土台にして、そこから政治的諸概念を論理必然的に導き出し、政治学を体系的に構築することは、できないのである(宇野経済学などは、こういう不可能なことを考えていた)。
これは、個別科学内部での論理的な<抽象=止揚>と、弁証法の「対象超越的」な<抽象=捨象>の論理の、次元の相違に規定されている。<抽象=止揚>という対象の論理的把握は、<抽象=捨象>を内に孕みながら、しかし止揚イコール捨象ではない。
この問題を、再び滝村の三権分立論を例に取って考えてみよう。
権力本質論⇒三権分立論という理論展開は、現実の国家・権力現象の現象→構造→本質という論理的抽象=止揚を前提に、その止揚された特殊的・個別的契機を、理論体系的に復元・再構成していくものである。
すなわち、学的認識主体は、現実具体的な国家的事象を正面に据え、その直接的姿態にまつわる偶然的・攪乱的諸要素を論理的に抽象=捨象しながら、
現象的に多様かつ複雑な権力機能・作用の分化
↓
実体的な三大機関の構造的分立
↓
規範の形成ー支配という権力の本質的在り方に大きく媒介され、論理必然的に顕現する三権分立
というように、対象の内在的な論理に分け入り、現象→構造→本質へと論理的解析を進めていく。この<抽象=止揚>を前提にしているからこそ、権力論⇒国家論という理論的枠組みの中で、権力本質論⇒三権分立論を理論的に展開していくことができる(もちろん、偶然的・攪乱的諸要素として<抽象=捨象>された、権力現象にまつわる多様かつ複雑な現象的諸相は、<上向>的に復元されることはない)。
以上は、
個別科学の大系内部での<媒介止揚関係>の話であり、弁証法と個別科学の関係とは、論理的次元を異にする。
先にも述べたように、弁証法が対象にしているのは、あくまでも、あらゆる事象に共通する<内的論理>(現象−構造−本質)の<純粋に一般的な在り方>だけである。それぞれの事象がそれぞれの事象なりに有する固有の特質、たとえば、政治的事象が現れる<本質→構造→現象>の過程的構造はどのようなものか?……、経済はどうなのか?……というような、事象に固有の具体的な<内的論理>の在り方は、直接問題にされてはいない。
弁証法は、比喩的にいえば、ありとあらゆる物体のレントゲン写真を撮り、内部的な仕組み(構造)<だけ>を純粋に透かしみるようなものである。レントゲン写真から、物体の現実具体的姿を復元することはできない。
これを方法的レベルからみれば、弁証法そのものからスタートして、唯物弁証法⇒唯物史観⇒社会科学へと<上向>することが不可能である、ということを意味している。自然的・社会的・精神的事象(更に、政治的、経済的事象、言語的事象などの各種領域)それぞれに固有の内在的特質は、論理的に切り捨てられているのだから、個別科学内部での本質論→構造論的上向展開のように、自然・社会・精神、政治・経済などの内容的特質を、弁証法から<上向>的に復元できないのである。
この点を無視して、論理的に捨象された事象に固有の内容・特質を、“弁証法の応用的に具体化ないしは適用”というかたちで復元・顕現させたとしても、その展開は、厳密に弁証法的な論理必然的概念導出ではなく、弁証法の個別・特殊・普遍のトリアーデを機械的に押しつけたり、「否定の否定」や「円環」の論理を無理に当て嵌め篇別構成をしたりということになる。
対象に固有の特殊・個別的な内容を学的に取り扱うには、その事象に相応しい個別・特殊的な<方法>が要請されるのであり、弁証法のような一般的・抽象的な方法は、社会科学に直接無媒介に適用できない。弁証法をそれ自体振り回しても、まったくナンセンスなのである。
「自然・社会・思惟の全体をつらぬく普遍的な運動と発展をとらえる」という弁証法の「長所」が、そのまま同時に「短所」になっているというのは、以上のような意味である。
7 弁証法はいかなるレベルで有効なのか?
三浦はここのところで、考えの詰め方に甘さがあったと思う。
せっかく、弁証法は「長所が同時に短所にもなっている」と鋭い指摘をしていながら、その啓蒙的著作には、“一つの個別科学で高度な弁証法を完全にものにすれば、その能力を他の個別科学でも容易に駆使しえる”と受け取られかねない、哲学的アプリオリズムの発想が見え隠れする[補注5]。
このアプリオリズムの限界が、三浦の「国家意志」説に現れているのは、別稿「社会科学と精神科学の方法的差異」でみてきた。認識論・言語学的次元で開拓された意志・規範論をそのまま個別意志→特殊意志→普遍意志(全体意志)へと拡大しても、権力論・国家論という<建物>は構築できない。
このことは、単に言語学と政治学の相違というにとどまらず、つぎのような意味を持っている。
すなわち、ある特定の個別科学の基本発想と方法が、そのまま他の異なる学的フィールドに通用するほど、学問の世界は甘くない……ということである。
たとえば、自然科学で大きな成果を上げた基本発想と方法で、社会科学に切り込み、理論的限界を必然的に露呈してしまう事例は、社会科学の歴史上いくつか存在する。
これは、<弁証法>と個別科学の関係についても、同じことが論理的にいえるのである。
<個別・特殊が普遍をはらむ>という弁証法論理を、<普遍>の側から捉え返せば、<普遍>は<普遍>としてそれ自体実存するのではないということになる。
個別科学には個別科学に特有の、その学的対象の特質に規定された<個別>の方法があり、弁証法そのものが、個別科学に直接適用できるわけではない。そして、この問題を、科学者個人の主体的能力の問題として捉え返せば、
【どんな弁証法の大家でも、その人の専門分野で獲得した弁証法的技量や理論的実力が、他分野でそのまま通用するわけではない。社会科学のフィールドで弁証法的技量と理論的実力を発揮するためには、それこそ一から、初心者として入門し直し、長い学的苦闘を経なければならない。しかし、皮肉なことに、ある一つの分野で学を極めた者が、他の分野に転じると、その技量が高いレベルで完成していればいるほど、逆に、自分の専門で培った技が新たな学びを阻害することすらある(学的技量のモデルチェンジの困難性)。理論の学びとは、かくも難しく、またやっかいなものである】
ということにもなる。
言語学なら言語学の巨匠が、たとえば政治学なら政治学の分野に進出すれば、もはや巨匠としては振る舞えず一から入門しなおし、政治学の学的事象ととりくみ、政治学に固有の方法を体得しなければならない。
言語学なら言語学で奥義を極め、極意に達した名人であっても、その弁証法的実力を、直接無媒介に他の分野で発揮できるわけではない。隣接領域なら可能だろうが(言語学の学匠が認識論の分野でも巨匠たりえる)、その学的対象領域も学的方法も異なる場合、まず無理だろう。
では、個別科学と弁証法は、どう方法的に関連するのか?……まったく無関係なのか?……。
この点に関して、滝村は「マルクス主義の方法的解体−とりあえずの覚書き」(『試行72号』)で一定の解答を提出している。私は、これが弁証法と個別科学の方法的連関に関する、唯一無二の正解であると思う。
滝村は、学的弁証法が、いかなる限定的な条件のもとで有効性を発揮するか、次のように述べている。
「もし、社会的諸学の理論的な研究者にとって、弁証法や論理学の、いわば対象超越的な極めて高度に抽象された一般的な論理が、一定の意義と有効性を発揮するようなことがあるとしたら、当該事象の理論的解明が、実質的に完了して、その理論的集成と体系化のために、著作の執筆と構成の作業に入ってからのことである。
というのもそこでは、自ら創出したり再発見した理論的見地を、論理的な把握と抽象度において、より本質的な部分と、より具体的な特殊的諸部分、一般法則と特殊的な経験法則にふわけしながら、その統一的な相互的連関としての体系性を、なによりも著作としての論理的な構成、直接には著述における論理的な展開の序列と行程のなかに、そっくり再現するという、始めから終りまで論理的な作業が要請されるからである。この意味で、マルクスが経済理論上の実質的な作業を完了して、『資本論』の叙述に取り掛かるや、殆どヘーゲルの『大論理学』だけを参照しながら書き進めたといわれるのも、十分に理解のできることといってよい」(『試行72号』116〜7頁)
繰り返しになるが、弁証法は、即物経験的にとらえられない事象の内部構造へとわけいり、事象を事象たらしめる本質を解明する<論理>解析法と、それに基づく<理論>体系構成法という方法的二重性において成立する。
「即物経験的に直接とらえられない」内部構造(原子の構造を直接見るようなわけにはいかない)をとらえるところがポイントで、弁証法という対象把握の方法は、実験的実証や厳密な数理的論証で真理を確定できない学的領域で、真骨頂を発揮する方法ということもできるだろう。
実験的実証や厳密な数理的論証で真理を確定できないからこそ、『資本論』にしても『国家論大綱』にしても、あのような壮大な体系構成を取らざるをえないわけで、その意味では、弁証法がもっとも<方法的有効性>を発揮するのは、社会科学や精神科学のフィールドということにもなろう。
さて、以上述べたことは、厳密に<学的レベル>での弁証法の問題である。【補注6】
では、とくに学者を目指すわけでも、まして、ヘーゲルやマルクスの<学的継承・発展・止揚>を志すわけでもない人間にとって、弁証法を学ぶことはまったく無意味なのだろうか?……。
もちろん、そんなことはない。<知識レベル>でヘーゲル・マルクスなどの弁証法の巨人達の学的業績を学び、精しく正しく読み解き、彼らの弁証法的実力の斬馬刀的凄みを堪能することは、それなりに有益なことである。
<知識レベル>で弁証法とはどういうものか?……弁証法的著述に即して理解し、一定の読解・鑑賞力を把持すれば、ヘーゲル・マルクス系統以外の哲学・思想的諸潮流の書物を読み、その長所と短所をトータルに透かし見ることもできるようになる。
これが厳密な<学的弁証法能力>とは区別される<知識レベルの論理的読解能力>である ( 三浦系のごく一部の中に、この論理的区別ができず、<知識レベル>の学びの意義を理解できない人がいるが、この点は、別稿「社会科学の学びと批判精神」で論じた)。
また、<知識レベル>の学びでも、ヘーゲルやマルクスの個々の見地をたえず現実的事象と照らし合わせ、<批判>的に検証する論理的作業が必須であるから(もちろんマルクスのような数十年に渉る膨大な研鑽が、必要になるわけではないが)、学び手の資質と努力次第で、現実を<本質>的に解読する現実的把握力も高まっていく。
社会科学者のように、事象に内在する<現象→構造 →本質>を解析し、<本質論の構造論敵具体化>を実地に展開をするわけではないが、しかし、現実を前にして、事象の本質的理解、すなわち、
<現象→構造 →本質>
の厳正な学的構造分析というより、
<現象→(構造) →本質>
という研ぎ澄まされた本質把握力を、把持しえるのである。
【補注5】
『弁証法はどういう科学か』を頂点とする弁証法啓蒙書には、その叙述を表層的に受け取ると、“「弁証法の三大法則」を武器にすれば個別科学をものにできる、だからまず「三大法則」を学べ!”という、マルクス主義哲学的アプリオリズムと受け取られ兼ねないところがある。しかし、それと同時に、三浦は、個別科学の建設に<媒介>されたかたちでしか、真に「高度な弁証法」は体得できないという、真に弁証法的な見地もしっかり書いている。
「教科書から弁証法を一生けんめい学んで、公式を覚え込み、サア弁証法を覚えた、それでは大問題を説こうとしても、甘粕氏の経験で分かるように、すこしも役立たない。それでは、日常の生活を、あれも弁証法、これも弁証法と取り上げて、行きあたりバッタリに実践すればいいかといえば、それでも十分ではない。その実践が、段階的に、次から次と高度なものに移っていかなければ、弁証法も低い理解で終わってしまう。自然科学でもよし、社会科学でもよし、個別科学の中で弁証法を問題にし、個別科学の問題を解きながら弁証法を実践していって、はじめて高度の弁証法をわがものにすることができ、素晴らしい武器として役立たせることができるのだということを、しらなければならない。個別科学が弁証法を生み、個別科学が弁証法をさらに推し進める」(『弁証法・いかに学ぶべきか』94頁)
ここでの「日常の生活を、あれも弁証法、これも弁証法と取り上げて……」云々という箇所は、学的弁証法を考えるにあたって、留意しなければならないポイントである。
学的弁証法は、人間の論理的対象把握方法としては極めて高度なもので、日常的経験中の生活知レベルで、その<方法>的真骨頂を発揮するものではない。
そういう弁証法の<方法>的特異性を無視し、「弁証法の三大法則」を「武器」に「日常の生活」に切り込んでも、現実的な生活体験の中で、
“ああ、こういうのが「朱に交われば赤くなる」ってことなんだなあ、対立物の相互浸透だなあ”
と言う風に、コトワザ格言的な生活知レベルの<弁証法性>の確認に、終始せざるをえない。
しかし、そんな“弁証法の生かし方”は長続きするものではない。われわれを取り巻く現象世界あるいは世間レベルで事象の<弁証法性>を確認するだけなら、良質の歴史小説・経済小説を読んだ方がずっと有益だという「苦い真実」に、気付いてしまったとき、“弁証法の学び”はあっさり終了ということにもなりかねないのだ。
小説に限らず、評論家・随筆家・雑文家の仕事、たとえば市井の哲人・山本夏彦クラスになると、世間知レベルの<弁証法性>の確認なら三浦よりも技倆は上だし、マルクス主義に囚われていないぶん人間理解も深いと知れば、こっちを読んだ方が面白い……ということにもなる。ビジネス雑誌の類の「信玄に学ぶ人心掌握術」だの「ライバルを蹴落とすマキャベリズムの極意」だの類でさえ、弁証法なんかよりよっぽど生活に役立つ……ということにもなりかねない(もっとも、マキャベリや孫子を直接読まないでハウツー本で済ませる怠惰な人に、出世の見込みはあまりないと言えるのかもしれないが)。
せっかく『弁証法はどういう科学か』を読んで、弁証法の学びを志しても、ほとんどの人が、結局は役に立たないと見切りを付けてしまうのも、弁証法の<方法的特異性>からして、ある意味必然なのである。
三浦に即して学的弁証法がいかなるものか?……<知識レベル>で精しく正しく掴むためには、『弁証法はどういう科学か』などの「弁証法の三大法則」啓蒙書にとどまることなく、三浦の言語学的主著に進み、その「過程的構造」という基本視角が意味するものを徹底的に考え、さらに、マルクス『資本論』や滝村『国家論大綱』などの体系的著述へと進んでいく途が、一番良いのではないかと思う。
【補注6】
学的弁証法の厳正なる学的継承・再措定は、喩えていえば、<極意>を掴むようなものなのだろう。
<極意>もまた一つの<技>なのだろうが、それは、武道家のたどり着いた境地、精神の在り方なのであって、現実具体的な<実体技>ではない。
<極意>という<技>を習得するためには、<実体技>を極めるための習練に、具体的には、剣道でも柔道でもなんでもいいが、とにかく一つの<道>(武道)を選び取り、精進しなければならない。
それと同じで、学的弁証法の厳正なる継承・再措定という<極意>を掴むためには、理論的諸学の一つを専門に選び、個別科学の中で対象を解明する作業に打ち込まなければならない。個別科学という<道>を極める過程で、事象の内在的論理を透徹する論理的解析力が開拓され、個別科学の究明が極まった段階で、その成果を体系的に理論構成するとき、弁証法の<方法的有効性>が発揮される。
しかし、この段階に至るまでには数十年、ほぼ人の一生が費やされる。これは武道でもスポーツでも同じだろうが、科学ほど条件は厳しくない。理屈の上では、剣道の道を極めた人が、合気の道に入り直した場合、常人とは比べものにならない速さで合気道の道を極め名人クラスまで到達しえるかもしれない。しかし、現実的には不可能だろう。
これが科学ということになると、武道よりも遥かに条件は厳しく、一つの道を極めた科学者が別の道でも……というようなケースなど、現実的にも理論的にもありえない。
たとえば、物理学でノーベル賞レベルの技倆に達したからといって、その技倆をそのまま社会科学でも発揮することができないのはもちろん、むしろ、その道で創出した<技>が美事であればあるほど、社会科学の<技>を新たに体得する上で強烈な障害になる。ムエタイで三冠を制し無敵の王者だったウィラポンがボクシングでも……というようなわけにはかないのだ。
結局、一人の人間が学的弁証法という<極意>を掴むためには、選んだ<道(専門)>は一つしかない、二兎は追えないということになるだろう。
【 付論 ― ヘーゲル『論理学』と学的弁証法 】
(1)
ヘーゲルは『精神現象学』「序言」の中で、自分の「論理学」について次のように述べている。
「(哲学の)方法を本格的に展開する仕事は、論理学に属する。いやそれどころか、それ(方法)こそが論理学そのものである。というのは、方法とは、その純粋な本質の中で組み立てられた全体の構造に他ならないからである」(『精神現象学』未知谷 113頁)
『大論理学』は、『精神現象学』出版時点では著作として出版されていないが、しかし既に「論理学」(現在『哲学入門』『ギムナジウム論理学』などが出版されている)の骨格は完成していた。
ヘーゲル『論理学』は、『精神現象学』の「序言」で述べた真理観を、伝統的な存在論的形而上学や論理学の思惟諸規定を学的素材に、純粋にそれ自体として<体系>構成したものだといえるだろう。
『精神現象学』の「序言」でヘーゲルが強調していたことは、
「真理は全体である」という真理観である。これは、<客体ー主体>の論理を観念的・神的な(キリスト教的)論理として展開しているため、なかなかわかりづらいが、『論理学』との関連でその論理を押さえ、さらにマルクス『資本論』の体系を想起しながら考えると、その言わんとするところを次のように纏めることが出来るだろう。
<真理>というものは、“真理は○○である”という一般的・抽象的な<真理>規定をぽッと提出してそれで終わりということにはならない。<真理>は自らが<主体>として、<真理>たることをあらゆるレベルで螺旋的・段階的に確証し、自らが<真理>たること証す論理的過程を<体系>的に開示していかなければならない。
しかし、それが歩む行程は、無限に進展して果てがない……というようなものではない。いつかはラストを迎えなければならないのであるが、それはぷつッとthe endを迎えて終わるものではなく、<体系>として完結するものでなければならない。
この<体系>としての完結が、ヘーゲル独特の<円環>の論理である。
すなわち、<真理の体系>が、その<体系>の論理的端緒(始元)Aからスタートし、その<真理>が自らの<真理>たることを概念B→C→D→E……の姿で過程的・段階的に確証していき、その概念的展開の極まる到達地点が、最初の論理的端緒への復帰となる。
しかし、その復帰は、単純な概念Aへの回帰ではない。最初は一般的・抽象的な規定Aに過ぎなかったものが、B→C→D→E……という長い体系的展開過程を経て、自らの<真理>たることを各々のレベル・段階で確証するが、実は、BもCもDも、<真理>自らが顕現したものであり、 <真理>が環帰した地点は、Aでありながらもはや単純なAではなく、 A→B→C→D→E……全課程を<止揚>し内に含み<媒介>されたA′でありる。
そして、一度閉じた<円環>の論理的サイクルは、その「終局」が新たな「始元」を準備し、新たな<体系>を<円環>的に展開していく。
以上、「真理は全体である」という真理観は、
[ <真理>を証明する(叙述する)<方法>は<体系>を構築する以外のなにものでもない ]
という<体系=方法>の論理を必然的に帰結する。
ヘーゲルが
「(方法)こそが論理学そのものである」というのは、この<体系=方法>という論理を、それ自体純粋に、「本格的に展開」するのは『論理学』の仕事である、という意味なのである。【補注1】
では、『論理学』の学的任務は、具体的にはどのようなものか?……。次にこの点をみていくことにする。
(2)
ヘーゲルは、神学から<学>の歩みをスタートさせた哲学者である。
神学は天上と地上を問わず森羅万象あらゆる事象を学的対象とし得る、極めて特異な学問であり、絶対普遍の神的理念が地上の自然界・精神界に顕現する論理過程を<体系>的に叙述する。ヘーゲル哲学は神学ではないが、現実の世界を“世界総体”として論理的に窮め尽そうとする<体系>的性格は、神学的・観念論的モチーフの哲学的・理論的表現とみることができるだろう。
現実の世界を“世界総体”として論理的に窮め尽すとはどういうことか、神学徒上がりの哲学者特有の神秘的粉飾と宗教的意味づけに囚われることなく、唯物論的な言葉に翻訳し平たく言えば、 次のようになるだろう。
ヘーゲルにとって学問 Wissenschaftは、経験的実証的諸学とはちがって、事物をその直接の姿で捉えるものではない。その背後に隠れていて直接眼には見えない、
内在的な<論理>(理性的なもの)を捉えることである。
では、事象の内的<論理>(理性的なもの)とは、どういうものか?……。
我々の眼前に立ち現れる特定の事象Aは、その事象Aが事象Bでも事象Cでもなく、まさしくAでしか在り得ないという、事象Aに固有の<本性>に規定されている。すなわち、事象Aが事象Aとして現実に立ち現れてくるとき、その立ち現れ方(仕組み)は、事象Aとしての<本性>に相応しいかたちで現れる。たとえば、政治的事象なら政治的事象に相応しい特有の<仕組み>で、言語的事象は言語的事象の特質に対応した<仕組み>において……という風に。
現実の事象AをしてAたらしめる<論理>は、事象の<本性>A→その本性に相応しい<仕組み>A′→事象の現実具体的な姿A(a1・a2・a3・a4……)という<体系>的性格をもっている。<論理>は「理性的なもの」であり、「理性的なもの」は<体系>的である。
哲学者は、この客体的に存在する
<論理体系性>(理性的なもの)を捉え、
<理論体系>的に叙述するという、高度な
<論理>的思考力(理性)を発揮しなければならない。すなわち、事象Aの<本性>がどういう<仕組み>で、事象Aの<現実具体的な姿>となって現れているのか?……その
全体構造(体系)を捉えるものでなければならない。
そうすることで、自らが学的<主体>として最高に<理性>的な存在者であることを、証明しなければならないのである。
以上がヘーゲルにとっての哲学の学的任務であり、この任務を遂行していくための<学的方法>を、それ自体純粋に、一般的に捉えたものが『論理学』である。
『論理学』は、特定の事象A(あるいは事象B・C・D……)に即して、その特定の<論理>A・B・C・D……を学的対象にするものではない。特定の事象A、たとえば政治的事象を扱うのは政治学であり、特定の事象B、たとえば言語的事象を解明するのは言語学の仕事なのであって、<特定>の事象の<特定>の論理を扱うことは、論理学の学的任務ではない。
論理学の任務は、自然・社会・精神の別を問わず、森羅万象あらゆる事象A・B・C・D……に遍く<共通>する客体的な<論理>の純粋・一般的な在り方の解明である。すなわち
[ 自然・社会・精神のあらゆる事象は、<事象の本性→その本性が現れるに相応しい内的仕組み→事象の現実具体的な姿>という一般論理的な<過程的構造>において、事象は事象たりえている ]
という、純粋な一般<論理>(体系性)の解明である。
この一般<論理>を捉えていくとき、学的主体の側もまた、この<論理>(体系性)に根本的に規定され、<論理体系的な思考>の道筋を辿る。この<主体ー客体>が照応する<論理体系的な思考>の道筋を、
<理論体系>を構築する<学的方法>として、それ自体純粋・一般的に叙述するのが『論理学』なのである。
この『論理学』という純粋<理論体系>を、概念がもって自らの本性を必然的に開花・顕現・発展する<過程的構造>として捉え返せば、ダイナミックな
<内的運動過程>(対象の直接の姿態が呈する現象的に複雑多様な諸機能・諸作用の連関・運動ではない!)となるから、<理論体系>を構築する<学的方法>は、
<ヘーゲル弁証法>そのものということになる。
(3)
以上、ヘーゲル『論理学』が対象としているものは、
a)自然・社会・精神の如何を問わず、あらゆる事象それぞれの中に、<客体>的に内在している一般的な<論理>であり、
b)この<論理>に根本的に規定された<主体>の一般<論理>的思考である。
マルクス主義哲学では、「形而上学」や「形式論理学」と大きく対比されるかたちで、「弁証法」が「論理学」にカテゴライズされてきたのは、この<客体ー主体>の一般的な<論理>を扱うがゆえである。
ヘーゲルは、この『論理学』の純粋<論理体系>(ヘーゲル弁証法)が、いわば応用論理学的に顕現するかたちで、「自然哲学」「精神哲学」を論理必然的に導出していく。
『論理学』は「始元→進展→終局」という完結した<体系>(円環)をなし、「終局」があらたな<体系>(円環)の「始元」を論理必然的に準備する。論理学⇒自然哲学⇒精神哲学の体系的構成は、論理学(弁証法体系)⇒自然哲学(自然の弁証法的体系)⇒精神哲学(精神の弁証法的体系)という、<諸円環の弁証法体系>(円環)をなしている。
だが、そもそも、論理の学・自然の学・精神の学というものは、<純粋論理大系>(弁証法)⇒自然哲学・精神哲学(自然弁証法的・精神弁証法的顕現)というような、<円環>と<円環>の必然的論理的連関を、取りうるものなのだろうか?……。
また、自然の学・精神の学の内部構成、力学⇒物理学⇒有機的自然学、主観的精神⇒客観的精神⇒絶対精神、あるいは法⇒道徳⇒人倫という論理必然的導出は、厳密に科学的構成と見なし得るのか……。それらの弁証法的自己導出運動は、たとえば、『資本論』の「資本の生産過程」⇒「資本の流通過程」⇒「資本制的生産の総過程」という体系的な篇別構成の論理必然性と同じなのか?……。
こう問うてみることで、哲学・論理学のフィールドで開拓・構築された<ヘーゲル弁証法>と、社会科学・経済学で有効性を発揮する<マルクス弁証法>の学的相違を、それぞれの学的領域からの規定性を踏まえて、明らかにすることが出来るだろう。
ヘーゲル『論理学』に限らず、そもそも「論理学」という学問は、<学>と銘打ちながらも、政治学とか経済学とか言語学のような個別科学とは、その学的性格が根本的に違っている。
先に、神学は天上と地上を問わず森羅万象あらゆる事象を学的対象とし得る特異な学問と述べたが、論理学をその学的構造においてみるならば、個々の個別科学よりも、神学と実に良く似ているのである。
個別科学者、たとえば、社会的事象としての政治的事象を扱う政治学者は、<政治>的事象としての固有の特質(<政治>的事象を<政治>的たらしめる根本的な性質=本質)を科学的に解析することに全力を尽くす。政治・法・国家などの諸事象を正面に据え、その直接の姿態にまつわる偶然的・攪乱的諸要因を抽象=捨象しつつ、<現象→構造→本質>へと抽象=止揚し論理分析を進めていき、最も一般的・抽象的な<本質>規定を抽出し、そこから本質論を構造論的に具体化していく。
『資本論』の場合には、商品→貨幣→資本の<上向>には、現実具体的な経済的事象を正面に据え、その直接的姿態にまつわる偶然的・攪乱的諸要素を<抽象=捨象>しつつ、資本→貨幣→商品へと論理的に<抽象=止揚>する<下向>的分析が、論理的に前提となっている。だからこそ、商品→貨幣→資本の<上向>も、そしてまた、「資本の生産過程」⇒「資本の流通過程」⇒「資本制的生産の総過程」という必然的な篇別構成も可能になっている。
これに対して、『論理学』へと収斂するヘーゲルの哲学的研鑽は、<特定>の事象の<特定>の論理構造ではなく、自然・社会・精神的事象すべてに遍く<共通>する<一般>的な論理構造を、純粋に、それ自体として一般的に掴み取ることに、全力を傾注している。
これを学的論理的抽象の問題として考えれば、『論理学』の学的抽象作業は、自然的・社会的・精神的事象(また社会的事象なら政治的・経済的事象)に<固有の特質>を、非共通性として、論理的に<抽象=捨象>(止揚ではない!)し切り捨てていくことになる。
これは当然であろう。自然的・社会的・精神的事象の<固有の特質>、たとえば、物理現象に固有の内容的特質を扱うのは物理学である。政治現象を扱うのは政治学、言語現象は言語学……etcなのであって、そういう解明が<論理の学>(論理学)の任務であるはずがない。物理だろうが政治だろうが言語だろうが、そういった独自の対象的固有性に頓着せず、あらゆる対象に共通する論理一般<だけ>を純粋に抽出するからこそ、「論理学」は<論理>の<学>なのである。
しかしこの抽象=止揚過程を逆にみれば、いったん「非共通性」として論理的に<抽象=捨象>され切り捨てられた、諸事象に固有の内容は、<上向>的に復元・展開できないということにもなる。
<論理の学>は、比喩的にいえば、ありとあらゆる物体のレントゲン写真を撮り、内部的な仕組み(構造)<だけ>を純粋に透かしみるようなものである。レントゲン写真から、物体の現実具体的姿を復元することはできない。『論理学』で捨象された自然・社会・精神に固有の具体的内容は、『論理学』の延長線上で、たとえば『資本論』の商品→貨幣→資本のように<上向>的に復元・顕現しえないのである。
ここに、<哲学大系>内部での論理学構築のための<抽象=捨象>と、<個別科学大系>内部の<抽象=止揚>の差異がある。
ヘーゲル<哲学大系>は、純粋<論理体系>(ヘーゲル弁証法そのもの)を、いわば<応用論理学>的に具体化するかたちで、自然哲学・精神哲学を論理必然的に導出しようとする。『論理学』の存在・本質・概念の重層的構成が、「自然哲学」「精神哲学」の各パートの構成と内容にあたかもリフレインするかのように具体化され、論理学の根本的概念である個別・特殊・普遍の三契機が適用されていく。ここに、ヘーゲルの哲学的アプリオリズムを明瞭に看て取ることができる。
この<哲学体系>のアプリオリズムは、『資本論』のような<抽象=止揚>に基づく<上向>展開を、無理に<哲学大系>内部で行い、<論理学⇒自然哲学⇒精神哲学>へと<上向>しようとするところから、必然化されたものなのである。
ヘーゲル哲学は、現代の個別科学者には到底望めない壮大な<体系性>を獲得したが、その<体系性>の内実は、自然を論じても精神を論じても、厳密な<自然科学><精神科学>としてではなく、あくまでも<自然哲学><精神哲学>として論じているのであって、そこに、ヘーゲルの<哲学的立場>と限界がある。
世界を“総体”として解明するヘーゲルの哲学的研鑽の内実は、現代の個別科学者達が物理・化学あるいは経済学・政治学、言語学などの個別特殊的領域で個別科学的研鑽を積み、一つ一つを学を極め、その結果として壮大な<統一科学>的体系を組み上げる……というような性格のものではない。【補注2】
もちろん、シェリングをして「あの愚鈍なヘーゲル」と陰口を叩かれた粘り強い鈍才型天才ヘーゲルは、その哲学的研鑽で鍛え抜いた<論理学>的能力を以て、たとえば国家なら国家の<本質>的把握に天才的な力量を発揮している。しかしそれは、ある特定の個別的事象の<現象→構造→本質>という厳密な個別科学分析というより、
<現象→(構造)→本質>
という論理的直観プロセス、すなわち、現象の背後にある対象の<本質>をずばっと大づかみに捉えるというものである。
もしもヘーゲルが、現代の個別科学者のような厳密な学的追求の途を辿り、一つ一つの学問領域を極めようとしたら、寿命が二百年あっても足らなかったろう。ヘーゲルが生きた時代は、自然的・社会的・精神的諸学の発展的分化が現代ほど緻密化・細分化されていなかった。だからこそ、論理学を基底とする壮大な<哲学>体系もなんとか可能だったといえるかもしれない。
(4)
以上、ヘーゲルの<哲学大系>と『論理学』をフィールドに展開した<学的方法>の特質をみてきた。
ヘーゲル的立場では、『論理学』の重層的・立体的な全構造がそのまま<哲学の方法=体系>である。再びヘーゲルの言葉を引用すれば、
「(哲学の)方法を本格的に展開する仕事は、論理学に属する。いやそれどころか、それ(方法)こそが論理学そのものである」
ということである。
この<哲学の方法=体系>とは<弁証法>そのものであるから、『論理学』すなわち<弁証法体系>ということになる。
しかし他方で、ヘーゲルは次のようにも述べている。
「思弁的な論理学は単なる悟性の論理学を含んでいるから、前者から後者を作り出すのは、わけのないことである。それには前者から弁証法的なものと理性的なものとを取り去ればいい。すると、思弁的な論理学は、普通の論理学と同じもの、すなわち、有限であるにもかかわらず、無限なものと考えられている様々な思惟諸規定を寄せ集めて記録したものになってしまう」(『小論理学』下巻 82節 252頁)
ここでヘーゲルの言う「思弁的論理学」がマルクス主義者の言う<弁証法的論理学>であり、「弁証法的なものと理性的なもの」が、マルクス主義者の言う<弁証法>に相当する。
ヘーゲル『論理学』は、伝統的な「形而上学」と「形式論理学」が研究対象としてきた哲学的諸問題を、学的対象素材としている。哲学史上に現れてきた存在論的また認識論的諸問題を俎上に載せ、<弁証法>(「弁証法的なものと理性的なもの」)に則って体系構成していったのが『論理学』である。
とするならば、『論理学』とヘーゲル弁証法の関係は、学的理論体系(論理学)≠学的方法(弁証法)ということにもなるだろう。マルクス主義でいう「弁証法論理学」は、あくまでも弁証法<的>論理学であり、弁証法=論理学ではない、ということである。
これはちょうど、『資本論』と社会科学方法論(唯物史観)が<理論体系>と<方法>として関連しながら、しかし『資本論』≠社会科学方法論(唯物史観)であることと、論理的には同じことであるだろう。
ヘーゲル『論理学』と<ヘーゲル弁証法>の関係は、ヘーゲル哲学大系全体に占める『論理学』の核心的位置から必然的に、
a)弁証法(体系)=思弁的論理学であり、同時に、
b)弁証法(方法)≠思弁的論理学
でもあるという、<矛盾>した学的構造になり、このことがよりいっそう『論理学』を解りがたくしているのである。【補注3】
では、a)<弁証法体系>=論理学というレベルにしろ、b)<弁証法的>論理学というレベルにしろ、ヘーゲル『論理学』をして弁証法<的>論理学たらしめた、その<弁証法>((「弁証法的なものと理性的なもの」の統一))は、いったいどういうもので、どういうかたちで、マルクスの<唯物弁証法>へと継承されていったのか?……。次のこの点について見てみよう。
(5)
マルクス・ エンゲルスにとってヘーゲルの壮大な<体系>は、現実融和的・肯定的・保守的性格の「絶対的真理の体系」として退けられるべきものであった。
「ヘーゲルの体系に重点を置いたものは、この二つの分野(宗教と政治……引用者注)でかなり保守的であることができた。弁証法的方法を主要なものと見た者は、宗教上でも政治上でも、極端な反対派に入ることが出来た」(『フォイエルバッハ論』大月文庫 19頁)
「その神秘化された形態においては、弁証法はドイツの流行になった。というのは、それが現状を巧妙で満たすように見えたからである。その合理的な姿においては、弁証法は、ブルジョワジーやその空論的代弁者たちにとって腹立たしいものであり、恐ろしいものである。なぜならば、それは、現状の肯定的理解のうちに同時にその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れの中で捉え、したがってまた、その過ぎ去る面から捉え、なにものにも動かされず、その本質上批判的であり革命的であるからである」(『資本論』「第2版後記」国民文庫@ 41頁)
ヘーゲル哲学体系の内部にありながら、しかし、絶対的真理の完結的<体系>(円環)に対して解体的・否定的に作用し、<体系>と矛盾する<方法>を、「弁証法という革命的方法」として抽出する。
これが、マルクス・エンゲルスの基本的モチーフであり、「ヘーゲルと共に哲学は終わる」(『フォイエルバッハ論』大月文庫 18頁)という認識において、二人はまったく同じである。
だが、マルクスとエンゲルスのヘーゲル弁証法継承発展の途は、<思想>的また<イデオロギー>な次元で一致しながら、実際の<学的・理論的>レベルでは異なっている。
エンゲルスは『反デューリング論』『自然弁証法』『フォイエルバッハ論』などで「弁証法」について論じているが、その基本的立場は、ヘーゲルのいう「弁証法的なものと理性的なもの」のうち、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」(同上79節 240頁)に着目し、「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」(同上81節補遺 246頁)として抽出するというものである。ヘーゲルの中にあって「革命的」なものを、<体系>構成の核心を成す「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」と切り離すかたちで取り出している。
しかし、本来、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」と「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」とは<理性>的な両側面として統一的なものなのであって、<肯定的なもののうちに否定的なものを掴む>否定的理性の働きを内に含みつつ、<否定的なものの内に肯定的な契機を掴む>肯定的理性の働きがあるのだ。
マルクスは、その弁証法理解をエンゲルスと共有し、思想的・イデオロギー的に、また個別科学者(社会科学・経済学)の立場から、ヘーゲル弁証法の<絶対的体系>を斥ける。
しかし、その経済学的研究を理論体系的に総括・展開する<学的方法>において、まさしく「弁証法的なものと理性的なもの」を<統一的>に継承した。
エンゲルスのように単純に<体系>⇔<方法>と図式的に対立させ、弁証法が弁証法である限り必然的に有する<体系>的性格と切り離すかたちで弁証法=方法とするのではなく、<弁証法>を<事象を体系的に分析し、体系的に叙述・構成する方法>として採用している。
この<体系=方法>を実現していく内在的な核が、<抽象=止揚>を武器とする<本質=関係>把握ということになり、ヘーゲルの<哲学的な<体系=方法>は、個別科学大系のレベルで、個別科学の<体系>を個別に構築するための<科学的方法>へと止揚されたのである。
もちろん、マルクスの場合<科学的方法>とはいっても、<弁証法>それ自身が直接、<個別科学の方法>となるわけではない。
<弁証法>と個別科学の関係は、同じ<方法>といいながら、たとえば社会科学方法論(唯物史観)などとは異なっている。
個別科学の<方法>はあくまでも、その学的対象に固有の性格に規定されている。社会的歴史的事象を取り扱う社会科学方法論は、その対象である歴史的社会的事象特有の内容に即して、論理的に抽出されたものである。だからこそ、社会科学方法論(唯物史観)を「導きの糸」として社会科学が構築されるのだが、<弁証法>は社会科学に対してそういう方法的指針・指導原理たりえない。
先に述べたように、<弁証法>は、自然的・社会的・精神的の別を問わずあらゆる事象に<共通>する<論理としての一般的在り方>だけを純粋に抽出し、事象に固有の内容的特質を<非共通的諸要因>として捨象し切り捨てたところに成立する。だからこそ、弁証法⇒唯物史観⇒社会科学という上向的論理導出など、成立の余地はない。<学的方法>としての<弁証法>は、個別科学の<直接>の指導原理・「導きの糸」として役立つのではなく、<体系>に深く静かに内在するかたちでしか存在し得ないのである。
したがってまた、マルクスの<科学的弁証法>は、ヘーゲルのような論理学=弁証法体系という<学>的に“自立”したかたちで立ち現れことはない。我々は、個別科学者、たとえば経済学者が対象的事象の内部構造に分け入り、本質を掴む学的解析を<弁証法>的分析と呼び、本質論の構造論的具体化を<弁証法>的総合と呼ぶが、その経済学理論体系そのものを、<弁証法>とは呼ばない(比喩としてならともかく)。<弁証法的論理学>は、弁証法<的>論理学(弁証法的に構成された論理学)であって、マルクス経済学や滝村国家論、三浦言語学が<弁証法そのもの>ではないのとまったく同じ意味で、論理学がそのまま弁証法ではない。
『経済学批判序説』を見れば分かるように、「上向法・下向法」の叙述はわずか数十行に纏められるものでしかなく、物々しい<体系>的著述を必要としない。これはちょうど、社会科学方法論としての唯物史観が、その骨格を定式化すればせいぜい十数行で、“唯物史観学”のような学的自立的姿態を取りえないことと、論理的には同一である。<科学>的な方法論、いやそもそも<方法>とは、そのような一般的・抽象的性格のものなのである。
エンゲルスは、「ヘーゲルと共に哲学は終わる」(『フォイエルバッハ論』大月文庫 18頁)という金言を残した。
この金言の厳密な意味は、あらゆる個別科学を超え世界を“総体”として解明するような“哲学大系”的発想は、もはやヘーゲルを最後に「終焉」したということであり、これは<学的方法>においても言えることなのである。
(6)
さて、以上の議論を前提に、ヘーゲル<哲学大系>とマルクス<科学的体系>の相違を超え、両者が共通に把持する<学的弁証法>とはいかなるものか?……簡単に纏めてみよう。
マルクスにおいてもヘーゲルにおいても、学問Wissenschaftは、現実具体的事象の現象的姿態を、直接そのまま把握・記述するものではない。学的研究主体は、
@ 研究対象の現象的姿態にまつわる偶然的・攪乱的諸要素を<抽象=捨象>しながら、事象の背後の内部構造へと分け入り本質を掴み(現象→構造→本質という<抽象=止揚>的<論理解析>作業)、
A そこから逆に本質論を構造論的に具体化していく(本質→構造→現象というかたちで、<抽象=止揚>されていた特殊的・個別的諸契機を理論的に復元・導出していく<理論構成>作業)。
この<本質→構造→現象>という理論展開は、特殊的・個別的諸契機A・B・C・D・E……それぞれの論理的レベルを、<本質>規定との<関係>において確定し、重層的・立体的に<構造>化していく<体系> 構成である。
この<体系>全体の<構造>を内部的に見れば、個別・特殊・普遍的諸契機の<媒介関係>の総体となっている。すなわち、個別・特殊的諸契機は遍く<本質>を内在させ、 <本質>に<媒介>されながら相互に<連関>し合い、重層的・立体的な<複合体>として内部的に統一されているのである。
内部統一的な<媒介関係の総体>というのは、<体系>というものを、よりスタティックに把握するものだが、これを別の角度から、<本質→構造→現象>というダイナミックな過程的構造において捉え返せば、<体系>はヘーゲル的な意味での<運動>となる。すなわち、<体系>を、<本質がもって自らの本質を開花・顕現していく>諸概念の自己導出的運動過程として、読み替えることが出来るのである。
我々は、現象→構造→本質へと<抽象=止揚>していく<論理解析>作業を<弁証法>的分析(下向法)と呼び、本質→構造→現象という<理論構成>作業を<弁証法>的総合(上向法)と呼ぶ。ヘーゲルにあってもマルクスにあっても、学問は<体系>的なものでなければならない。かくて二人の<学的弁証法>は、
[ 学的主体が、対象に内在する客体的な<論理>(体系性=弁証法性)を掴み、その<論理>(体系性=弁証法性)に規定されながら、その<論理>(体系性=弁証法性)に相応しい<理論体系>的叙述を展開するという、対象的事象の体系的分析・構成法 ]
ということになる。
【補注1】
ヘーゲルの「方法とは、その純粋な本質の中で組み立てられた全体の構造に他ならないからである」という言葉を、ヘーゲル的<哲学的方法>としてでなく、<学的方法>一般として捉え返せば、次のような意味になるだろう。
たとえば、社会的歴史的事象を研究するための<方法>は、その研究対象である社会的・歴史的事象の<特質>に大きく規定されていて、研究者が自らの研究がある程度進んだ段階で、その研究過程を大きく振り返り、その過程がどのような論理的行程であったか?……その全体的な歩みの<過程的構造>を純粋に把握したとき、<方法>研究の指導原理としての<方法>を獲得しえる。
そして、そこで得た<方法>を武器に、新たに、より高次なレベルで研究を進めていくことができる。その研究の新たな進展は、自分の依拠する<方法>の指導原理・指針としての正しさを、体系的に検証していく作業でもある。
これは、研究者が自前の<方法>ではなく、先人大家の<方法>を受容・継承する場合でも同じである。
社会科学では、先人大家の<方法>を採用する場合、その方法を絶対的に正しい<方法>として固定化することは出来ない。自然科学ならば、実験的実証でその<方法>の妥当性(とその有効適用範囲)をあらかじめ確定し得るが、実験的実証も数理的論証で真理を検証できない社会科学では、先人大家の<方法>を取りあえずの暫定的仮説として受容し、それが方法的に妥当かどうかを、自らが<体系>を構築していくことで、<方法>そのものを吟味していくことになる。
[補注2]
ヘーゲルを中途半端に生齧りした「哲学ファン」の中には、「弁証法」を軸に、世界“総体”を統一的に解明する“一般総合科学的な体系”を思い描く人がいる。個別科学の独立分化的発展・細分化への苛立ちと不安、<世界>をなんとか統一的に思考・把握したいという欲求が、その背景にあるだろう。
この手の発想は、カント・ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東などを学習し、自分の頭をガチガチに“理論武装”し世界を“総体”として解明し、世界を“総体”として変革しよう!……という、マルクス主義哲学系の一つのヴァリエーションといえるだろう。
「弁証法的唯物論」(世界観)に立脚し、「唯物弁証法」という科学的指導原理を駆使し、個別特殊的諸領域で科学的研鑽を積み、一つ一つ学を極め、その結果として壮大な<統一科学>的体系を組み上げ“世界を掌に載せてやる!”というわけだ。
こういう発想が生じるのは、ヘーゲル『論理学』と<ヘーゲル弁証法>の二重の関係、ヘーゲル<哲学大系>に占める『論理学』の特異な位置、『論理学』が(神学にも似て)自然・社会・精神のあらゆる事象を学的対象にしながら、しかし事象の一般的論理<だけ>を取り扱うことの方法的意味、ヘーゲル<哲学大系>⇒マルクス<個別科学的体系>への学的流れ、要するに「哲学はヘーゲルをもって終焉した」ことの深刻な意味を、まったく理解できていないからである。
弁証法は、自然・社会・精神的事象のすべてを対象にするという「長所」をもつ。しかしその「長所」が逆に、自然・社会・精神的事象のそれぞれに<固有の在り方>を扱えない(論理的に抽象=捨象し切り捨てざるをえないが故に)という「限界」となって現れる。
この「長所」と裏腹の「短所」を、エンゲルスのデューリング批判に依拠しながら指摘したのは、三浦つとむである【この点は弁証法と個別科学の連関を論じるに当たって極めて重要なポイントであり、項目5「弁証法の方法的位相」で論じている】。
「弁証法論理学」を軸に、世界“総体”を統一的に解明する“一般総合科学的な体系”を思い描く人は、三浦つとむの著作をきちんと読むべきだと思う。
ところで、「弁証法的唯物論」(世界観)に立脚し、「唯物弁証法」という科学的指導原理を駆使して、物理・化学あるいは経済学・政治学、言語学などの個別特殊的領域で個別科学的研鑽を積み、一つ一つを学を極め、その結果として壮大な<統一科学>的体系を組み上げ“世界を掌に載せてやる!”という立場で、学問的・理論的実践に取り組むと、結果的に、どういうことになるか?
どんな天才的な能力の持ち主でも、一人でそんなことができるわけがないから、当然、
“ われわれ凡人に、たった一人で世界“総体”を統一的に解明する“一般総合科学的な体系などできるわけがない。だから、偉大な先人大家の理論学説で理論的に武装した学的同士たちが協力・分担し合わなければならない ”
ということになるだろう。
この「理論的実践」の「集団」化には、通俗マルクス主義者に共通する認識論的誤謬が、背後に控えている。
マルクス主義哲学系列には、人間主体の<社会性>と<個人性>の<矛盾>をまるっきり無視して、人間を<直接>的に“社会化”し、学的認識・思考もまた<直接>的に“社会化=組織化”しようという発想がある。
人間の<主体>的認識に関わる理論的実践も<直接>に組織化すべし!……ということになったら、どういうことになるだろうか?……。
人間の学的認識は、どこまでいっても本質的に<個体としての主体的活動>だから、結局、<直接>に組織化された“学的実践”とは、“学的指導者(集団内頭脳)の思考の道筋を正しく辿り思考内容を正しく受け止め、学的指導者の思考する通りに思考できるまでハードに修行するぞ!”という発想にならざるをえない。こういう学的党派発想は、なにも北朝鮮に限らず、マルクスだのヘーゲルだの弁証法だのを信仰する哲学的党派集団にも、多かれ少なかれ見られるものである。
現に、自称“科学”的な哲学的・宗教的党派集団では、
“社会は分業において成り立っている。わが派の理論的実践も当然、社会的分業に則っておこなわれる。すなわち、わが派の理論指導部が頭脳中枢であり、理論的なことは我々指導部の仕事である。手足が頭脳の指令を受けるが如く、指導部の理論を正しく受け止め理解し実践しなければならない”
という理屈で、“理論的実践”が行われることになる。
学的・理論的な実践は、本質的に<個体としての主体的活動>であり、学的協力・協働関係においても、独立した個人の自由な主体性が前提になる。この本質を無視し、学的・理論的(個人)主体的実践を、政治的・思想的・イデオロギー的な組織的実践と取り違えたとき、理論的かつ思想的にどれほど醜悪なものになるかは、歴史的に証明済みである。
【補注3】
ヘーゲル『論理学』は極めて解りがたい著述であり、それだけ読んでいても、 なかなかヘーゲル→マルクスの<方法>的連関を把握しがたいものである。
そのため昔から、ヘーゲル哲学入門には、『歴史哲学』『法哲学』『哲学史』などが推奨されてきた。たしかに、近年相次いで翻訳されている「法哲学講義」類など読むと、『論理学』よりも容易に、神秘的・観念論的粉飾に惑わされることずっと少なく、ヘーゲルの対象把握の<学的方法>がいかなるものか?……、叙述の中に透かし見ることが出来る。
だが、これら「講義」類は、『論理学』を前提とする「精神哲学」の一部であり、いわば「応用論理学」的に諸概念・範疇を適用したものであるから、「講義」類といえどもその十全な理解のためには、やはり『論理学』を読み、そのヘーゲル的な論理と諸概念に(ある程度)通じていなければならない。しかし、『論理学』を理解するために「講義」類を読まなければならず、「講義」類を理解するためには『論理学』を……という循環に初学者が嵌り込むと、途中で嫌気がさして“結局ヘーゲル哲学ってのは訳が分からない!”と放り投げることになりかねない。
また、「講義」類の構成・叙述内容には、<哲学体系>に特有のアプリオリズム(論理学的基礎概念を歴史的・社会的事象に押しつける)の性格を帯びたところがあるから、その点でも初学者の理解を惑わすことにもなる。
そこで私見になるが、ヘーゲルの<学的方法>とはいかなるもので、それがどのようにマルクスへと継承されているのか?……理解するために、いきなりヘーゲルに取り憑くのではなく、ヘーゲルの弟子達の個別科学的業績、マルクス『資本論』、三浦つとむの言語過程説、滝村国家論などの業績を検討し、そこから、ヘーゲルの「講義」類、さらには『論理学』を照射していく作業が、<知識レベル>の学びの方策として極めて有効であるだろう。
とりわけ、三浦つとむと滝村隆一が強調する<本質=関係>概念からヘーゲルの<学的方法>を捉え返す作業は、ヘーゲル哲学を理解する上で、単に学びの途として「有効」というばかりか、実はそれこそが、ヘーゲル・マルクスの学統を理解する核心中の核心だと思うのである。