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補遺B 真理は単純であり複雑である(三浦つとむ)
−<体系>を構成することの意味−

(読者の方々の反応に寄せて2)


顔も名前も知らぬ年長の方で、昔は「私も左翼だった」という人からのメールは、たいへん興味深いものでした。
 その方が大昔、初期滝村国家論の諸概念、「広義の国家」「狭義の国家」「共同体―即―国家」などを、どちらかといえば保守系の知人にかいつまんで話してみると、
「そんなの常識というか、ちょっと考えれば、当たり前のことじゃないか?……滝村とやらのどこがいったい凄いのか?」
という感想が返ってきたのだそうです。
ヘーゲル・マルクスなどのドイツ系の発想には馴染みの薄い保守系の人でも、日本の左翼よりはリアリスティックな現実認識レベルが高いから、滝村理論の諸概念に触れ、「なんだ、当たり前のことをいってるだけじゃないか?」と思うのは、ある意味健全というか、当然のことでしょう。
 頭の中で思弁的にひねり出されたものではなく、現実具体的な諸問題を理論的に解明することで、科学的に抽出された本質規定が、「言われてみればそうだよな」とか「それってよく考えれば当たり前のことだよな」と感じられるとするならば、それこそが「真理は単純である」という格言の実例であると、いえるでしょう。
 その「単純」な本質を、現実に生きる生活者が、学問・理論的にではなく、生活体験に根ざした<直観>のかたちで、すう〜〜ッと<透かし見る>というか、ごく自然に肌で感じるということは、当然ありえることです。
 私は、読者の方の昔話を聞いて、吉本隆明の戦前マルクス主義者への強烈な皮肉、帝大を出て山のような経済学的文献に埋もれながら、侃々諤々と議論していた講座派・労農派の日本資本主義に対する「現状分析」が、学問もなにもない普通のおっさんが一撃の直観で掴んだ「現実認識」に及ばなかったのではないかという、いかにも吉本らしい嘲笑を、思い出しました。
 学者でもなんでもない素人でも、ものごとの本質をぱッと掴むカンの閃きの鋭い人というのは、目の前の現実具体的な政治的諸事象を正面に据え、
<現象→構造→本質>
というトータルな学問・論理的解析をするわけではないが、日々現実に迫られ鍛えられる経験的直観を閃かせ、
<現象→(構造)→本質>
という風に、一瞬のうちに<本質>を掴んでしまえるわけです。
  しかし、問題は、「真理は単純である」という素朴な本質の掴み方だけで済むほど、事柄は「単純」ではないということです。
 素朴な直観力に秀でた非学者はもちろんのこと、社会科学的学識・教養を身につけた保守系学者の場合も、「そんなの常識というか、ちょっと現実を見て考えれば、当たり前のことじゃないか?」というレベルから、さらに一歩進むことは、実はなかなか難しい。
 というのも、真理というものは<単純>であり、と同時に、<複雑>でもあるという面がある。この複雑という面をしっかり掴めるかどうかが、素朴な論理的直観と、厳密な学的・理論的把握の決定的な差異となって現れます。
 この「真理は単純であり複雑である」という弁証法的格言を、滝村国家論に即してみていくと、

(1)「言われてみればなるほど」という、ある意味で「常識的な」概念規定(真理は単純である)が、では、なぜ、これまで理論的にまともに掬い上げられ、<概念>的にキチンと措定されてこなかったか?……あるいは、一度は掬い上げられた理論規定が、なぜ時代とともに忘れ去られ置き去りにされてしまったのか?

(2)なぜ滝村が、それを掬い上げ概念構成し、その諸概念規定を、ヘーゲル・マルクス的ないかめしく壮大な弁証法的<体系>へと包摂(真理は単純にして複雑でなければならない)しなければならなかったのか?

   という問題として、設定し直すことができます。
 しかし、素朴な論理的直観にとどまっている限り、そこまで理論的・学的に深く追求することができません。概して、現代の保守的な知性の間では、ヘーゲル・マルクスなどのドイツ系の発想には馴染みの薄いこともあって、こういう理論的追求自体が、そもそも問題意識として成立しにくい、というところがあるように思います。

   「真理は単純であり複雑である」という弁証法的格言は、ヘーゲル的に言えば「真理は全体である」ということです。滝村国家論は、この「真理は全体である」という根本発想を学的に継承しています。
 ヘーゲル系統の発想では、たとえば「政治の本質とは○○である」とか、「国家とは**である」という抽象的な本質規定それ自体を、ぽつんと提出することが、真の学の課題なのではありません。
 また、特定の時代・特定の社会的状況に密着したかたちで、経験法則的・直観的レベルで理論的諸規定を提出することは、たとえその規定そのものがどんなに鋭く現実を捉えたものであっても、それは厳密な意味での学的な<概念>レベルにはないと判定されます。
 たしかに、「三権分立」にしても、「統治・行政」概念にしても、モンテスキューやヘーゲルやトクヴィルなどの偉大な学匠たちは、理論的に滝村と近い把握を提出しています。
しかし、彼らの著述を読めば、厳密に<概念>というに相応しい理論的規定へと構成し、それら諸概念を厳密な論理的連関において<理論体系>へと包摂・構成しえたわけではありません(この点は、ヘーゲル『法哲学』の哲学大系としての哲学的限界の問題です。哲学大系は科学的体系たりえないということは、HP第二論文で触れておきました)。
 『国家論大綱』の場合は、「統治・行政」概念にしても「三権分立」概念にしても、<権力とはなにか?>というもっとも基底的な本質概念に大きく<媒介>されるかたちで提出されています。
 基礎的な諸概念が、本質との<関係>(媒介=止揚関係)において、それぞれの論理的位相を確定し、重層的・立体的な<構造>論的展開において、それぞれが論理必然的に<ここしかない>というしかるべき位置に据えられている。
 そういう体系構成への組み上げが出来ているからこそ、たとえば、ヘーゲル国家論に対して、

立法権・統治権・君主権という三権の実体的契機の把握は、まったく異質の論理的レヴェルに関わる諸概念を、同一ヴェルで並列させるという「ヘーゲルらしからぬ理論的失態」である(『大綱』上巻643頁)

 と批判することもできるわけです(注2)。
 現実的事象の理論的解明において、どの概念をどのように、どのレヴェルで駆使するか?……ということが、重層的・立体的な<体系構成>の中で論理的に確定していなければ、学説批判の理論的基準が確定しません。
 諸概念は、それ自体に意義があるのではなく、弁証法的体系を構成する<諸契機>として、体系的に構成され位置づけられてはじめて、それらは<概念>なのであって、そう言う意味で「真理は全体である」ということになります。
こういう<方法>は、とりわけ実験的実証も数理的論証で真理をテストし確定しがたい<理論科学>(政治学や経済学など)のような学的領域で、その<方法的>威力を、最大限に発揮するといえるでしょう。
 もちろんこれは自然科学に弁証法が有効ではない、という意味でいっているのではありません。
 そうではなく、政治学や経済学のような、実験的実証も数理的論証で<真理>を確証しがたい学問領域だからこそ、「真理は全体である」というヘーゲルの根本発想が、<方法的>に必要・必然化されるということです。

  最後に、身内の話で恐縮ですが、「真理は単純にして複雑である」という弁証法的真理のあり方に関連して、我が意を得たり!と思わず膝を打ったのは、私の実弟の感想でした。

「弁証法というから小難しいが、要するに、『あれもこれも』というのは、物事を多面的に見なくてはならない。でも、単に多面的という面的理解ではだめで、その多面的な把握が、立体的なものでなければならないってことだな」

 というのが、三浦つとむの読者(但し不勉強)ではあるけども、滝村国家論とは「縁無き衆生」である弟の感想です。
「他面的」「複合的」「複眼的」が平面レベルでは意味がない。
 そもそも、「他面的」「複合的」「複眼的」というだけだったら、いわゆる機能主義的論理だって、現象の背後に不可視の実体を探る発想を「形而上学」として拒否し、個別具体的な現象的な機能的連関を、その複雑かつ多様な諸相に即して把握する「多面的」発想です。
 HPの第二論文で述べたように、機能主義的論理と厳正に区別される弁証法の方法的核心は、う〜〜んと通俗的な言い方をすれば、直接眼には見えない事象の内部の仕組みを<透かし見る>方法というところにあります。
「小難しい」言い方をすれば、<現象>過程の<構造>論的解析と<本質>論的抽象、それに基づく<体系構成法>ということになります。
 「直接眼には見えない」、すなわち、即物経験的実証不可能なものを、透徹するというところが重要で、では、それはどうやって可能なのか?……。
 ここで、マルクスの「経済学においては顕微鏡も試薬も役に立たない。そこでは抽象力だけが武器となる」(『資本論』)という金言の中の、「抽象力」を<止揚>と考えれば、そのまま<弁証法>の<方法的>核心を正確に言い当てたことになる。
 ヘーゲル以外の誰によっても着想されなかった、<抽象=止揚>(抽象=捨象ではない)という独創的発想を抜きにしては、<弁証法>の精髄は絶対に理解できない。
 ちょっと教科書風に「小難しく」規定し直して見ましょう。

  学的主体は、
@現象レベルのダイナミックな<機能的>諸連関・諸過程を正面に据え、現象にまつわる偶然的・攪乱的諸要素を論理的に捨象しつつ、
その背後のよりスタティックな、事象の内部構造的仕組みに関わる<実体的>諸連関へと分析を進め、機能的・実体的な諸連関を論理的に抽象=止揚していき、
もっとも抽象的一般的な本質規定を抽出する。
A そこから今度は逆に、論理的に抽象=止揚されていた<実体>的また<機能>的な諸連関を、直接それ自体として即物実体的・現象機能的に把握するのではなく(「あれか・これか」ではなく)、
特殊・個別的諸契機として、すなわち、一般的な<本質>規定との<関係>(媒介)において各々の特殊・個別的な論理的位相を確定し(「あれも・これも」と)、
重層的・立体的な<構造>において、諸契機がそれぞれしかるべき位置を占める統一的・全体的な<体系>へと理論構成していく。
 かくてマルクス・滝村の<弁証法>は、ヘーゲルの<抽象=止揚>という着想を武器にした、
a)対象的事象の<現象―構造―本質>の立体的な<論理>解析法と、
b)それに基づく<理論>体系構成法という、
<方法>的二重性において成立する。

 この教科書的に「小難しい」規定の中にある、<関係>(媒介)という基底的な<本質=関係>概念レベルで、現象・構造・本質の理論体系構成法として弁証法を把握できるないと、『国家論大綱』が、「真理は全体である」というヘーゲル的な<体系>であることの学的意味を、なかなか理解できないでしょう。


  (注)
 滝村のヘーゲル国家論批判、三権分立拒絶論の批判などは、学説批判はかくあるべしと思わせる素晴らしいもので、【ヘーゲルの論理でヘーゲル国家論を批判する】ものだと思います。個別科学的な<専門家>というものの凄みを感じます。
 哲学体系としての哲学も、個別科学として科学も、ともに<学>という名称を与えられてはいますが、哲学と科学の間には、その<学>としての<専門性>において、絶対に越えられない壁・密度の濃さ・水準の差が存在します。
 ヘーゲルはそのスケールの雄大さ・思想的魅力の深さ・厚さ・濃さという点で、個別科学者・滝村を圧倒的に凌駕するでしょう。
 しかし、その大哲学者ヘーゲルといえども、こと社会と歴史の理論解析という限定された<専門>領域に入れば、その道のプロ中のプロ滝村隆一には議論で勝てない。
そこにこそ、19世紀の哲学・法哲学⇒20・21世紀の社会科学・政治学という、時代的に規定された諸学の理論的発展、社会哲学者と社会科学者の間に横たわる、絶対に越えがたい<質的な科学的レベルの差>があるわけです。


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