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【補遺C 意志の<観念的>な<対象化>とはなにか <br><br> <i> −読者の方々からの反応に寄せて3−】</i>


補遺C 意志の<観念的>な<対象化>とはなにか 

−読者の方々からの反応に寄せて3−


 

 私のホームページの読者の方(以下、Aさんとお呼びする)から、第一論文『社会科学と精神科学の方法的差異』の第五項目「社会科学的に特殊な言語表現の位置付け方」の記述に対する疑問が寄せられた。
「(5)社会科学的に特殊な言語表現の位置付け方」では、滝村が社会的規範論の中で、「言語表現」というものをどう扱っているのか、検討している。まず、『国家論大綱』の滝村の記述を引用しよう。


「……<禁酒・禁煙>という実践的な<意志>は、紙に書かれて、目の前に貼り出される。それによってこの<意志>は、観念的に対象化され、外部的・客観的な<意志>であるかに固定される。そこで、この貼り紙を見るたびに、<禁酒・禁煙>という<意志>に反した行動をしないように、その行動が観念的に規制される」(『国家論大綱 上巻』84頁)

「……この<意志>が、紙の上の言語表現へと転じることによって、外部的・客観的な対象と化した、特殊な観念的事象として現出してくることから、われわれはこれをヘーゲルにならい、<意志の観念的対象化>と呼ぶことにしよう」(同上)

 この滝村の叙述に対して、私は次のようにコメントしている。


「この叙述は、「紙の上の言語表現に転じる」ことが即ち<意志の観念的対象化>であるとしか読みようがない。これは、認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論のレベルで見れば、規定として不正確ということになる。「紙の上の言語表現へと転じる」こと自体は、規範の現実的対象化というべきことで、<観念的に対象化>とイコールではないからである。」


 私のこのコメントに対するAさんの疑問は、次のようなものである。Aさんからの私信を公開するわけにはいかないので、内容を要約する。

[ 規範を文字で現し、貼り紙などに書いて張り出すことを、その行為それ自体は規範の「現実的対象化とでもいうべきもので」とするのは、「文字自体に意思や規範が宿っている」という観念論に転落しかねない不適切な表現ではないか? 規範が文字に書かれたとしても、規範を文字で現し、貼り紙に書いて張り出すことは、「現実的な対象化」ではなく、やはり規範の<観念的な対象化>である。<観念的な対象化>を「頭の中」にだけ限定するべきものではない。] 


       この問題に関しては、Aさんとの間で長文のメールでの遣り取りがあった。
Aさんも私も、内容的には同じ立場で同じ事をいいながら、Aさんは<意志の観念的対象化>を<対象化=客観化>というレベルで使い、私は<対象化=客体化>というレベルで使っているため、最初のうちは議論が噛み合わなかった。
 わたしのHPの文章では、意識的に、「主体」という言葉と対にして「客体」という用語を使っている。<主体>を論じている(主観ではなく)ところでは、その<主体>に対する<客体>を論じるべきで、「客観」という言葉で“主体―客観”を論じるのは概念的混乱だからである。
 以下、私の回答をあらためて「補遺C」「補遺D」のかたちで書き直すことにするが、立ち入った議論の前に、あらかじめ結論を提示しておこう。

 規範の「現実的対象化」というのは、まさにAさんご指摘の通り、経済学における労働の現実的=物質的な<対象化=客体化>(労働の物質的実体化)の議論と同じ水準で、<意志>の現実的=物質的な<対象化=客体化>(意志の物質的実体化=観念物の外化)を主張していると“誤解”されかねないので、訂正し、その上で、文章に補足説明のための改訂を施した方がいいだろう。改訂の機縁を与えていただいたAさんに感謝申し上げたい。
   私は、ホームページの当該箇所で、「認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論のレベルで見れば」という限定をしており、その論旨を理解して戴けるならば、規範の「現実的対象化」という表現をとらえ、“規範それ自体が、外部的・客体的事物として現実化=物質化するという観念論的主張だ!”と“誤解”することは、まずほとんどないだろうと思う。
以下、第一論文第五項の論旨、「認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論のレベルで見れば」という限定を与えたことの意味を、あらたに纏め直してみよう。

 <認識>は人間の頭脳活動の所産であり、<個人主体>(認識主体)の「頭の中」にしか存在しない。<認識>の特殊なあり方である<意志>もまた、絶えず揺れ動き生成し消滅する流動的な<生きた>意志であろうが、<対象化=固定化=客体化>された意志(観念的実体としての規範)であろうが、個人主体の「頭の中」にしか存在しない。
また、「禁酒!」のような「自己規律」レベルであろうが、契約のような諸個人間の「約束事・取り決め」レベルであろうが、法律(国家法)のような、有無を言わせず諸個人を遍く共通に規制・拘束する「一般意志」レベルであろうが、規範の存在諸形態の如何に関わりなく、<規範>は人間主体の「頭の中」にしか存在しない<観念的実体>(観念そのものが「頭の中」で対象化=客体化され、規範たるに相応しい観念的実体へと蒸留・精製・醇化される)である。
この<観念的に対象化=固定化=客体化された意志>(観念的実体)を「頭の中」に限定せず、「頭の外」に外部独立的・客体的に存在するものと主張したら、それは観念論である。
 私はそういう観念論的主張と自己の主張と区別するために、<言語表現活動>の現実的側面を捉え、「現実的対象化とでもいうべきもので」という言葉を使っている。
「現実的対象化」という言葉で、言語表現という「観念的事物」の観念的<事物>としての側面(紙に書かれたインクの描線という形象)を捉え、「認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論」のレベルで見れば、<意志の観念的な対象化>(観念的実体としての規範を「頭の中で」創出する)と、その規範の<現実的な言語表現形態>は論理的に区別するべきである、言語表現された規範の文言それ自体は、「頭の中」の<観念的実体>(規範としての意志)ではない、と言いたかったわけである。
 「頭の中」で規範(意志・認識)を生み出した人間主体Aは、紙にインクの描線を描き、自分の規範(意志・認識)の物質的<模像>(観念的事物)を「頭の外」に創造する。他の人間主体B・C・D・E……は、その規範(意志・認識)の物質的な<模像>(観念的事物)を、文字通り眼に見える対象的事物として<対象化=客観(視)化><客>体的対象として<観>る)し、その<模像>の背後にAの認識(規範としての意志)を読みとると、自らの「頭の中」にその意志(規範)の「複製」を観念的に創り出す。
こうして、他の人間主体B・C・D・E……は、「自らの心の内なる命令」(『認識と言語の理論』)という<対象化=固定化=客体化された意志>(観念的実体)によって、自らの独自の<生きた>意志を実践的に規制・拘束し続けるのである。
 その場合、「頭の中」の規範(観念的実体)が、まるで「頭の外」に現実に客体化された<かのように>対象化=客観(視)化する(たとえば、王様の御触書をあたかも王様のご意志・ご命令=規範そのものであるとみなす)という、観念の物神崇拝的逆立も起こってくる。
 認識論・言語学は、この言語表現の言霊的フェティシズムをも、<人間主体>(認識・表現主体)の内部的な心的世界にスポットを合わせて解明するのであり、その解明のためにも、人間主体の「頭の中」の「観念(的)実体」(規範)と、「頭の外」の<観念的>事物(言語表現された規範)の論理的次元を、厳密に区別しておかなければならない。

「頭の中」の「観念的実体」(規範)は、<観念そのもの>がまさしく「頭の中」で<実体化>しているというレベルで<観念(的)実体>であるが、言語表現された規範を「頭の外」の「観念的事物」と言う場合は、物質的実体(発せられた音声・書かれた文字という事物)に規範(認識)が投影されている(事物に認識が関係づけられている)というレベルで、<観念的>事物と規定されるであり、「頭の中」の<観念(的)実体>とは、論理的に区別されなければならないのである。

 以上の議論は、「認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論」のレベルの話であるが、国家論・政治学の「社会的規範」論の場合には、同じ規範を扱うにも関わらず、その議論の水準が異なってくる。
 国家論・政治学の「社会的規範」論では、個人主体(認識主体)の「頭の中」のレベルの議論は論理的に捨象される。したがって<規範>を扱う場合、それを「頭の中」のレベルではなく、「頭の外」の現実的な言語表現形態に即して位置づける。たとえば、皇帝の発する「詔勅」(公式文書)を、まさに規範そのものとみなして、議論を進めるということになる。
 これは、国家論・政治学が、<個人主体>ではなく<諸個人>の社会的・組織的連関を、意志の支配―服従関係すなわち権力関係に即して解明し、しょせんは<観念>にすぎない国家意志が、<諸個人>の上に君臨し、<諸個人>を遍く共通に、有無を言わせず支配・拘束するという幻想的な逆立的過程そのものを、直接正面に据える学問だからである。
 規範は言語表現されて初めて、その規範としての根本的特質(人間主体に対する外部独立的客体性・持続固定的支配性)を全面的に開花・顕現する。とりわけ社会的・組織的規範は、「頭の外」に、文字通り現実に目に見えるかたちで言語表現されることで、諸個人を共通に規制・拘束・支配する<一般的意志>という社会的規範に相応しい一般的形態を獲得する。
そして、そうであるがゆえに、社会的規範論は、現実的な言語表現、とりわけ命令文・命令書などの文字言語形態に即して、<観念的>事物(観念物ではなく)として把握しても良い、いや必ずそうしなければならないのである。

 
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