数年前の某掲示板で、年期の入ったボクシングファンたちが「フライ級の海老原博幸、大場政夫もし戦わば?…」という比較論を戦わせたことがある。
メキシコ在住のWBC幹部が英文で投稿を寄せたり、ボクシング雑誌で取り上げられたり、異様な盛り上がりをみせた。
見巧者のボクシング狂たちが熱くディープに激論を交わし、通ならではの蘊蓄を傾け、「海老原VS大場」比較論に止まらず「大場もしオリバレスと戦わば?」「大場もし具志堅と戦わば?」と話を広げ、1960〜80年代のボクシングを論じるのを、わたしは毎日愉しみにしていた。
それにしても海老原と大場とは、絶妙な組み合わせである。
ボクシングセンスもパンチ力も海老原の方が上に見えるが、海老原のカミソリパンチが炸裂して大場KO…とは簡単にいきそうにない。フライとしては大柄な大場に海老原が体負けしてパワーで押し切られる可能性も否定できないわけで、考えれば考えるほど結論が出ない絶妙の難問なのである。
わたしの場合、両雄を比較し強弱を論じるほど二人を見ているわけではなく、「海老原VS大場」比較論に自前の意見を持っているわけではないから、当初はただ眺めているだけだったが、ある投稿に反論するかたちで、かなり長い文章を投じることになった。
日本ボクシングの黄金期だった60年代〜70年代前半をリアルで知っているファンたちが往事を語ると、ともすれば「懐古趣味」と揶揄されるもので、「相撲だって昔よりずっと体がデカくパワーアップしている。ボクシングだって時代とともに進歩してるだろう」という「懐古趣味」批判の意見があった。
わたしは、そういう主張に反発するかたちで、あえて「懐古趣味」と言われかねない意見を、長文で投じたのである。
当時のわたしはワープロの名機「ルポJW04N」(十一年目のこの夏ついに逝去。持ち運びに便利で重宝した)でないと長文を書く気が起こらず、「ルポ」でまず文章つくり、それをフロッピーに落としパソコンに移すというかたちで投稿していた。それで幸いなことに下書きがいくつかフロッピーに残っている。
今あらためて読み返すと、ボクシングの「今昔比較論」としても格闘技一般の「今昔比較論」としても、内容的にまったく不十分であるのは否めないが、たいへんに懐かしい文章であり、愛着がある。ここに一文紹介しておこう。
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柔道やボクシングよりも、相撲の方が「昔>今」の構図がよりはっきりしていると思います。
最大のポイントは、相撲の場合、技も練習方法も、かなり古い時期にほぼ完成していることです(「寄り身の技術」など所詮マイナーチェンジの進歩)。
そういう競技では、一見すると不合理に見える稽古法も、長い時間をかけて構築されているだけあって、実は[不合理の中にちゃんと合理性が貫徹している]ものです。科学的トレーニングが入り込む余地などありません。
最高の強さと巧さを身につけたかったら、昔ながらの技を、昔ながらの稽古で錬磨することがベスト。だから問題は、どれだけの稽古を質量ともにこなしたかです。
そう考えると、相撲の全体的レベルは、稽古の質も量もけた外れにハイレベルだった昔の方が、強さにおいても巧さにおいても、今より格段上だと思います。
特に次の二点を考えれば、「現役最強が常に史上最強」など戯言にすぎません。
第一に、車も自転車もなく移動は徒歩、粗食だが栄養学的には今よりバランスのいい日常生活環境。
そういう時代環境の方が、現代人より遙かに頑健な肉体を創ります。最近新聞で、今の力士の体脂肪率は異常に高すぎると報じていました。昔の力士の体脂肪率は驚くほど低かったそうで、今の力士、明らかに無駄に太りすぎです(だから膝のケガが多い)。
第二に、荒々しく野蛮な、一見不合理に見えて実は合理的な練習環境。
それこそ死と隣り合わせのしごきが常態で、一日百番稽古などという、今では信じられない稽古量。しかも、多少出血しても、「血が出るくらいなら生きてる証拠だ!」(初代若の花談)と怒鳴られ、失神するほどぶんなげられるめちゃくちゃさ。
でも、だからこそ、ただでかいだけのヤツはすぐに壊され(不具になろうと「本人が悪い!」でかたづけられ、泣き寝入りの世界です)、素質があって根性があり、生まれつき頑丈なヤツだけがサバイバルし、強靱な肉体と精神を持った、技もバツグンに切れる力士に育ちます。
特に、初代若の花の上手投げの切れなど、そういう地獄の稽古からしか生まれなかったでしょう。まさに[不合理の合理]とはこれを言います。
そんな時代の横綱を、今の横綱と比べる方がどうかしています。私など、ボクシングほど相撲には興味がありませんが、初代若の花のビデオを見て、その技の豪快な切れ味に戦慄しましたよ。
ただお断りしておきますが、私は、今の横綱を貶めているのではありません。だから、たとえば貴の花の素質なら、昔の地獄の稽古をくぐり抜ければ、双葉山の時代でも三役以上までいくと考えます。
世間には、陸上などと同じように考えて、「現役最強が常に史上最強」という方は多いと思います。
しかし、その意見は、体育競技の中のボクシングの位置を、をきちんと歴史的に見ていない気がします。
あくまで私見ですが、1950後半から〜70年代は、前近代的な荒々しく野性的な時代性と、ボクシング技術の向上が、絶妙にクロスした真のボクシングの黄金期だと思います。
これは、黒人や中南米の名チャンプたちの活躍によります。
だから、いくら頑健でも、まだスポーツとしてのボクシング技術が発展途上だった20世紀初頭の名チャンプは、60年代の名チャンプに勝てないでしょうし(現行ルール試合という仮定の下で)。
逆に90年代の名チャンプも、60年代の名チャンプに勝てるなどとは簡単に言えないと思います。(ウィラポンなど論外。ただしロペスはグレートだ!)。
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2
以上がわたしの投稿である。いまあらためて読み返してみると、貴の花の評価が低すぎるかなあと思わないでもないし(実際そういう批判を受けた)、ボクシングを俎上に載せた「今昔比較論」また格闘技一般論レベルでの「今昔比較論」としては、これではまったく不十分である。しかしながら、相撲の「今昔比較論」としてならば、これで完全に正解だと思っている。
この「今昔比較論」のキモは、
@ 「相撲の場合、技も練習方法も、かなり古い時期にほぼ完成している」
という前提条件を提示しているところである。この「前提条件」ゆえに、
A 「いわゆる科学的トレーニングが入り込む余地などない」
のである。この点が、陸上、水泳、体操などの競技との決定的な違いである。
「科学的トレーニング」といえば一般的に、精密機器を用いたり数量的なデータを駆使したりというレベルで考えられているが、精確には<自然科学的発想に依拠するトレーニング>という意味である。器機を使うか否かではなく、<自然科学的発想>に依拠しているかどうかが問題である。
(体操などは、別に精密機器を使わずとも、この<自然科学的発想>に依拠してより難易度の高い技を開発している。この点は「今昔論」においては極めて重要な論点であり、別稿「拳闘における技倆の問題 ― 拳闘の技倆と恋愛力の或る共通性 ―」で述べることにする)
陸上や水泳あるいは体操などは、「科学的トレーニング」の進歩とともに、技術水準が向上し続ける競技である。したがって、「今の選手>>>>昔の選手」(現役最強が常に史上最強)となる。
しかし、相撲の場合、@の「前提条件」ゆえにA「科学的トレーニングが入り込む余地」がほとんどなく、そして、「科学的トレーニングが入り込む余地」がないがゆえに、
B 「最高の強さと巧さを身につけたかったら、昔ながらの技を、昔ながらの稽古で錬磨することがベスト」
ということになる。相撲は、歴史的に完成した古色蒼然たる稽古法を、ひたすら質・量ともにこなすことで強くなる競技なのであり、時代情況というファクターを考えれば、総体的にみて「昔の力士>>>>今の選手」とならざるをえない(「現役最強が常に史上最強」とはならない)。
昔は、人間性を無視した「地獄の稽古」で、しかも年二場所制である(もっと昔は年一場所十日の興行で、川柳に曰く、力士は「一年を十日で暮らすいい男」なのである)。
そんな年二場所制の時代に「地獄の稽古」をサバイバルし、じっくり腰を据え徹底的に鍛えに鍛えた力士の方が、今の力士より強くて巧いにきまっているのである。
しかし、世間一般では、格闘技を陸上や水泳、体操などと同じレベルで捉え、“格闘技もまた時代とともにトレーニング方法も技術も進歩していく。だから今の選手>>>>昔の選手”という単純素朴な「現役最強が常に史上最強」論がかなり流布しているようである。
わたしも高校時代、他校のOBに「木村政彦と山下泰裕はどっち強いっすかねえ?」と尋ねると、「そんなもん、山下にきまってるだろ。昔より今の方が体も大きくてパワーも技術も比較にならないんだから」と言われ、直観的に「そりゃ違うんじゃ?…」と思ったことがある(ちなみに、三船久蔵の甥御さんに「名人の器」「足技だけなら三船の再来」と言われながら早々と柔道を辞めてしまったわたしの父親は、「どっちが勝つかはどういう条件ルールで戦うかによる」と電話で言っていた)。
若い相撲ファンの間には、“双葉山など今なら幕下”などという議論があるらしい。そういう単純な「現役最強が常に史上最強」発想で、“ファイティング原田など、今の時代なら世界チャンプは無理”みたいな議論を読むのは不愉快だなぁ…という思いで、一石投じたわけである。
わたしの投稿に対しては賛否両論だったが、年季の入ったボクシング通で世界有数のボクシングビデオコレクターの方から、賛意を表して戴いたのは嬉しかった(これが縁でオフ会でもご一緒し、マニア垂涎の貴重なビデオをプレゼントして戴いたのはもっと嬉しかった)。
3
さて、相撲は以上のような議論で良いとして、では相撲以外の他の格闘技、ボクシングの場合はどうだろうか?…。
ボクシングを俎上に乗せて、「昔の選手と今の選手では、総じてどちらが強いか?」というような「今昔比較論」を述べる場合には、「トレーニング方法の進歩と技術の向上」が、今の選手と昔の選手のそれぞれの「強さ」にどう影響しているのか?…具体的に論じなければならない。
しかし、わたしが投稿した文章は、「トレーニング方法の進歩と技術の向上」の問題を論じることなく、「相撲を俎上に乗せた今昔比較論」がそのままボクシングにも当て嵌まる…と取られかねない内容になっている。
しかも、「昔の時代情況」を単純に「肉体的な頑健さ」とか「精神面の強さ」の問題と繋げて論じているから、これでは、“昔の方が強かったと懐かしむ懐古主義だ!”という反発を招いてしまう。もちろん、わたしはいまでも、
「1950後半から〜70年代は、前近代的な荒々しく野性的な時代性と、ボクシング技術の向上が、絶妙にクロスした真のボクシングの黄金期」
「いくら頑健でも、まだスポーツとしてのボクシング技術が発展途上だった20世紀初頭の名チャンプは、60年代の名チャンプに勝てない」(「伝説の王者達は強かった」という単純な懐古趣味は通用しない)
「逆に90年代の名チャンプも、60年代の名チャンプに勝てるなどとは簡単に言えない」(「現役最強が史上最強」とは必ずしも言えない)
と思っている。
ヘビー級を例にとってみれば、巨大な恐竜の如き戦いぶりだったヘビー級の世界に、モハメッド・アリが登場することでファイトスタイルが変わり、「蝶のように舞い蜂のように刺す」アリのフォロワーたちが大量に登場した。
そんな「アリ革命」以降の時代に、タイムマシーンでジョン・L・サリバンやボブ・フィッツシモンズを連れてきてリングに上げても、ちょっと勝負にならないだろう。昔と今ではスピードが違うのである。
しかし、80年代以降のボクシング技術の向上は、「アリ革命」のような劇的なものではない。その向上プロセスはより緩慢であり、その技術変化の内容自体も、よりマイナーチェンジ的である。
陸上・水泳・体操では、例えば、ミュンヘンオリンピックのマーク・スピッツ(七個の金メダル七つの世界新)をタイムマシーンで現代に連れてきても、オリンピックはおろかインターハイですら勝てない。しかし、ボクシングの場合、1950年代後半から〜70年代の名王者たちをタイムマシーンで現代に連れてきたとして、「ちょっと勝負にならない」などということは、まず絶対にありえない。
わたしは、オリンピック金メダリストでフライ級無敵を誇ったパスカル・ペレスの短い映像(白井、矢尾板、米倉戦)を見たことがある。全身ゴム鞠の如き躍動感と曲芸師的な身軽さに眼を瞠ったが、もっと驚いたことには、白井義男戦時のペレス、なんとミニマムウェイトなのである。彼に勝てる王者は、現在のミニマムにはいそうにない。
ヘビー級に至っては、1960〜70年代こそがまさしく「真の黄金期」であって、タイソン以降全体的にレベル低下した観のある90年代以降のチャンピオンたちでは、全盛期のアリには勝てないだろう。実際、復活した70年代の化石フォアマンに、科学的トレーニングを積んだホリフィールドが手こずり、マイケル・モーラーはワンパンチKOを喰らってしまった。同じく復活したホームズもまた、老骨に鞭打ち90年代のリングでそこそこやれたのである。
「時代の進歩が強い弱いをきめるんじゃない。その時代の中の個人が強いか弱いかだ」という趣旨の投稿をした人がいたが、「1950年代後半〜70年代」のグレートたちと現代を比較するという条件下においては、その意見が一番正しいということになるだろう。