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フライシャーvsジェイコブズ論争に寄せて
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フライシャーvsジェイコブズ論争に寄せて
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ボクシングファンは、「誰が史上最強のボクサーなのか?」という議論が大好きである。
もちろんボクシングに限らずどんなジャンルの競技でも、「誰が史上最高なのか?」という議論はある。「史上最高の投手は誰か?…沢村か、金田か、稲尾か、池永か、尾崎か、江夏か、松坂か?」「西郷四郎と三船久蔵はどちらが強いか?…木村政彦と山下泰裕では?」「双葉山と大鵬では?」etc…。
しかし、ボクシングファンほどこの種の「史上最強」議論に熱中するスポーツファンはいないのではないかと思う。
ボクシング専門誌は、ほかのスポーツ専門誌と比べ「史上最強は誰か?」論や往年の名選手を回顧する記事の比率が高い。アメリカのボクシング専門誌「リング」などでは、数年サイクルで各階級の「オールタイム・ランキング」がまめに改訂され続ける。かつては、「リング誌」創設者・ナット・フライシャーと、世界的なボクシングフィルム蒐集家のジェイコブズの間で熾烈な論争が繰り広げられた。各階級の史上最強を論議するに止まらず、「パウンド・フォー・パウンド最強は誰か?」なんて問いを設定するのは、あまたある体重別競技の中で、ボクシングだけだろう。
こういう「史上最強は誰か?」論議は、陸上や水泳などでは絶対に成り立たない。陸上・水泳では「現役最強が常に史上最強」なのであって、これは時代とともにトレーニング方法が進歩し、その進歩とともに技術が向上し、その向上が記録・数字として歴然と現れるからである。
「マラソン史上のMVP、最も価値ある偉大な選手は誰か?…ザトペックかアベベか?…」という問い(実力のレベルではなく、歴史的価値・後世への影響・貢献度などを論じる)なら成り立つが、「史上最強・最高は誰か?」という議論など、そもそも問いとして成立しようがないのである。
これに対してボクシングはどうか?…。
「ボクシング史上最強は誰か?」という議論になると、必ず「昔のグレートたちを今の王者の上に置く」傾向の論者と、「そんなのは単なる懐古趣味だ」と反発する論者が対立する。有名なフライッシャーvsジェイコブス論争がそうだった。
フライシャーの意見。
「わたしはこの眼で、ジャック・ジョンソンからデンプシー、ジョー・ルイス、マルシアノ、カシアス・クレイまで見てきた。その私の眼から見て、ヘビー級史上最強はジャック・ジョンソン。彼はボクシングに必要なすべての技術を完璧にマスターしていた。攻撃・防御・リングジェネラルシップを含めたボクシング技術全般において、彼に勝るヘビーウェイトはいない」
ジェイコブズの意見
「貴方の主張は単なる懐古趣味に過ぎない。記録映像を見れば一目瞭然である。われわれは、ベニーレナード登場以前にコンビネーションブローなど見ることも出来なかった。ボクシングもまたアメフト同様、時代とともに、より強くより速くより巧くなっているではないか!」
おそらく、ボクシングファンに限らず、おおかたのスポーツファンは、ジェイコブズの主張に組みするのではないかと思う。
この論争を紹介したジョー小泉氏(『ボクシング賛歌』)も、断定的な言い方はしていないが、「ジョー・ルイスをビデオを見ると、その無類の強さに感嘆するが、その後にアリの試合を見ると、ルイスはとてもスローに見える」と述べ、ジェイコブズ寄りのコメントをしていた。わたしも、ジャック・ジョンソンがアリに勝てるとは思わないし、<その限り>ではジェイコブズを支持したい。
しかしながら、ジェイコブズの主張通り、ボクシングが時代とともに練習方法も技術も進歩しているとしても、それを絶対的な根拠にして、ボクシングも陸上や水泳のように「現役最強が常に史上最強」論が成り立つと、単純に言い切れるものではない。そういう意味では、フライシャーの主張を、単なる「懐古趣味」と切り捨てることはできないのである。
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「歩くボクシング辞典」フライシャーの博覧強記は有名で、デンプシーの伝記をなんの資料もなしに旅先のホテルで書き上げたという。自分の見た全試合を、その細部に至るまで記憶していたともいわれている(淀川長治みたいだ)。
そんな彼のオールタイムランキングは、どの階級のトップも二十世紀前半の選手ばかりである。ヘビー級は初代黒人王者ジャック・ジョンソン、ミドル級はミシガンの暗殺者スタンリー・ケッチェル、ライト級は左の魔術師ベニー・レナード。これでは懐古趣味と言われても仕方がない。ケッチェルがレイ・ロビンソンに、レナードがロベルト・デュランに勝てるだろうか?…(しかし留意すべきは、ベニー・レナードとデュランの双方を育てた伝説的トレーナーのレイ・アーセルは、「レナードの方がデュランより強い」と証言している事である)。
フライシャーのランキングは、「歴史的価値・後世への影響貢献度」を加味した「史上のMVP論」なのだろうか?…。どうもそうではなさそうである。彼は「ボクシング技術全般においてジャック・ジョンソンに勝るヘビーウェイトはいない」と明確に言い切っているからだ。
では、フライシャーのランキングは、昔の選手の肉体的な頑健さや精神的なタフさが、今の選手の技術を上回るという主張なのか?…。
ジャックジョンソンの身体能力は、筋力心肺機能ともに驚異的な数値を記録しまさに「肉体の奇跡」と言われたそうである。フィルムや写真で見る彼の身体は均整が取れ美しく、強靭で柔軟で運動神経の塊という感じである。タイムマシーンでジョンソンを現代に連れてきて、現代のテンポアップしたボクシングに対応するべくトレーニングしてリングに上がれば、もの凄いチャンピオンになるだろう。
だが、「ジョンソンはボクシングに必要なすべての技術を完璧にマスターしていた」という言い方を見る限り、どうもそういう身体能力レベルの話でもなさそうなのである。
フライシャーとて、「アメフト同様ボクシングもまた、時代とともに練習方法も技術も進歩している」というジェイコブズの主張そのものを、否定はしないだろう。しかしそれでも「ボクシング技術全般」において、ルイスよりもアリよりもジョンソンの方が上だと、「歩くボクシング辞典」は言うのである。
わたしは、フライシャーとジェイコブズの主張を読み比べながら、あることに気付いた。
フライシャーの言う「ボクシングに必要なすべての技術」と、ジェイコブズの言う「技術」は、重なってはいるが、実は別の<次元>のものなのである。
結論から言うと、ジェイコブズの場合、われわれが日本語で「技術」という言葉を耳にしたとき、一般的に思い浮かべる<技術>(「凄いテクだよなあ」というような)レベルで「ボクシングの技術」を語っている。
しかしフライシャーの場合、おそらく、われわれが「技術」ではなく「技倆」という言葉で表現したくなるようなレベルの<技術>(「単なるテクを超えた技術」というか「単なる個々の技術的諸要素に還元できないレベル」みたいなもの)を語っているのではなかろうか?
これは、ジェイコブズが<スポーツ>としての<ボクシング>の<技術>を問題にしているが、フライシャーは<格闘技>としての<拳闘>の<技倆>を視野に収めている…と言い換えてもいいだろう。
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ジェイコブズは、ボクシングを「アメフト」と並べて「時代とともに練習方法も技術も進歩している」と述べている。彼は、「アメフト」を例に持ち出すことで、ボクシングとアメフトをどちらもスポーツ一般レベルで並列し、スポーツ一般のトレーニング方法も技術も「時代とともに進歩している」と論じているのである。
たしかに、ボクシングのような格闘技にも、陸上やアメフトと同様「時代とともに練習方法も技術も進歩する」という側面がある。だから、科学的トレーニングの進歩に合わせて、よりパワフルに、よりスピーディに、よりスキルフルになり、時代的に<技術>の向上が見られる。
その限りでは、ボクシングの「技術」というものを、陸上やアメフトと同じレベルで、スポーツ一般のレベルで語るジェイコブズは間違っていない。
しかし、ボクシングのような格闘技の場合、そのトレーニング方法の進歩は球技に比べより緩慢であり、その技術変化も、よりマイナーチェンジ的である。さらに、陸上・水泳・体操などの競技の日進月歩的技術向上と比べてしまえば、トレーニング方法も技術もほとんと変化なしとさえ言えるほど、スローテンポである。
その理由は、ボクシングのような格闘技の場合、陸上や水泳や体操のように、「科学的トレーニング」でよりパワーアップ・スピードアップ・スキルアップし、そのパワー・スピード・スキルがそのままストレートに競技の<実力>に反映するわけでない、からである。
これは、ボクシングの格闘技としての<本質>から大きく規定されている。
現代では格闘技もすっかりスポーツ化し(日本の古武道などを除く)アメフトや陸上と同じスポーツと見なされている。ジェイコブズもあっさりとアメフトなどと並べて論じている。
だが、<本質>的なレベルで厳密にいえば、ボクシングはスポーツではない。
ボクシングは格闘技であり、そして、格闘技は<本質>的にスポーツではないのである。
ここで「本質的に異なる」と言うのは、格闘技と球技では、そもそもの歴史的起源が違い、その本来の<目的>がまったく異なっているという意味である。
これは格闘技と球技を、英語で考えてみればすぐわかる。「野球をする」はplay baseballであり、「柔道をする」はdo judoである。play judoとは言わない。
理由は単純である。柔道はplay(遊ぶ)ためのものではないからである。ボクシングもまたplay(遊ぶ)するものではなくfight(戦う)である。
球技は<本質>的に遊技(play)であり、得点を競い、タイムアップまでに高い得点を上げた方が勝ち、あるいは規定の得点に達した者が勝ちというスポーツである。
これにたいして格闘技は、<本質>的に非遊技=戦闘(fight)である。歴史的にみれば、敵手(相手)を打倒し必要とあれば敵手(相手)を殺す戦闘技術、敵手(相手)から己の身を守る護身術として始まったのである。
したがってスポーツ化した現在でも、その<本質>に規定されて、<勝負の在り方と試合の形式>が、他のスポーツとは根本的に異なっている。
格闘技は、球技の如く<敵手(相手)と得点を競い勝敗を決する>ものではないし、陸上や水泳のように<敵手(相手)と平行(併走・平泳)しながら競い合う>ものでもない。<生身の人間同士が直接的に対峙・激突し、あるいは武器を持って戦い、敵手(相手)を打倒して勝敗を決する>ものである。
ボクシングというのは、たとえスポーツ化したとしても、その本質は格闘技でありfightであり、「ボクシングというスポーツ」ではなく<格闘技としての拳闘>という呼称が、その<本質>に相応しい競技なのである。
この<格闘技としての拳闘>(fight)の<実力>というのは、単なるパンチの強さ、フットワークの速さ、コンビネーションブローの多彩さというような諸要因で決まるものではない。
威力のあるパンチも、速いフットワークも、多彩なコンビネーションブローも、単独でそれ自体存在しているものではなく、
《敵手(相手)との直接的な対峙・激突という<絶えざる攻防の流れ>の中でしか<発揮>されない》
からである。
「科学的トレーニング」で身体能力をアップさせ、よりパワフルによりスピーディになったとしても、そのパワーもスピードも、現実の<敵手(相手)と直接対峙・激突する絶えざる攻防の流れ>の中で生かさなければ、なんの意味もない。
ボクシングの<技倆>(実力)は、パンチの強さ速さ・フットワークの巧さ・コンビネーションの多彩さというような個々の技術(要素)ではなく、その技術を<有機的に統合する>というレベルの<技倆>、すなわち
《敵手(相手)との直接的な対峙・激突という<攻防の流れ>の中で、空気を読むが如く相手の動きを読み、呼吸を計り間合いをつくり、攻めては引き、引いては攻め、相手の弱点を見抜き、ひとたび勝機とみるや徹底的に弱点をつき攻めて攻めて攻め落とすという、<相手と対峙・激突する中で攻防の流れを創り、攻防の流れそのものを支配していく>という勝負の技倆》
である。
ボクサーの力量を決定づけるのは、この<攻防の流れを創り、攻防の流れを支配していく>中で駆使し、相手を打倒する<総合的な勝負の技倆>なのである。
だからこそ、よりパンチが弱く・よりスローモーで・よりコンビネーションの組み立てが単純なボクサーAが、個々の要素では勝るボクサーBを、ボクシングの<総合的技倆>において凌駕し(1プラス1が2にならず3にも4にもなる)打倒することがありえるのが、格闘技でありボクシング(拳闘)なのである。
では、このようなレベルの<技倆>は、どのようにして培われるのか?…。
<相手と対峙・激突する中で攻防の流れを創り、攻防の流れを支配していく>レベルの<勝負の技倆>は、個々の競技者が、実際に「敵手(相手)との直接的な対峙・激突という<絶えざる攻防の流れ>」の中に身を置くこと、すなわち昔ながらの実戦形式練習(スパーリング・乱取り・ぶつかり稽古など)を徹底的に積み重ねること、なによりも、敵手(相手)との<真剣勝負>の修羅場を潜ることによって、養成しえるものである【補注1】。
これは、20世紀前半のボクシング界も21世紀の現在も、基本的には変わらない(将来どうなるかはさておき)。そういう意味では、ボクシングの<実力>を磨く練習方法というのは、実は<昔も今も、そんなに劇的に違うわけではない>のである。
ということは逆に言えば、こういうレベルの<技倆>というのは、単純な筋力アップとかスピードアップとは違い、科学的トレーニング(正確に言えば<自然科学的方法と発想>の適用。この点は別稿で述べる)では養成し難く、科学的トレーニングの時代的進歩とともに単純に向上するなどとは簡単に言い切れない、ということにもなる。
ボクシングは、<生身の人間同士が直接的に対峙・激突し、あるいは武器を持って戦い、敵手(相手)を打倒する>格闘技であり、その格闘技としての<本質>からいって、その<勝負の在り方と試合のかたち>が陸上・水泳・体操などのスポーツとは異なり、<勝負の在り方と試合のかたち>が異なるがゆえに、そのトレーニング体系に占める「科学的トレーニング」の比重と意義が異なっている。ボクシングは、その格闘技としての<本質>からいって、球技や陸上などのように「科学的トレーニング」で日進月歩とはいかないのである(この点は別稿で述べる)。
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このように見ていけば、フライシャーとジェイコブズの論争が、「スポーツ」としてのボクシングの<技術>と「格闘技」としての拳闘の<技倆>という、異なるレベルで古今のボクサーの<力量>を捉え、噛み合うことなく議論していたことがわかるだろう。
ジェイコブズは、ボクシングを「アメフト」と並べることで、スポーツ一般として捉え、スポーツ一般のトレーニング方法も技術も「時代とともに進歩している。だからボクシングも…」という論じ方である。
しかし、フライシャーの場合は、彼自身は明確に述べてはいないが、格闘技の本質がplayではなくfightであり、このfightの実力というのは、他のスポーツみたいに、「科学トレーニングの進歩すなわち技術の向上」なんて単純なもんじゃない、と考えていたのではないかと思う。
格闘技としてのボクシング(拳闘)fightの実力は、科学的トレーニングでレベルアップするような単なるフットワークの速さ、単なるコンビネーションブローの多彩さというようなレベルの話ではない。ボクシングの場合、単なるパワー、単なるスピード、単なるスキルの差が、そのままストレートに競技者の強弱、fightの実力差に反映するわけではないからである。
「ジョンソンはボクシングに必要なすべての技術を完璧にマスターしていた。ボクシング技術全般においてジョンソンに勝るヘビー級はいない」という主張は、個々の技術的諸要素というレベルではなく、<個々の技術的諸要素を有機的に統一する総合的な技倆>というレベルにおいて、「ジョンソンがベストだ」と言いたかったのではないだろうか?…。
たしかに、フライシャーのオールタイムランキングを見れば、濃厚な懐古趣味を感じないではない。しかし、ボクシングをアメフトと同じスポーツレベルで考えるジェイコブズの単純な発想よりも、フライシャーの方が、格闘技のfightとしての本質にきちんと向き合い、「ボクシング」というより<拳闘>と呼ぶ方が相応しい<格闘技としてのボクシング>の本質に、触れているのではないか?…という印象を抱いている。
格闘技のfightの本当の実力は、生身の人間同士が、直接真正面から対峙・激突し、その<絶えざる攻防の流れ>の中でしか会得できないものであり、それは20世紀前半であろうと現代であろうと変わらない。
そして、<勝負の技倆>が、敵手(相手)との<現実の攻防>の中で、個々の選手がそれぞれ<真剣勝負の積み重ね>において会得するしかないということは、その<技倆>の高低が、<選手個人の個々の素質と経験>に負うところが大きいということになる。
ホセ“マンテキーヤ”ナポレスの見切りの神技とバター(マンテキーヤ)の如き滑らかな攻防一体の動き、ロベルト“マノ・デ・ピエドラ”デュランの接近戦での超人的な攻防の妙技、“シュガー”レイ・レナードの勝機を掴む天才的な戦術眼・勝負勘も、「科学的なトレーニング」を積んで身に付けたというよりも、ナポレス個人、デュラン個人、レナード個人の<個々の経験>が生み出したものであり、そうであるがゆえに、彼らの<技倆>の高低は、彼らの<素質>に大きく規定されている。
そのためボクシングのような格闘技では、その<素質と経験>においてずば抜けた天才的個人をタイムマシーンで現代に連れてきて戦わせた場合、その<個人の力倆>が時代的な制約を超え、科学的トレーニングを取り入れた現代の選手に勝る可能性はある。しかも、野蛮な荒々しさを残した時代のボクサーの方が、ナチュラルな野性味と精神的なタフさでは上だろうから、そういうファクターも無視できない。
陸上・水泳・体操などでは、例えばタイムマシーンでアベベを現代に連れてきてオリンピックに出場させたとして、「オリンピック二連覇の豊富な経験」を発揮して優勝…なんてことは絶対にありえない。
しかし、ボクシングの場合、タイムマシーンで「拳聖」‘シュガー’レイ・ロビンソンを連れてきてリングに上げ、「二階級制覇とミドル級五度戴冠の豊富な経験」を発揮して元祖‘シュガー’レイが二代目‘シュガー’レイを打倒し再びウェルター級王者に!…なんてことも十分あり得るわけである。
3に続く