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現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題




  現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題


(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―

(2)現代中国論は「なぜ中国を好きか嫌いか」の自己分析から始まる

(3)中華思想から現代中国を押さえることの<方法>論的問題点

(4)「華夷秩序」の<形式>だけを抽象化・抽出してはならない

(5)香港「一国二制度」は単なる「グレーゾーン」の問題ではない

(6)チベット“解放”の政治思想的<重み>

(7)われわれにいかなる「チベットへの寄与」が可能か?



【補注1 現代中国という奇妙な《イデオロギー的中華帝国》 】




(2)現代中国論は「なぜ中国を好きか嫌いか」の自己分析から始まる


最近『週刊現代』を立ち読みしていると、「中華思想の骨法が分かれば中国は御しやすい」という短文が眼に入った。書いたのは内田樹という人である。
わたしはこれまで内田氏の著書も論文も読んだことがなく、どういう分野の人なのか、どんな業績があるのかまったく知らなかった(「中国通」とのこと)が、「中華思想の骨法」が「分かれば」中国は「御しやすい」というタイトルと「中華思想の骨法」の例証に「チベット独立」問題を取り上げていることにかぁ〜ッとして筆誅をくわえんと文章を書き、極少数の友人に文章を送付した。するとそのうちのお一人から、内田氏にはホームページがあると教えて頂いた。

http://blog.tatsuru.com/2008/04/21_1447.php

早速閲覧すると、「中国が『好き』か『嫌い』かというような話はもう止めませんか」という記事に、その文章の全文が載っていた。「中華思想の骨法が分かれば中国は御しやすい」というタイトルは編集部がつけたもので、元原稿は「中国との付き合い方」だそうである。また、HPで「中華思想の本義」を説いた箇所には、その例証として「チベット独立」問題に言及した箇所があったと記憶しているが、HPにはなかった(立ち読みの悲しさ記憶違いかもしれないし、編集部がかってに書き加えたのかもしれない)。
HPから、内田氏の文章の趣旨にあたる部分を引用しよう。


------------------------------------------( 引用開始 )--------------------------------------------


今、中国政府の政策を批判している方々のロジックは煎じつめると「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない。 だが、そんなことを言っても何も始まらないと私は思う。私からのご提案は、「私たちとは違う中国人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、中国人を操作する工夫したらいかがかということである。


------------------------------------------( 引用終了 )------------------------------------------


わたしもこの「提案」にはまったく賛成である。だが、ちょっとまって欲しい。
「中国政府の政策を批判している方々」は、ほんとうに「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」と「繰り返し言」っているのだろうか?…そもそも、「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」と言うことは、どこがどう間違いだというのか?
内田氏は、「中国が『好き』か『嫌い』かというような話はもう止めませんか」とも言う。「好き嫌いで外交方針を起案するような愚かなことはいい加減やめたらどうか」とも。おそらく氏は、「中国大嫌い!」という声に辟易しているのだろう。その声が嫌中反中の世論となって政府の対中政策に悪い影響が及ぶことを危惧なさっているのであろう。
だが、ほんとうに、今の中国を批判非難する多くの日本人が、「中国が『好き』か『嫌い』かというような話」のレヴェルで中国を批判しているのだろうか?
わたしは内田氏の言い方はちょっと違うのではないかと思う。某巨大掲示板あたりで「支那畜氏ね!」とか「不逞支那人放逐!」「1000げっとしたら支那崩壊」などと書き込んで溜飲を下げてる人たちでさえ、その大半はけっして単純に「好きか嫌いか」で動いているわけではないだろう。
わたしはむしろ、「中国政府の政策を批判している方々」の「ロジック」=「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」、中国批判者=中国が「嫌い」だから中国を批判する奴ら、程度にしか理解できていない内田氏の方が、おかしいのではないかと思う。





戦後、日本人の多くは、おおむね中国に好意的な眼差しを注いできたといえるだろう。
その根底には中国文化への憧憬もあるだろう(中国史は雄大怒濤の人間ドラマであり、歴史を織りなす人間たちの善悪美醜真偽の振幅の大きさは日本人のスケールには収まりきれない)。また先の大戦の贖罪意識もあったろう。
日本の政官財は基本的に親中であり(小泉前首相曰く「私は親中派ですから」)、大手新聞テレビは日中友好が社是といってもいいほどで、大手新聞テレビは中国絡みで本当にヤバイネタなどまず絶対に報じない。一国のリーダーが、隣国の、それも共産党の支配する国の公安関係の女と懇ろになったら、欧米諸国ならそれこそ超弩級の一大スキャンダルだが、橋龍の政治生命を断つまで追求もせずうやむやにしてしまった。
しかし近年、その日中友好ムードが変化しつつある。これはなにも「日本軍国主義の復活」だとか、「危険な復古的ナショナリズムが急速に日本人に蔓延しつつある」などという大袈裟な話ではないと、わたしは思う。
日中関係の進展とともに現代中国の情報量も増えた。日中友好にとっては都合の悪いマイナス情報も当然多く出回るようになった。日中友好が社是の大手新聞テレビもさすがに報じないわけにもいかなくなってきている。別にサヨクでもなんでもない普通の日本人が、マスコミ媒体やネットが伝える現代中国の諸相を目の当たりにし、とりわけ日本の利害国益に関わる諸問題を突きつけられたら、強烈な嫌悪と反感を覚えるのは、これはもう自然の理というものである。
チベットでの暴虐をどうどうと正当化し「これは人民戦争だ!」などと開き直ったり、台湾に脅しをかけたり、南沙諸島でおもいきり手前勝手な領海主張したり(わたしは中国が主張する領海ラインを見て、そのあっぱれなほどのズ〜ズ〜しさはいっそ痛快であった)、とくに日本の利害に関わる問題で、「尖閣は中国のものだ!」などと主張したり、外務省の中国駐在職員にハニトラしかけて自殺に追い込んだり、メタミドポスは袋の上から中の餃子に浸透したなどと荒唐無稽を主張する姿をみれば、悪いイメージしか持ちようがない。また持たない方がヘンである。
だからわたしは、内田氏のように「中国が『好き』か『嫌い』かというような話はもう止めませんか」などと言うつもりはない。日本人が中国を「嫌い」なら「嫌い」でそれはそれでしょうがないのである。
ただし、単に「嫌い」というのにとどまっていてはならない。なぜ「嫌い」なのか?…その「嫌う」理由原因を徹底的に見極めるという、自己分析を押し進めること抜きには、現代中国は語れない。
現代中国の「御し方」にしろ「付き合い方」にしろ、「嫌」な相手がいかに「御し」にくく「付き合い」ずらいか、なぜ「御し」にくく「付き合い」ずらいのかを、きちんと見据え分析することからスタートしなければ、中国との健全な真の隣人関係はありえないと思う。





わたしは先に、「中国政府の政策を批判している方々」の「ロジック」=「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」という程度にしか理解できない内田氏の方が、おかしいと書いた。
中国政府に対して日本人が「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん!」と言うこと自体は別になんらおかしくないし、びしぃ〜と言うべきだとわたしは考えている(だいたい「中国人と同じ考え方をしない日本人はけしからん!」とガンガン言ってきてるのは中国の方なわけで、日本の場合はそういうずうずうしぃ〜押し出しがないことが、そのまま外交力の弱さに繋がっていると思う)。
ただ、われわれが「けしからん!」という怒りは、厳密正確には、「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん!」なんて矮小な纏め方をされるようなものではない(内田氏のこういう纏め方は恣意的でおかしい)。
現代中国というは、21世紀にもなるというのに、「法治」のかけ声も空しく前近代的な人治国家の内実を露呈し、“無知蒙昧なるチベット人民を解放した!”などとほざいて「中華帝国」的植民地支配と収奪を現在進行形で継続中の困った国である。この厄介な相手に対しては、二つの批判の基準・基盤・立場がありえる。

@近代的な民主主義・法治国家と自由主義社会の諸価値を基準とする批判。西側資本主義諸国の現代中国批判はまさにこれである。しかしもう一つありえるとすれば、

A<理念>ないしは「理想の原型」としての社会主義像を提示し、その<ありうべき社会主義諸原則>に照らして、現代中国など「社会主義」に非ず、チベット弾圧民族浄化など「社会主義」にあらざる蛮行として批判する立場である(注)。
われわれができることは、@の立場からする非難抗議糾弾である。すなわち、

【 近代に至る世界史の悠久の流れにおいて人類がなんとか到達した価値観」すなわち自由・民主主義・人権・主権尊重・民族自決などの諸価値の上に、現代日本人は立脚している(注4)。日本人がその諸価値を受け入れている以上、その諸価値に照らして考えれば、「日本人と同じ考え方をしない中国はけしからん!」 
自由と民主主義に照らしてチベット僧侶の平和的抗議活動への武力弾圧は「けしからん!」
人間の尊厳と人道に照らして不法不当な拘束残虐な拷問は「けしからん!」
チベット人女性に麻酔なしの堕胎手術を強制するのは「けしからん!」
他国の主権尊重・内政不干渉の原則に照らして「日本政府はマスコミの反中国的な報道をコントロールせよ」などとほざくのは「けしからん!」
自由主義市場経済(資本主義)のビジネスルール商道徳に照らして、偽ヴィトンつくったりコピー商品や毒入り餃子売りさばくのは「けしからん!」 】

こういう声を倦まず弛まずねばり強く中国に説き聞かせることは、実に大切なことなのだ。自由・民主主義・人権・主権尊重・民族自決などの諸価値は、それがどんなに内在的な限界を孕んでいたとしても、どんなに不十分であっても、どんなに形式的なものであっても、現代中国をはじめ北朝鮮、ロシア、ミャンマー、スーダンなどを批判するに当たって我々が依拠すべき<基準>なのである。
いわゆる「保守派(右)」と「革新派(左)」の相違は、この「人類が到達した価値観」を最終的に固定化されたものと考えるか、こんなものは「ブルジョワ的自由民主人権」に過ぎない」とするかにあるのだが、しかしどちらの立場の人であっても、それらの<諸価値>の基盤の上に生きていることは変わらない(注5)。
日本人がなぜ中国を「嫌い」なのか?…その「嫌う」理由原因を徹底的に見極めるということは、突き詰めれば、その<価値観>の問題に行き着くのであって、これを「曖昧」な「グレーゾーン」のままにしておいてはダメなのである。


(注4)このAの立場の現代「社会主義」批判のもっとも高質な達成は、わたしが学生時代学校の先輩の所有していたコピーを借りて読み、震えるほどの感動を覚えた吉本隆明の珠玉の名篇「ポーランドへの寄与 レーニン以降初めての社会主義構想」である(『反核異論』に収録。この本は80年代吉本隆明「情況論」の白眉といえる)。
この論文について、また世界に稀な<ヘーゲリアン・アナーキズム派>というべき吉本隆明の思想的意義と限界については、いずれ機会が有れば、「社会主義の可能性」の如何を論じるかたちで取り上げてみたいと思う。


(注5) よく「近代・民主主義・人権を疑え」とカッチョィ〜〜見得を切る人がいる。そういう人も、「近代こそが敵だ!」というノリでいながら近代的生活にどっぷり浸かり、民主主義の恩恵を享受し、人権侵害行為に晒されたら法治国家の一員たる己の権利行使として裁判に訴えたりしているわけだが。
あるいはグローバリズムに「胴が巡り目が眩み」んで「国民国家など幻想である」などとカッチョィィ〜〜く気取ってみせ、一時代前の古ぼけたアナーキズムを甦らせてしまう人もいる(そもそも国家はマルクス風にいえば「幻想の共同性」なのだから「国民国家が幻想?…それでどうした?…だからなに?」としかいいようのない話である)。
その「近代」という時代「国民国家」という<幻想>なしに、今現在我々が手にしている自由も民主主義も人権もなく、自由と民主と人権なしには<人道>もないというのが、21世紀の紛れもない<世界史的現在>の現実である。








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