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現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題
現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題
(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―
(2)現代中国論は「なぜ中国を好きか嫌いか」の自己分析から始まる
(3)中華思想から現代中国を押さえることの<方法>論的問題点
(4)「華夷秩序」の<形式>だけを抽象化・抽出してはならない
(5)香港「一国二制度」は単なる「グレーゾーン」の問題ではない
(6)チベット“解放”の政治思想的<重み>
(7)われわれにいかなる「チベットへの寄与」が可能か?
【補注 奇妙な《イデオロギー的中華帝国》の壊れがたさ 】
(3)中華思想から現代中国を見ることの<方法>論的問題点
(3)中華思想から現代中国を見ることの<方法>論的問題点
さて、わたしは現代中国がいかに「御し」にくく「付き合い」ずらい相手か、なぜ「御し」にくく「付き合い」ずらいかを、きちんと見据え分析しなければならないと述べたが、内田氏もそういうスタンスである。
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外交戦略は先方がどのような国家像をもち、どのようなコスモロジーのうちにおのれを位置づけているかを理解するところから始まる。
どのように傍目から理不尽に見えるようなふるまいであれ、たいていの場合、先方の政府や国民にとっては「主観的には合理的な根拠」がある。それを「おまえのしていることは私にはよくわからん」といくら大声で言ってみても始まらない。どうして、「そのようなこと」が先方にとっては「主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている」ように思えるのか、その判断の構造を理解しなければ、生産的な対話は始まらない。
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まったくもって仰る通りだとわたしも思う。内田氏は、そういうお立場から「中華思想の理解が緊喫の課題」と提唱される。
しかし問題は、「私たちとは違う中国人の考え方」を研究し中国人の発想の「構造を理解」する内田氏の議論が正しいのか否かである。その当否を論じる前に、「中華思想の理解が緊喫の課題」と言い、「中華思想の本義」を説くその部分を引用し検討しよう。
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中華思想というのは一種のコスモロジーである。中央に中華皇帝がおり、その周辺に「王土」が拡がり、中華の光が及ぶ範囲は「王化」されているが、中央から遠ざかると光が薄まり、「化外の民」が跋扈する「蛮地」になる。蛮地は蛮人たちの自治に委ねる。彼らが朝貢するならば、地方の王(漢委奴国王とか親魏倭王とか)の官位を与え、さまざまな下賜品を与えて帰す。だから、中華思想はナショナリズムではない。このことを覚えておこう。中華思想には「国境線」という概念がない。周縁には王土なのか化外の地なのかよくわからない「グレーゾーン」が拡がっている。
近代における日中の確執は「主権の及ぶ範囲の確定を曖昧なままにしておきたい中国」と「主権の及ぶ範囲の確定を求める日本」というスキームで推移した。台湾出兵、琉球処分、日清戦争はいずれも中国と日本が出会う周辺エリアの主権と帰属をめぐる闘争である。
(中略)
近代における日本と中国の確執は、本質的にはこの「曖昧なる宗属の関係」を分明にせんとする日本と、何があっても分明にしたくない中国の間のコスモロジーの違いから派生している、というのが私の意見である。この違いを勘定に入れないと、どうして中国人は「一国二政府」というような香港の統治形態を「気持ちが悪い」と感じないのか、どうして台湾が独立したら武力侵攻するぞと言いながら、台湾から資金と人間が流入することを「気持ちが悪い」と感じないのか、どうして日中の海底ガス田の帰属について、「決着を棚上げするというソリューションもあり」と言い出すことを「気持ちが悪い」と感じないのかが理解できない。
中国人は、私たち日本人にとってはたいへん気分が悪い「宗属関係の曖昧さ」がまるで気持ち悪くないのである。周辺に広くグレーゾーンが拡がっていることを常態とし、その帰属をはっきりさせようとするすべての企て(☆)に反対するのが中華思想の本義なのである。(後略)
(☆)『週刊現代』が手元にないので確認できないが、記事にはこの箇所に括弧で「チベット独立のような」の文言があったはずである。わたしがこの記事を取り上げようという気になったのは、この文言があったからである。しかしホームページにはない。わたしの思い違いなのか?…現時点では確認できない。
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『週刊現代』を一読しすぐに浮かんだことは、内田氏という方は「中国通」ではあっても、専門の中国史家、中国思想史家、現代中国政治・経済学者(プロパーの中国学者)ではなかろうということだった。中国史、中国思想史、現代中国政治・経済研究の専門家の場合、こういう思い切った議論の単純化はなかなかしないものである(まあ、週刊誌という媒体の性格上、また極端に制約された枚数では、こういう単純化もいたしかたない面はあるだろうが)。
たしかに内田氏の言われるように、現代中国を理解するに中華思想というのは重要である。しかし内田氏の議論を読んでいて、その単純さ・平面さ・抽象的形式性がとても気になった。
a)第一に、<方法>論的なレヴェル(根本的なものの見方考え方レヴェル)からいうと、氏の現代中国を語る基本的立場はあまりに単純・平面的である。
内田氏は、現代中国の「国家体制」と「政治思想イデオロギー」を抜きにして(視野の外において)、いきなり直接ストレートに中国人独特のものの見方考え方(中華思想)に焦点をし絞り、日中関係、現代中国の政治的軍事的諸問題、たとえば香港・台湾・尖閣というような諸問題を「中華思想の本義」から照射していく。
しかし、近代における日中間の確執にしろ、現代の政治外交軍事に関わる諸事象(香港・台湾・尖閣)にしろ、まったく歴史的背景も現実的な政治的・経済的・社会的諸条件も異なる事象を、中華思想一本でいっしょに論じるわけにはいかない。
b)第二に、内田氏の中華思想の<理論>的な把握自体が問題である。
わたしは先に、 中華思想は、それを@孔孟の教えの<世界観>レヴェルで捉えるか、それともA「漢民族=中華民族」の自民族中心主義・優越主義的<政治思想>レヴェルで捉えるかで、その印象が違ってくるが、@の理解をベースにAのレヴェルで捉え定義するという<立体的・重層的>な把握が正解である、と述べた。
内田氏は、中華思想を孔孟の教えの<世界観>レヴェルで捉え、中華思想そのものの<内容>を具体的に語るというより、「儒教的な華夷秩序の世界」の<形式>だけを、抽象的に抽き出している。すなわち「コスモロジー」という言い方で、中国本土(王土)とその周辺にぽわわ〜〜んと広がる「グレーゾーン」、さらにその外の「化外の地」という秩序の<形式>的イメージだけを抽象化し、「中華思想の本義」としている。「中華思想は『ナショナリズム』ではない」とか「国境線という概念はない」いうピントのずれた文言も、「儒教的な華夷秩序の世界」観は「ナショナリズム」ではない(あたりまえである)と言いたいのだろう(注6)。
ではなぜ、内田氏は、「儒教世界」における「王土」「グレーゾーン」「化外の地」の秩序の形式的なイメージを「中華思想の本義」として提出するかといえば、これは内田氏の根本的な立場、「中国を好き嫌いで論じるのはもうやめにしませんか?」という立場から必然化されたのである。
我々「東夷」の民からすれば、漢民族=中華民族以外の異族を「夷」などと蔑み見下す思想にイヤァ〜ッな感じのするのは、これはしょうがないと思うのだが、しかし内田氏はなるべく日本人がイヤがらないような(中国を「嫌い」にならないような)語り口で、中華思想の漢民族優越主義的でファナティックなところ(中華思想の「中華」思想たるところ)をぶっこ抜く。
ここで内田氏が問題なのは、「中華思想は『ナショナリズム』ではない」という言い方がはからずも語っているのだが、中華思想に内在する「ナショナルなもの」を脱色させて「中華思想の本義」を論じようとしていることである。
中華思想を「中華」思想たらしめているのは、儒教をベースに生みだし熟成させた漢民族のドロドロとしたマグマの如く熱い「ナショナルなもの」なのであって、これを抜きにしては中華思想を正面から<全体的>に論じたことにならない。
ところが氏はこれを抜きにして、「儒教的世界」における「王土」「グレーゾーン」「化外の地」の形式を抜き出すことで、“「グレーゾーン」をまったく「気味悪がらない」中国人の体質発想法考え方”を提示し、それをもって日中関係、現代中国の政治的軍事的諸問題を照射せんとする。
しかし後に詳しく述べるが、「グレーゾーン」を「気味悪がらない」中国人の体質発想法考え方なるものでは、「香港一国二制度」や「チベット」や「台湾」「尖閣」を正しく説明できないのである。
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わたしは、以上に述べたような内田氏の議論の単純さ平面さや「抽象的形式性」は、まさしく知識情報書雑誌系記事の特徴的なスタイルだと思う。
内田氏のホームページを読むと、「中国との付き合い方」という元原稿に「中華思想の骨法が分かれば中国は御しやすい」と付けられたとのことである。たしかに記事のどこにも「御しやすい」などとは書いていない。内田氏が怒るのも無理はない。しかしタイトルはともかく、その内容をみてみると、内田氏の語り口説明の仕方は、知識情報書雑誌系記事のそれに類似している。
『週刊現代』に限らず、たとえば『プレジデント』などの「経営に生かす『孫子』の兵法」とか「ライバルにはこう勝て! 『六滔』に学ぶ権謀術数」とかの知識情報系スタイル記事というのは、なにか一つ鮮明で強烈なタームをばんと打ちだし、それを以て諸問題を鮮やかに切り裂いていくというスタイルを取る。「中華思想が分かると現代中国が見えてくる」というが如き発想は、まさにビジネス知識情報本雑誌記事によくあるスタイル(「○○が分かれ△△が見える」「□□との付き合い方」)なのである。
内田氏の議論の問題点について、まず、a)<方法>論的なレヴェル(根本的なものの見方考え方レヴェル)から見てみよう。
中国絡みのビジネス書や知識情報書雑誌などの記事には、ある共通点がある。
それは、現代中国の「国家体制」と「政治思想イデオロギー」など複雑で七面倒くさい話にはほとんどページを割かないということである。
そういう話は捨象し(視野の外に置き)、中国人独特の物の見方考え方にいきなり直接スポットを当て、そこからダイレクトに現代中国の様々な事象を説明していく。内田氏の文章もそれと語り方は基本的に同じである。
こういう語り口説明の仕方は、中国人との商売ビジネスや経済文化交流などの付き合い方レヴェルでならば、それはそれで有意味有益であるだろう。だが、こと<政治外交軍事的>な要因を孕んだ日中関係の諸問題になるとそうはいかない。
現代中国の少数民族問題、対外政策問題のオーソドックスな論じ方を、<方法>論的レヴェル(物事の根本的考え方)からいうと、次のようになるだろう。
a)中華民族の発想法、伝統的体質など(「中華思想の骨法」も含め)からいきなり直接(無媒介に)入るのではなく、中国共産党の政治思想イデオロギー(その政治思想の正統性に関わる)をまずきちんと押さえる。
b)その上で、マルクス主義イデオロギーの中華風味付けにおいて、中国人の伝統的な発想法、思考法、体質とりわけ中華思想の特質などがどう滲んできているのか?… マルクス・レーニン主義の政治思想的イデオロギーと、中華民族の根深い中華思想的体質双方を<全体的・全面的>に検討評価した上で、中国人共産主義者が古典的なマルクス・レーニン主義をどう中華思想的体質から読み込んで(読み替えて)いったか?
そのプロセスを丁寧にみていかなければならない。
c)そしてそれが、中国の対外政策、チベット、ウィグルなどの少数民族対策、また香港・マカオの「回収」台湾への対処にどう現れてきているのか?…とらえていく。
そういう<立体的・媒介的>なアプローチが必要になる。
以前わたしは別のところで、毛沢東とフルシチェフの対立に関しておおよそ次のように述べた。
民主集中制のメカニズムは、労働者階級を指導するのは唯一無比の共産党であり、共産党を現実的に指導するのは党中央であり、党中央を主宰するのは党書記長であるという風に、ピラミッドの頂点へと権力が集中収斂していく。
このピラミッド型の権力集中は、国際共産主義運動におけるロシア共産党と各国共産党の関係に置いても現れる。ロシア共産党と各国共産党は対等平等ではなく、コミンテルンは「労働者の祖国ソ連」の擁護と防衛という名において、ソ連共産党の絶対的な指導のもとにあった。
スターリン死後の毛沢東とフルシチェフの対立・相克は、思想イデオロギー的対立・相克であるとともに、スターリン亡き後の国際共産主義運動を仕切る(その指導権を掌握する)のは中国かソ連か?…という(遺産相続争いにも似た)近親憎悪のドラマである。国際共産主義運動の盟主たるべし(スターリン同志の正統な継承者は俺様以外ない!)という毛沢東個人の強烈無比なるプライドと自負は、その精神的深部において「天に二日なし 民に二王なし」の伝統発想が脈打ち、その根深き体質と思考に大きく<媒介>されていたに違いない。
香港・チベット・台湾を巡る中国共産党の政策にも同じような捉え方ができる。
中華思想においては、対等平等な諸民族の友好関係などというものはそもそもありえない。中原を制する漢民族=中華王朝が周辺の野蛮で後れた諸異族を攘い服属させ、王化教化し文明的恩恵に浴させるという傲慢さと独善性が身も蓋もない中華思想の「中華」思想たるところであるが、この発想、実によくマルクス・レーニン主義にシンクロするのである。
マルクス・レーニン主義における民族問題処理の原則は、少数民族の民族自決権、民族の自主自立と民族的伝統文化は原則的に承認擁護されなければならない。しかしその「民族的な利益」とか「民族的な要求」などは、共産主義者の国際主義者としての連帯と団結(民族的な障壁を越えた階級的結合)の原則のもとにおいてのみ認められる。
では、チベット族が「ダライラマ法王様を活仏として仰ぎ奉りたい」などという「民族的な要求」を主張したとしようか?
もちろんそんな要求など断じて認められない。なにしろ、中国共産党が周辺の「後れたチベット民族」を、「活仏を拝む」などという「無知蒙昧」状態にしておいては、共産主義者の国際主義者としての神聖な義務(民族的な障壁を越えた階級的連帯と団結)に反するのだから。
かくして、中華人民共和国においては、中国人民を常に正しく代表し「人民が主人公の社会主義の進歩的大道」を歩む中国共産党(中華風に言えば「王道を歩む」ってやつですな)の指導を受け、チベットやウィグルをはじめ諸民族は社会主義的進歩的陣営の隊列にある(華夷秩序へと組み込み中華の文明の恵みに浴させている。ありがたい忝ないと思え!)。
だから、中華人民共和国の民族自治区というのは、ソ連共産党の民族問題処理原則に基づきソ連邦を手本にしながら、それを伝統的な「中華思想」的発想で処理したという風に捉えることができるのだ。
以上が、チベットやウィグルのような異民族支配における中国共産党の政策と「中華思想」の絡みについての<立体的・媒介的>なアプローチによるオーソドックスな論じ方である。
「中華思想」だろうが「儒教の知恵」だろうが「大陸的思考」だろうが、中国人の伝統的体質・発想法・思考法というものから、現代中国を支配する中国共産党の少数民族対策・対外政策の特質をいきなり単純ストレートに説明するというのは、現代中国とりわけ中国共産党を、
@中国人の政党=《中国》共産党
というレヴェルでしか押さえられないということである。これは逆にいえば、
A中国人共産主義者のイデオロギー政党=中国《共産党》
という理解を外に置いた議論ということである。
こういう議論からは、チベット問題に関するオーソドックスで正当な把握が出てこない。中国共産党の少数民族対策・対外政策というのは、それが中国《共産党》としての政治思想イデオロギー(もちろん中国共産党は中国人の政党すなわち《中国》共産党であるから、その中国人的体質発想からの大きく媒介的な規定性を受けている)に根ざした政策である。
先に述べたように、中国がチベット独立を断固として容認しないというのは、中華帝国としての帝国主義的実利(現実的経済的利害)と、漢民族としての中華思想的誇り矜持(観念的精神的利害)から容認し難い、というばかりではない。 中国共産党が中国《共産党》であり続ける限り、その依って立つ政治思想的<イデオロギー>からして、チベット独立(またはダライラマ14世の求める「高度な自治」)など原理原則的に認め難いということである。別に「グレーゾーン」がどうたらこうたらなんて話ではないのである。
そもそも中華民族が中華民族である限り、その長い悠久の歴史において育まれた伝統的体質・発想法・思考法は、その歴史的伝統の長さ故に、極めて<抜きがたい>ものである。この伝統的体質・発想法・思考法を、根底から変えることは容易ではない。長い悠久の歴史において育まれた伝統的体質・発想法・思考法を「抜く」というのは、中華民族が中華民族でなくすほどに至難の業であろう。
そうであるがゆえに、中国共産党の少数民族対策・対外政策を、中華民族の中華思想的伝統的体質・発想法・思考法に裏打ちされているという側面<だけ>から押さえてしまう(共産主義者という側面を捨象して)と、
その少数民族対策・対外政策を「変える」ことは、「中華民族」から「中華思想」を抜くことが至難の業であるように至難の業である、中国が中国である限り変わらない… といった類の誤った判断になりかねない。
この点は、内田氏がそういう判断を提出しているという話ではなくて、「国家体制」「政治思想イデオロギー」など複雑で七面倒くさい話を捨象し(視野の外に置き)、中国人独特の物の見方考え方にいきなり直接スポットを当てそこからダイレクトに現代中国の様々な事象を説明していく内田氏やビジネス知識情報本系スタイル(「○○が分かれ△△が見える」「□□との付き合い方」)が陥りがちな傾向的な誤謬と言うことである。
(注6)たしかに「中華思想は『ナショナリズム』ではない」。
しかしまあ、そんないいかたができるなら、近代以前的な大帝国のもとで育まれた「世界観」は「ナショナリズム」ではないわけだが。たとえばローマ帝国支配における「四海同胞主義」的展開が現実的歴史的にあってこそ、ストア派の「コスモポリタニズム」もうまれ、キリスト教も世界宗教としての普遍性を獲得し得ただろう。
そもそも中華思想が「ナショナリズム」なわけがないのは、仏教にしろキリスト教にしろ、近代以前的な国家・帝国のもとで育まれた思想・哲学・宗教である以上そうなのである。
「ナショナリズム」は近代国民国家において現実的に<顕在化>する。
近代以前的な段階では、言語・文化・宗教的な共通性を基盤とする<民族>としての意識と感情は、○○王国という一定の政治的領域秩序の形成・維持・発展の歴史過程の中で熟成されていく。その<民族>としての意識と感情は、○○王国の「国土」に生き暮らす「王民・臣民」としての観念というかたちの中で培養熟成されるのであって、それは「ナショナルなもの」というべき萌芽ではあっても、近代国民国家における「ナショナリズム」ではない。
政治学者が「ナショナリズム」の本質的な定義を論じる場合、近代以降の国民国家・民族国家を正面に据え、そこにおいて全面的に顕在化した言語・文化・宗教的な共通性を基盤とする<国民>としての意識と感情を取り上げる(この点は滝村隆一『国家論大綱』「方法としての世界史」上巻319〜339ページ「民族的独立にみる民族と国家の連関」下巻200〜202「国民国家思想と人権論」下巻266〜268ページを参照のこと)。
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