
【 時評1 虐め自殺事件に思うこと(part1) 】
【時評1 虐め自殺事件に思うこと 2007 2月3日】
機 呉智英のコラム「イジメで自殺するくらいなら」について
―暴論エンターティナーよ、シャレにならん話はさむい芸にしかならんぞ ― (以上part1)
供”要なのは対症療法:「虐め加害者」への教育的厳罰システムである
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― 虐め自殺事件は単純な「強弱」の紋切り型では論じ切れない ―
検ゝ圓瓩短劼痢崋助努力」論的発想の危うさ
―「虐めはいつの時代どんな社会にもある」…だからそれがどうした!?―
后,錣燭靴梁慮嚇無駄話(オマケ)
― 蛮勇を奮えば「失うものが多すぎる」子供たち ―
呉智英のコラム「イジメで自殺するくらいなら」について
―暴論エンターティナーよ、シャレにならん話はさむい芸にしかならんぞ ―
呉智英という面白い評論家がいます。
高校の頃から贔屓にしていて、彼の本はすべて読んでいます。理論的にレベルが高いわけでもないし思想的な深みがあるわけでもないですが、とても愉しめる「暴論エンターティナー」です。
あえて奇矯過激な「暴論」をかますことで、猫なで声の薄甘論議では絶対に視えてこない物事の根源・本質を一挙にあからさまに露出させるところに、余人を以て代え難い彼の<芸風>があります。「過激にして愛嬌あり」というやつで、彼の<芸>にはシニカルな笑いと得も言われぬ味があり、『バカにつける薬』『猿の正義』『危険な思想家』などおおいに愉しませて貰いました(「旧左翼⇒新左翼⇒珍左翼」とか「後家左翼」、あるいは佐高信を評して「繰り上げ当選左翼」といった卓抜なネーミングには大笑いしました)。
その呉智英が昨年暮れ、「産経」系ニュースサイトで「イジメ自殺」問題についてのコラムを書き、ネット上で大反響を巻き起こしました。
ネット上では「よく言った。正論だ!」という声が溢れかえるかと思いきや然に非ず。以外に冷ややかな反応が多い。これは、問題が問題だけに「無責任なこと言うな、ボケ!」という反発を喚起したということでしょう。わたしの率直な感想は、
「あ〜〜あぁ、すべっちゃってるよ呉さん」
というものです。今回の彼の<芸>は、いつものシニカルな微笑を誘う奇抜さも機知もない。猫なで声の薄甘論議では絶対に視えてこない虐め問題の根源・本質を炙り出す<暴論芸>として、成り立っていません。きつい言い方をすれば、飲み屋でおだをあげるオヤジの“毒舌芸”レベルのクオリティーです。
「よく言った。正論だ!」という賞賛も、「無責任なこと言うな、ボケ!」という反発も、呉の発言を<芸>としてきちんと受け取れていない点では同じですが、これは受け取る側の責任ではありません。今回の呉の<暴論芸>には、たしかに「シャレにならない」ところがあるからです。そして「シャレにならない」芸はさむい芸でしかありません。ここで呉のコラムを引用してみましょう。
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イジメで自殺するくらいなら
・イジメ自殺が社会問題となっている。新聞でもテレビでも識者と称する恥知らずたちが、おためごかしの助言を垂れ流して小銭を稼いでいる。イジメに苦しむ少年少女よ、あんなものが何の役にも立たないことは、君たち自身が一番良く知っている。唯一最良のイジメ対処法は報復に決まっているではないか。
実はイジメ自殺は何年かごとに社会問題となり、そのたびに真実の声が良識という名の愚論によって圧殺されてきたのだ。十一年前にもイジメ自殺が相次ぎ「少年ジャンプ」が悲痛な叫びを特集連載した。それをまとめた『いじめレポート』(集英社)にこんな声がある。
「徹底的に体を鍛えた。復讐(ふくしゅう)のために…。やられる前にやれ!」(A男)。A君は拳法、柔道で「歩く凶器」となり、イジメを粉砕した。睡眠薬自殺未遂のC子さんは、死を思う気持ちよりも「憎しみの方が強くなった」「私もガンガン殴り返す」「女でもやるときはやるんだ!」。
別の女児もこう言う。「どうしても死ぬっていうんなら、いじめた奴に復讐してからにしなよ」
学校では報復・復讐は道徳的な悪だと教える。しかし、それは嘘だ。人間が本来的に持っている復讐権を近代国家が独占したに過ぎない。大学で法制史を学べばすぐわかる。復讐は道徳的には正しいのだ。現に、ロシヤに抑圧され続けたチェチェン人は果敢に復讐をしているではないか。
被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。
(評論家・呉智英)
http://ime.nu/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/29130/
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わたしが呉のユニークな言論におもわず二ヤリとさせられるのは、その奇矯過激な主張の中味が、絶対にありえない実現可能性皆無の「暴論」だからです。
死刑廃止論者を向こうに回して、「死刑を廃止して仇討ちを復活せよ!」と訴えたり、いやいや「仇討ち」ではなく「博愛刑を!」と言う奇矯過激な「暴論」(「博愛刑」というのは、受刑者が角膜・腎臓・皮膚その他の器官を医療に供し難病患者を救うという、「博愛精神」溢れる社会貢献によって贖罪を果たす刑罰)。
そんな「暴論」をあえてぶちかますことで、「おためごかし」の人権屋のだめさ加減を、正確に照射しくっきりと浮き彫りにしていくのが、呉の「暴論エンターティナー」としての余人を以て代え難い<芸>なのです。
「仇討ち」にしろ「博愛刑」にしろ、実現可能性皆無の奇矯過激すぎる<暴論>ゆえに、「シャレにならない」ところをかろうじて免れ、シニカルで毒のある<芸>として成立しえています。
ところが今回の「イジメっ子よ、復讐せよ!」という“暴論”は、絶対にありえない・実現不可能なレベルの話ではありません。虐められっ子が、いじめっ子に復讐して殺す事件は現実に起きていることなのです。これは、
「人権の行使としての復讐権の行使」という彼の持論を、こと虐め問題においてストレートに打ち出したら「シャレ」にならず、「シャレ」にならないが故に<暴論芸>として成り立たない、<暴論芸>がシニカルで毒のある<芸>としてうまく機能しない
ということを意味しています。
呉はこのことがわからず、死刑廃止論に冷水を浴びせかけたときと一緒のノリで、「虐められっ子よ、復讐せよ!」なんて言ってる。
いうまでもないことですが、虐められっ子が虐めっ子に「復讐」する殺人事件が続発したって、虐め問題が解決するわけがありません。虐め問題を真剣に考える人たちには、そのことがちゃんと分かっているから、「シャレになんない無責任なヨタ話をするんじゃない! このバカタレ!!」と反発するわけです。
ネットでは、こういう反発に対して、呉のファンと思しき人が「みんな呉のシニカルな笑いが分からない。マジで受け取っている」と呉を擁護しています。芸人の「シャレにならない毒舌芸」に客がマジになって怒り出したとき、その芸人を贔屓にしているファンが、“お前らヤボだな、この芸のおもしろさがわかんないのか”と文句垂れてるようなもんです。そんな文句を言う方が「ヤボ」。責任は怒った客ではなく、「シャレにならないさむい毒舌芸」をやっちゃった芸人の方にあるのです。
そもそも芸人の言葉を真に受けて「正論だ、よく言った!」なんてマジで賞賛する人もまた、呉の<暴論芸>を<芸>としてきちんと受け取れていないわけで、そういう受け止められ方をされる<暴論芸>というのは、やはり<暴論芸>としてのクオリティーが低いのです。
呉の発言は、自分のこれまでの主張、「仇討ち復活論」や「近代国家批判」などの持論を主張するために、たまたま現在一番ホットで目に付く話題を取り上げ、いわば「虐め自殺」問題をダシに使っているようにしか見えません。わたしなどが呉の発言に「シャレにならなさ」加減を一番感じるのはそこのところです。
では、今回の呉の<芸>がどういう意味で「シャレにならないさむい芸」なのか?…。要点を列挙してましょう。
仝發離灰薀爐蓮虐めで死ぬほど苦しんでいる子供たちに向けて発せられたという体裁を取っています。
では、自殺寸前まで追い込まれている子が呉のコラムを読んで、「そうだ、死ぬくらいなら相手をぶっころそう!」と気持ちをあらたにするでしょうか?…。
答えはいうまでもないでしょう。「識者と称する恥知らずたち」の「おためごかしの助言」が「何の役にもたたない」のと同じく、呉の「虐め対処法」もまた「何の役にも立たない」ことは、「イジメに苦しむ少年少女」が「一番良く知っている」のです。
そもそも、相手を殺すくらいのパワーが子供にあったら、最初から自殺なんか考えません。
自殺にまで追い込まれる子供の精神状態というのはかなり異常な状態で、鬱病患者が発症初期に、僅かに残った最後の気力をふりしぼって自殺する状態に近いのではないかと思います。鬱病患者に「ガンバレ」は禁句ですが、「死ぬくらいなら復讐しろ!」という「虐め対処法」というのは、鬱病患者に「断固として戦え!」と言ってるようなものです。
虐め自殺する子も、虐める側への殺意を燃え上がらせ、ほんとうに殺してやりたいと何度も思ったことがあるはずです。でも、できない。本当に殺してやりたいけど、そんなことして<おおごと>になったら、親も哀しむし自分の人生も台無しになる。でも虐められて死ぬほど苦しい。
<生真面目で優しく良い子>、相手を殺して<おおごと>にするには<失うモノが多すぎる良い子>が、そういうせっぱ詰まった状態に追い込まれ死を選ぶんです。これを単純に「弱さ」の問題として捉えては事柄の本質を見誤る(この点は後ほど稿を改めて論じる)。
呉の「虐め対処法」など、酒場のオヤジたちが「オレ達はイジメくらいで死ぬほどヤワじゃなかったぜ!…いまのガキは弱すぎる!!…いじめっ子にイジメ殺されるくらいなら、相手を殺せよ!!!」などとおだを上げてるのと同じです。石原慎太郎や武田鉄也、上田埼玉県知事などの「イジメられる子よ強くなれ!」発想の過激変形ヴァージョンに過ぎません。
これだったら、メディアで「おためごかしの助言を垂れ流」す連中のアドバイス(死ぬくらいなら学校から逃げなよ)の方がまだ「実践的」です。
◆ 第二に問題になるのは、「いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから」という呉の発想の安直さです。
なるほど少年法がある限り、復讐者・殺人者に転じた虐めっ子は「死刑」にはなりませんし、「少年法が守ってくれ」ます。しかし、復讐者・殺人者に転落した虐めっ子など、
「少年法は守ってくれ」ても、<社会と世間>は守ってくれない
のです。虐められて追い込まれ反撃で相手を殺した子は、一生殺人者の烙印を背中に負って生きていかなければなりません。無惨な話です。
そればかりではありません。一番のポイントは、その子の親・家族の人生が悲惨なものになるということです。当然でしょう。「少年法」は、子供は守っても子供の親・家族を守らないのですから。
虐める相手を消すのではなく、ひっそりと自分を消すような子は、たいてい家族思いです。親兄弟に心配をかけたくないという純真さが、虐めを一人で背負い一人で苦しめ自分をどんどん追い込んでいく一つの大きな要因です。
「少年法が君たちを守ってくれる」という呉の発想が、虐められる少年少女だけにしかスポットを当てておらず、いかに視野狭窄なものか、こうみていけば一目瞭然でしょう。
第三に、「少年法が守ってくれる」という呉の発想には、虐められっ子が虐めっ子に「復讐殺人」をしたとき、マスコミと世間がどういう対応を取るか?(過去にどんな反応を示したか)…リアルな想像力が働いていないということです。
マスコミというのは、自分たちが報道するに相応しい弱者にしか「同情」を寄せません。自分たちに都合の良い「弱者」をみつくろうのがマスコミなんです。「虐められっ子が敢然と立ち向かい、虐めっ子を殺しちゃった」なんてストーリー、マスコミは望んでいません。
連中が欲するのは、あくまでも、一掬の涙を流すに値する可哀想な虐められっ子=典型的弱者なのであって、復讐者・殺人者に成り下がった元虐められっ子=変則的弱者なんかじゃないんです。
そんなことは、20年前の大阪での虐められッ子の凄惨な殺人事件、最近の長崎女児殺害事件をみりゃはっきりしているわけです。
「虐め自殺」続発から、「虐められっ子復讐殺人」続発へと流れが変わったとしても、マスコミの議論は、これまでの「死なない勇気を持とう!」という薄甘いお説教から、「殺すのは本当の勇気じゃない!」という遵法精神尊重のお説教に変わるだけの話です。
そして結局は、「復讐者・殺人者に転じた虐めっ子も、被害者に転じた虐めっ子も、どちらも学校・教育・社会の犠牲者なんだ」という紋切り型で事件を総括して終わるでしょう。
他方世間一般では、マスコミの“殺した方も殺された方も犠牲者”論をタテマエ的に受け入れながら、本音の部分では、もう少し加害者側にキツイ感想を胸におさめることになるでしょう。
「虐め自殺」続発のときに世の大人たちの本音は、「虐められたぐらいで死ぬことはないだろう」「やっぱ、虐められて死ぬくらいだから、弱い子だったんだよ」です。この本音は、「虐められっ子復讐殺人」が続発したら、「虐められたぐらいで殺すことはないだろう」「やっぱ、虐められて殺すくらいだから、異常な子だったんだよ」にかわるでしょう。
このようにみていけば、呉の“暴論”など、
復讐者・殺人者になってしまった元虐められっ子など、「少年法は守ってくれ」ても、<社会と世間>は守ってくれない
というシビアな現実に、かすりもしない愚論なのです。
ぁ.優奪箸任蓮呉の発言を「正論」と持ち上げる人が、虐める側が「虐めたら復讐され、へたしたら殺される」風潮ができあがり、「もしかしたら殺されるかも」という恐怖を感じたら、虐めはストップするというような話をする人がいました。
虐めの構造をきちんと押さえていなから、こういう発想になる。後ほど稿を改め論じますが、
人を自殺に追い込むほどの虐めというのは集団vs個人戦であり、虐められる側(個人)の力ではどうにもならない、虐めっ子(集団)必勝、虐められっ子(個人)必敗状態になっている。
虐める側は、集団vs個人戦における虐められっ子(個人)必敗状況下で、虐められても相手が絶対に反撃できないという<関係>を創りあげ、その<関係>を固定化した上で、ローリスクで相手を死ぬまで虐めて愉しむ
わけです。そういう連中ですから、仮にテレビなどで連日「虐められっ子復讐殺人事件」が報道されるのをみても、現実感の薄い他人事にしか感じないでしょう。
「こいつをこれ以上虐めたら、復讐されて殺されるかも」と怯え、「やっぱ虐めはやめよう」と考え現実に虐めをやめる虐めっ子など、まずいません。現実に虐めている相手の事を思い浮かべ、「あいつに反撃や復讐なんてできるわけがねえ」と納得し、他ならぬ自分たちがまさか復讐されるなんてアリエナイ…と思いながら、相変わらず虐めというローリスク・ハイリターンの愉しいストレス発散行為を満喫するでしょう。これは、テレビで連日飲酒運転事故のニュースを見ながら、自分だけはだいじょうぶと思い飲酒運転する馬鹿者と同じです。
呉の「最良の対処法」なるものは、,能劼戮燭茲Δ法虐められる側への自殺抑止の処方箋にならないばかりか、虐める側への虐め防止の抑止力にもなりえないのです。
以上、呉がコラムで述べた「最良のイジメ対処法」なるものを批判的に検討してきました。
虐め自殺問題に関心を寄せる大衆が、知識人・識者に求めるのは、悲惨な虐め問題への有功かつ合理的な処方箋、あるいは処方箋を正しく導き出せる有益なヒントです。しかし、呉の言ってることには、現に虐められている子供たちにとっても、いじめ問題をなんとかしたいと思っている世の親にとっても、なんの実効性もなく、虐め問題の有功かつ合理的な処方箋にならない。
石原慎太郎も武田鉄也もそうですが、呉の議論も、「イジメられる子よ強くなれ!」発想の過激変形ヴァージョンに過ぎず、虐め自殺を、単純な「強弱」の問題として見る通俗発想という点で、石原も武田も呉も、その議論の骨格は同じです。そしてそういう発想に立っている限り、現在の虐めの複雑な構造も、虐められる側の心象風景、死に至る精神的プロセスも、リアルにクリアーに捉えられないのです。
とりあえずの対処療法的虐め問題解決(虐めを完全に無くすなんて話ではなく、虐めが自殺や不登校などの深刻な問題にまで発展しない程度に押さえる)のためには、虐められる側に命の大切さを説いたり、不登校のススメなどというふざけた対処をすることではない。また、虐められる側が「自分を鍛え強くなる」ことは必要だが、それだけではだめです。
当面の解決のためには、まず、虐められる側ではなく、虐める側をどうにかするしかないんです。すなわち、
現在のペナルティなき<虐めっ子の虐め得・虐められっ子の虐められ損>構造と<虐めっ子必勝・虐められっ子必敗>状態を変える。集団で特定個人を虐める卑劣な行為の代償が高くつき、虐めというローリスク・ハイリターンのストレス発散行為がハイリスク・ノーリターンとなるようにする。そしてそのために、<虐め加害者への厳罰化と虐め加害者矯正プログラム>をきちんとシステムとして確立すること
これ以外有効な処方箋はないでしょう(注)。
わたしもまた、<個人>としての本音レベルでは、呉と同じように「虐められて自殺するくらいなら相手をぶち殺せ!…精神的に陰湿に虐める連中にはウンコでも小包で送ってやれ!!」と思っています。
わたしは自分の体験に鑑み、「人間ときに相手をサクッとやっちまう<蛮勇>は必要だぞ」と思っている。しかし、そんな<個人>の思いに止まっている限り、まともな<教育論>など出てこないのです。
わたしは、自分の<個人>的な体験に基づき、「虐めで苦しんでいる少年少女たちよ、死ぬくらいなら相手を刺せ!…殺せ!!」などとアジるつもりはありません。教育を語る一人の大人として、自分の言動に責任を持ちたいからです。
(注)
虐める側へのペナルティとか出席停止措置などの話がでると、必ず“それは対症療法に過ぎない。虐め問題への根本的解決にならない”などとしたり顔で言い出す人たちがいます。
「対症療法」と「根治療法」は別に対立するものではない
こんな単純なことすら理解できないバカ議論の典型です。
どこの世界の医者に、患者が有効な「対症療法」を必要としているときに「根治療法こそ大事だ!」と叫んで「対症療法」を否定するバカがいるでしょうか?!
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