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【 時評 虐め自殺事件に思うこと2 2007年3月5日】



T  呉智英のコラム「イジメで自殺するくらいなら」について
―暴論エンターティナーよ、シャレにならん話はさむい芸にしかならんぞ ―

U 必要なのは対症療法:「虐め加害者」への教育的厳罰システムである

V <虐め得・虐められ損>構造と虐めのエンドレスファイト
― 虐め自殺事件は単純な「強弱」の紋切り型では論じ切れない ―

W 虐めっ子の「自助努力」論的発想の危うさ
―「虐めはいつの時代どんな社会にもある」…だからそれがどうした!?―

X わたしの体験的無駄話(オマケ)
― 蛮勇を奮えば「失うものが多すぎる」子供たち ―



T 必要なのは対症療法:「虐め加害者」への教育的厳罰システムである



 石原慎太郎東京都知事が、昨今の苛め自殺問題についていろいろと語っている。
なるほどと思うところもあるし、そりゃ違うと思うところもある。
 石原がビートたけしの番組で、文科省大臣宛に「虐め自殺予告」を出したバカ者に「死にたきゃ死ね」と吐き捨てたのを聞いて、わたしは思わず拍手喝采した。「虐め自殺予告」に狼狽え公表する文科省のおかしさ、責任逃れの卑しさにあきれかえっていたから、石原の「過激発言」は痛快だと感じたのである。(大臣がバカ者に呼び掛けるなら、大人の立場で「虐め自殺予告など卑怯卑劣である」と窘めるべきだ。また、文科省の対応は公表せずに万が一自殺されたときのマスコミの非難を考えてのことで、責任逃れの卑しさを感じる)。
 但し、わたしの拍手は、一人の大人としての石原<個人>への共感であって、教育行政に関わる<都知事・政治家>である石原が、「死にたきゃ死ね」なんて単純素朴な「感情」を公言するのはいかがなものか?…とは思う。
 石原に続いて、「虐め問題」ときたらそろそろこの人が出て来る頃かな…と思っていたらヤッパリ出てきたのが武田鉄也で、武田も石原と同趣旨の話をしていた。マスコミもいい加減“教育問題ときたらヤッパリ金八先生!”なんて安易な発想やめたらどうかと思う。
 石原や武田の発言をおおざっぱに纏めてみると、

“ イジメなんていつの時代でもあるが、オレたちの時代にはイジメられて死ぬほどヤワじゃなかった。今の子は弱すぎるよ。イジメなんてどんな社会にもあるんだから、たかが学校のイジメで死ぬようじゃあ、社会で生きていけない。もっとタフになんなきゃ!”

 ということになるだろう。
こういう虐められっ子「自助努力」論というのは、石原や武田<個人>の体験に根ざしたものであり、「オレは自分の弱さを克服する努力をして現在のオレがあるのだ!」という強烈な<個人>的自負を交えて話しているのだろう。虐め問題を、「社会が悪い・大人が悪い」と安易に<社会>に還元することなく、<個人>の「自己責任」のレベルで捉えようとするものである。
 わたしも<個人>レベルでは、「虐められッ子よ強くなれ!」と思うし、ぶっちゃけた話「虐められて死ぬくらいならサクッと刺しちゃえよ…」と思う。
 石原や武田の言う虐められっ子「自助努力」論は、抽象的一般的にはまったく正しい。だが、「抽象的一般的」には正しくても、そういう抽象的一般論を振り回すだけでは、現実具体的な<教育論>になりえないこともまた確かである。
 石原も武田も完全に「昔の古き良き時代」の感覚で紋切り型を言っていて、そういう紋切り型というのは、現在の虐め(「イジメ」ではなく「虐め」である)の現状を捉え損ねたピントはずれの言説でしかないのである。
 一対一または一対多の昔ながらの「弱い者イジメ」なら、弱い者の「勇気ある反撃」が効果をあげて「弱い者イジメ」が止むかも知れない。ケンカの強いイジメっ子に、イジメられっ子が「勇気」をもって立ち向かいイジメを食い止める、イジメっ子がたとえ負けたとしても、イジメっ子の方もイジメられる方の「勇気」を認め、それでイジメがやむ…というような。
 石原も武田も、非常に牧歌的というか薄甘いというか、そういう「弱い者イジメ」レベルでしか考えていないように思う。
 しかし、そういう時代を育った自分の<個人>的な感覚で、
「イジメなんていつの時代・どんな社会でもあるが、オレたちの時代にはイジメられて死ぬほどヤワじゃなかったぜ。今の子は弱すぎるよ。もっとタフになんなきゃ!」
 みたいなノリでいる限り、第一に、単なる「弱い者イジメ」ではなく「集団虐待」に近い集団VS個人の<虐め>、

【 現在の<虐め得・虐められ損>構造と<虐める者必勝・虐められる者必負>状態で、勇気を出せば「失うものが多すぎる」虐められっ子が、勇気を出したくても出せずに自殺にまで追い込まれる集団虐めの陰惨さ 】

 を、リアルに捉えられない(この点は後述)。
 第二に、単純に「強さ弱さ」の枠組みで論じるマッチョな発想では、虐め自殺する子の心象風景をリアルに捉えられない。
 虐め自殺するような子の精神状態は、精神病患者が発病初期に気力を振り絞って自殺する状態に似ているように思う。
 これは別に、虐め自殺者が「精神病患者」だと言っているのではない。虐めの果てに自殺するまで自分自身で自分を追い込む精神的過程が、精神病初期段階での自殺に似ているのではないか?…ということだ。
 いうまでもなく精神病は病気である。遺伝的素因に規定された精神の脆弱性というレベルでなら「人間的な弱さ」の範疇に括っていいのだが、常識的レベルでの人間の「強さ弱さ」の範疇で論じるのはナンセンスである。
 人間が過度のストレスを受けたとき、強度の身体的変調として現れるか、神経の失調として現れるか、それとも精神的レベルで発現するかは、遺伝的要因を土台とする個々の<資質・素質>(体質)の問題だろう。
強度の身体的変調⇒神経の失調⇒精神的変調というように段階的に進んでいくケースもあるだろうが、過度のストレス⇒身体的変調になるヤツもいるし、過度のストレス⇒いきなり精神病というのもある。過度のストレス⇒身体的変調コースのヤツの方が、過度のストレス⇒精神病のヤツより「強い」「弱い」などとは簡単に言えるものではないのである。
 精神病になるヤツは過度のストレスで胃潰瘍になるヤツより「弱い」と言うのは、糖尿病になるやつはみんな生活がルーズでダラシナイと単純に決めつけるようなものである。単純に“精神病に罹患するのは弱いヤツだ!”などという話は医学的には暴論でしかない。
 わたしは、“精神病に罹患するやつは弱いヤツだ!”と簡単に言うべきではないのと同じ意味で、虐め自殺者も、単純に“たかが虐めくらいで自殺するヤツは弱いヤツだ!”と言うべきではないと思っている。
 もちろん、虐められて自殺するヤツには、石原達が想定しているような耐性が低く「ひ弱」なタイプ、イヤなことを友達に言われ、ぽこっとあっけなく死ぬようなタイプもいるだろう。
 だが、昨年の岐阜瑞浪中事件などの報道を視ていると、石原や武田らマッチョ系のイジメ論議が想定しているような「イジメられっ子のひ弱さ」とか、ふと死に誘われる思春期特有の「危うさ」とかをあまり感じない。
 そうではなく、愚直なまでに生真面目で優しい良い子が、現在の<虐め得・虐められ損>構造と<虐める者必勝・虐められる者必負>状態の中に引きずりこまれたときの悲劇を感じる。
 良い意味でプライドが高く生真面目ゆえに一人で抱え込み、しかも優しく良い子だから、「勇気」を奮って虐める側に立ち向かい凄惨なエンドレスファイトを戦い抜くには「失うものがあまりに多すぎる」。この点はUで後述するが、集団VS個人戦は個人に勝ち目の薄いエンドレスファイトになる。そして「失うモノがあまりに多すぎる」がゆえに、にっちもさっちもいかなくなり、一種の鬱状態に陥り相手側を消すのではなく自らを消去する。そういう印象を受ける。
 石原や石原が支援する戸塚ヨットスクール校長のいう「耐性」とか「脳幹」レベルの問題というのは、むしろ虐める側の「弱さ」(集団で個人を虐めることでしかストレスを発散できない病的弱さ)の方に当てはまるように思う。
 鹿川君にしろ今回の福岡の少年、岐阜の少女にしろ、あれだけ長期間陰惨な虐めを耐えに耐え忍びに忍ぶというのは、平均的なレベルより「耐性」だって高いのではないのか?…。
 なまじ耐性が高いがゆえに自死に追い込まれるまで頑張った挙げ句の死…という感じがするのだ(この点はVでもう一度述べる)。





 わたしは今、石原や武田のような「昔の古き良き時代」の感覚の紋切り型言説では、現在の虐めの現状を捉え損ねたピントはずれの言説にしかならないと述べた。
 この点を具体的に話すにあたって、まず、なぜ人は人を虐めるか?…人はどういう条件下で虐めをやめるか?…まず一般的なレベルの話をすることから始めることにする。

 なぜ人は他者を虐めるか?…。
 その理由は単純である。気にくわないヤツを虐めると、ストレスが発散されて愉しいからである。虐めは<快>であり面白いからである。「虐めは悪いことだ」と「頭」では「わかって」いても、虐めという果実を禁欲しえないこと、未成年の飲酒喫煙淫行と同じである。
 いや、虐めの場合、未成年の飲酒喫煙淫行よりもたちが悪い。飲酒喫煙淫行なら、法的な規定にひっかかるから、なんらかのしかるべきペナルティを課せられる。課せられたら将来に傷がつきかねない。
 ところが、公立の義務教育現場における「虐め」の場合、どんなに相手を虐めても、警察が介入し「少年犯罪」として認定されない限り、具体的なペナルティを課せられることはないのである。
 公立の義務教育現場においては、「悪いことをしたら必ずペナルテイを受ける」(悪をなせばそれ相応の不利益を被る)という制度的仕組み(構造)が成り立っていない。教師が虐める側を罰する有効な手段をもっていない(出席停止措置などなかなか取りえない。体罰は原則禁止だし、内申書に「この生徒は虐めでクラスメートを登校拒否状態・自殺に追い込みました」などとストレートに書くわけにもいかない)。
 要するに、現在の公立学校の義務教育現場では、虐めの加害者とその親に対して「虐めを絶対に許さない!」という峻厳なる態度を示した上で、その態度に相応しい実効性ある教育的処置を取れないのである。
 虐め事件が顕在化し、問題になったとしても、とにかく被害者がすべての不利益をひっかぶって終わりになる。被害者は転校するか不登校になるか、それで問題は終息する。  虐める加害者側が転校するのではない。被害者がその場から消えてしまうのである。「なんで苛めた方がそのままで、苛められた方が逃げなきゃならんのだ?!‥おかしいじゃないか!」という常識が、学校現場では通用しない(注)。
 残された虐め加害者には、「虐めはイケマセヌ」の空虚なお説教を型どおりやり、加害者の親は、「虐めは悪いことかもしれないけど、苛められた方にも責任がある」という理屈で我が子を慰め、親も子もそれで自分を納得させて万事終了である。虐めた方は「虐めはイケマセヌ」の空虚なお説教をやりすごし、後は次のターゲットを探せばいい。  ペナルティなき<虐め得・虐められ損>構造が完全に出来上がってしまっている。そんな状況下で、「虐めは悪いことです。イケマセヌ」といくら説教されたって、虐めという魅力的なストレス発散手段を、虐める側のこどもたちがそうそう簡単に手放すわけがないのである。 


(注)

 いかにも子供の味方ズラした教育評論家が、苛められる側に、「ムリして学校いかないくていいよ!…死なずに逃げろ!!」などと言っているが、苛められたあげく、一人寂しく学校から消えなければならないというの実に理不尽なことである。
 虐めた方は無傷で、虐められた方が不利益を全面的に被る現状が、どれだけ異常で不気味な事態か、きちんと社会的に問題になり指弾され、「なんで苛めた方がそのままで、苛められた方が逃げなきゃならんのだ?!‥おかしいじゃないか!!」という声が主流にならない限り、この問題への解決への道へ一歩踏み出すことはできないだろう。
 公立の学校というのは、加害者を厳しく罰することもできず、なにか問題が起きたらむしろ被害者の方に不利益を押し付けて事を済ませてオシマイにする傾向があるように思う。
 わたしの妹は障害をもち知能も遅れているのだが、小学校の頃、学校のワルガキたちにあやうく性的悪戯をされかかった事がある。幸い未遂で済んだのだが(廃屋に連れ込んだところを教師が発見)、両親はソッコーで転校させた。学校側はワルガキたちに具体的なペナルティを課すことができずまたその意志もない。ペナルティなき教育に教育的効果を期待できないわけだから、ワルガキたちがいずれまた同じ事を繰り返す可能性は高い。再び被害に晒される危険がある以上、転校しか選択肢はなかったのである。





 
以上、公立学校における義務教育の場が、虐めを厳しく指導し罰を与え、必要とあらば教育的治療(断固たる実効的行為)をおこなうことができない<構造>になっている。
 だから、虐めっ子が虐めをやめるとしたら、「虐めるとストレスが発散されて愉しい面白い」という<快>が消失したとき以外、まずありえない。これには大きく二つのパターンがある。

 A 第一に、「面白い」からやるはずの虐めなのに、虐めに飽きた…あまり面白くない…そろそろ受験だなあ忙しくなるなあ…高校生にもなって虐めなんてダサイよなぁetc…と感じたとき(なんとなく周囲もそういう雰囲気になっていると感じたとき)、子供は虐めをやめる。
 これは、暴走族やヤンキーが「オレもやんちゃは卒業だ」とか、シンナー少年が「おれも十八だからよ。ハッパならいいけど、アンパンやってる年じゃねえもんなぁ」という理屈に近い。

 B 「ストレス発散できる」からやるはずの虐めなのに、「相手を虐めたことで、逆にストレスが堪り不愉快になる」という<不快>が<快>を上回るとき、人は虐めをやめる。
 <不快>が<快>を上回るとは具体的にはどういうことか?…。「面白い」から、「ストレス発散」になるからやるはずの虐めなのに、逆に、虐めた相手からイヤ〜〜な思いを味合わされるということである。これにも二つのパターンがある。
@ 虐めた相手が大ケガ・発狂・自殺未遂あるいはほんとに自殺して<大事>になったときである。これは大騒動になるし、さすがに人一人虐め殺したら寝覚めが悪いし、へたしたら自分の将来にも傷がつく怖れが生じる。<不快>が<快>を上回る。
A 相手から<有効>な肉体的また精神的反撃を受け、その反撃が<苦痛>であるときである。
 なぜ人は他者を虐めるかといえば、面白いからであるはずなのに、相手を虐めれば「ストレスが発散されて愉しい」どころか、肉体的精神的<苦痛>を覚悟しなければならないとしたら、人は人を虐めない。
。  以上、「面白い」から「ストレス発散できる」からやる虐めのはずなのに、「逆に不愉快な思いをしストレスが堪る」という<不快>が<快>を上回るとき、人は虐めをやめる。
 しかしながら、最近の虐めっ子は、相手を虐め殺しその結果<不快>な経験をしたくらいでは、そうそう反省しない。これに関しては、左派というか進歩的論調だけでなく、右派というか保守的論調の方も責任重大である。
 世の大人達は、

「どんな時代でも、どんな社会でも虐めはある」
「たかが学校の虐めくらいで死ぬようなヤツは、社会で生きていけない弱いやつなんだから、ある意味ショウガナイ」

 という剥き出しの非情な意識を、本音のところで隠し持っている。
 石原や戸塚ヨットスクール校長などはそのハードボイルドな意識の代表選手みたいなものである。「タフでなければ生きられない」というやつだ。
もっとも、フィリップ・マーロウは、その言葉に、「優しくなければ生きている資格はない」と付け加えるこを忘れはしなかったが。
 こういうあからさまな本音が世間一般の底流にあるから、加害者の親はその空気に染まって、あるいはそういう空気に乗っかって、反省しようとはしない。
「虐められる方にも原因がある」「虐めくらいで死ぬ方が悪い」「アイツに死なれたおかげでこっちこそ被害者だよ!」という開き直りの理屈を、加害者の我が子に与えて庇護するから、バカガキどもも当然バカ親を見習い、反省なんぞしないのである。
 これは結局、学校内部の教育指導において、「人を虐めるような醜悪卑劣卑怯」に対する断固たるペナルティがまったく機能していないということであり、その背景には、「虐めのような醜悪卑劣卑怯は断じて許さない!」という峻厳なモラルが、学校を取り巻く世間において希薄だということである。問題はそこに尽きている。
 昨今の虐め事件で、学校の先生が虐め加害者に「加害者」という強い態度で望むことができないのは、加害者の親の問題も大きい。“うちの子を犯罪者扱いするのか!”という逆襲がありえるわけだから、先生としては非常に微温的で事なかれ主義の対応しかとれない(本音では、虐められる側が早く転校してイザコザが終わってくれればとさえ思う)のである。


 



 
以上が虐めに関する一般論である。
 こういう完全な<虐め得>状態下で、虐めが<快>である子供たちに、いくら「虐めは悪いことです」とお説教しても無駄である。
“「虐めは悪いこと。やめよう!」と真剣に訴えかければ、きっと子供はわかってくれる”という発想は、左派というか進歩的論調の人間観・教育観の甘さに由来している。
 人間は本来善であり、人間の天性の善なる芽が成長するのを助けることが教育だと考えているから、虐める側に「虐めは悪」と繰り返し説得すればきっと内なる良心が目覚め、白鷺のように美しい心を取り戻してくれる…という人間観・教育観の甘さである。
 虐める側だって「人を虐めるのは良くないことだ」とは一応「わかっている」のだ。しかし、それは「頭」で「わかっている」にすぎない。「シンナーは体に良くない」と「頭」で「わかっている」がなかなかやめられないのに似ている。
「シンナーは体に悪い」といくら説教してもシンナーをやめない子供は、シンナーから得られる<快>を上回る<不快>を経験することでしか、シンナーをやめることができない。具体的には、補導・逮捕などの<不快>経験を通して、パン中患者の悲惨さ、仲間の死などの冷厳な現実を突きつけられ、骨身に染みる<苦い>経験をするしかない。
 論理的には、虐めをやめさせる教育もシンナーをやめさせる教育も同じである。
 いうまでもないことだが、罰のないところに罪意識などありえない。より正確に言えば、

「悪いことをしたら必ずペナルテイを受ける」(悪をなせばそれ相応の不利益を被る)という制度的仕組み(構造)が具体的に存在し、そういう仕組み(構造)の元で初めて、「悪いことをしたら罰を受けるんだなあ。やっぱり悪いことはしてはいけないんだ‥」という意識が育まれる。

 ペナルティというのは、それを被れば自分にとって「不利益」であると感じられるからこそ<罰>たりえている。ペナルティを被るという<快>を上回る<不快>を経験することで(あるいは実際に罰せられなくても、罰せられたときの不利益を想像することで)、反省のスタートラインに立つことが出来るのである。
 その場合、加害者の子供の親の問題が極めて重要なファクターとなってくる。
 深刻な苛め問題を引き起こした加害者の親が、被害者に対して心から謝罪反省している場合には、その子供もまた罪の意識を持ち心から反省する。
 苛めた側の親が「苛められる方も悪い」というかたちで我が子を庇い弁護すれば、その子もまた開き直り、己のしでかした事に正面から向き合うことができず、逆に「あいつが死んだお陰でこっちはいい迷惑だ。こっちこそ被害者だ」という自己弁護と開き直りの態度を取る。  だから、苛める側の子に本当の罪の意識を持たせるためには、その親を含めて、加害者の加害責任をシッカリと取らせる<厳罰システム>を創出した上で、加害者とその親、学校側が徹底的に話し合い、反省と贖罪を深め、弱者を虐める卑怯な心を矯正するための教育を徹底化することが必須になる。

「苛め加害者矯正プログラム」 を策定し、苛める側の心の闇を解明する。どういうストレスを抱えているのかカウンセラー等専門家の力を借りる。必要とあらばしかるべき施設(虐め加害者矯正施設)をつくりそこに収容する。
 そこまでやって「虐める側を変」えなければだめだろう。
だから、武田鉄也の「虐める側は変わらない。虐められる側が変わらなきゃ」など、<個人>の実感レベルでならともかく、<教育論>としてはとんでもないバカ話なのである。
 学校・家庭・地域の連携において、苛める側の子供とその親に、徹底的に反省と贖罪を迫り、虐める心を矯正する教育を徹底化しえない限り、苛めで自殺する子供は絶えることはないだろう。苛められる側が転校してオシマイオシマイなど、論外である。



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