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【補論2 尊敬する知識人の言説から学ぶ態度 ―信頼と懐疑の<矛盾>の定立― 】








【補論2 尊敬する知識人の言説から学ぶ態度 ―信頼と懐疑の<矛盾>の定立― 】



 わたしは、「宮台さんほど優れた人なら‥」という前提からスタートする宮台ファンの姿勢を取り上げ論じました。
 これは別に、「宮台さんほどの優れた人なら‥」という姿勢それ自体を悪いことだと言っているのではありません。わたしだって「三浦さん滝村さんほどの優れた人なら‥」というスタンスで、彼らの言葉を受け止めます。
 ただし彼らの言説を鵜呑みにするのではなく、ちょっと弁証法的な言い方をすると、「信頼しつつ疑う」という<矛盾>の定立という姿勢でいます。
「信頼」というのは、三浦さんなら言語学のプロ、滝村さんなら政治学のプロとしての実績に対する「信頼」です(だから、三浦さん滝村さんの専門外の発言は、そもそも「信頼」の対象にすらならない)。
「疑う」というのは、その言説を鵜呑みにせず、自分なりに現実と正面から向き合い、他者の言説を現実とつつき合わせて徹底的に考えて考え抜くってことです。わたしが三浦さんや滝村さんから学んだのは、そういう現実と向き合うまっとうな懐疑精神でした。

 わたしは20歳前後に、マルクス経済学をそれこそ「教科書的」に、文字通り“出来合いの真理”として学ぶ「修行」をしたことがあります。
 こういう「修行」というのは、日本的な学問派閥(学的党派)を創る上でのそれなりに有効な弟子養成法です(日本の伝統的師匠―弟子関係とマルクス主義的“学問=学習”発想の結合といえる)。
 学派の指導者とか教育者というものは、建前的に「自分の頭で考えろ」とか「健全な懐疑精神を持て!」「先人大家の説といえども鵜呑みにするな!!」などといいますが、実際にやってることは違います。この手の「修行」の目標は、

 学生・門下生の頭脳の中に<マルクス経済学的思考の枠組み>を創り上げる、<マルクス経済学的思考の枠組み>で政治も社会も経済も考えるようになるまで、マルクスやら宇野弘蔵やらの本を、まるで数学や物理の教科書(教科書には数理的論証や実験的実証でその<真理性>を一応証明済みの“正しい”ことが、すなわち出来合いの<真理>が書かれている。だからこそ教科書は教科書です)の如く学ばせる‥

 ものです(この点はHP「社会科学の学びと日本的学問党派精神」参照のこと)。
 わたしは、こういう学び方の有害性に翻弄され、いろいろあって、その後様々の著名な知識人研究者の本を読み、最終的には三浦や滝村の学問的姿勢と精神にこそ、学問理論の本筋があるのだと気づいたのでした。
 頭脳の中に<○○的思考の枠組み>を創り上げる学問=学習法では、その○○の中に、「マルクス」が入ったり「ハイエク」が入ったり、あるいは「システム論」とか「記号論」が入ったりします。
そして、 一度頭脳の中に<○○的思考の枠組み>をガチガチに創り上げると、現実と照らし合わせて、マルクスそのものを、ハイエクそのものを、「システム論」とか「記号論」そのものを、<○○的思考の枠組み>そのものを<相対化>し、彼らの欠陥を論理的に捉え返すことは難しくなります。
 そりゃそうでしょう。「マルクス」やら「ハイエク」やら「システム論」やら「記号論」やらをアプリオリに受け止め、一生懸命教科書的に勉強し、<○○的思考の枠組み>を頭の中に宿し、その<枠組み>で<現実>を捉えるレベルまで達するというのは、

 その<○○的思考の枠組み>が孕む長所も短所も、美質も弱点も<丸ごと>受け取る

 ことでもあるのですから。
 その<○○的思考の枠組み>それ自体を相対化し、その長所を取り短所を克服し、美質を受け継ぎ弱点をのりこえる(止揚する)ためには、先人大家といえども「信頼しつつ疑う」という<矛盾>の定立という姿勢で、その言説を鵜呑みにせず、自分なりに現実と正面から向き合い、他者の言説を現実とつつき合わせて徹底的に考えて考え抜くしかありません。
 しかし、ひとたび<○○的思考の枠組み>でがちがちに頭を固めてしまえば、その<○○的思考の枠組み>それ自体を、現実と照らし合わせて相対化するのは困難になります。

 日本の文系アカデミズムの学者先生というのは、口では「自分の頭で考えろ」とか「健全な懐疑精神を持て!」「先人大家の説といえども鵜呑みにするな!!」などといいます。建前的に。
 でも実際に、その建前を自ら本気で実践してみせ独創的な業績(理論)を編み出した文系学者は日本には少ない(超一流の金無垢の本物は社会科学というよりも、歴史学とか民俗学、文化人類学などの実証学系のフィールドに集中していると思います)。そして、自ら実践してみせた数少ない学者の中で、自ら実践してみせるにとどまらず、「信頼しつつ疑う」という<矛盾>の定立を<学問精神>として強調し、<学の王道>として明瞭に<方法的>に自覚し提起したのは在野の三浦さん滝村さんだけでしょう。
 わたしは、三浦さんも滝村さんも、アカデミズム外の在野の人だからできたんだろうな‥って気がします。





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