目次
【 「アプリオリズムの問題」参考資料1 】
「三浦つとむ関連サイト集」にわたしの「探求 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ」を乗せていただいていますが、以下の文章は、同じく「サイト集」で紹介されている『数学屋のめがね』というブログ主の秀さんという方にお答えしたものです。
お答えが超長文になってしまい、このような超長文を他人様のブログのコメント欄に連続投稿するのもどうかと思い、「アプリオリズムの問題 参考資料」というかたちでHPにアップすることにしました。「参考資料」は、
「数学屋のめがね」
http://blog.livedoor.jp/khideaki/
に載った秀さんとわたしのコメント、及び投稿しようとしたが長くなりすぎたのでとりやめにした部分を別にまとめたものです(「政治学と法律学における<法>の位相」という文章もあるのですが、こちらはまだ書きかけで、仕事の方がたいへんで時間的余裕がなく、アップはとりあえず中止です)。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
[秀さんのコメント1]
佐佐木晃彦さんへ
僕は三浦さんを師と仰ぐほど尊敬していますが、弁証法に関する見方はかなり違っています。それは、理論展開の出発点になる、対象把握の際の多様な見方を教える発想法だと捉えています。つまり、いったん前提を選び取って理論を展開する段階になると、もはや弁証法という論理は理論展開の中には現れません。
小室氏の理論展開を僕はそのように受け取っているので、理論展開の際に弁証法的な考察が入ってこないのは、むしろ論理的な考察としては当然ではないかと思っています。
Posted by 秀 at 2007年06月16日 13:30
[ 秀さんのコメント2 ]
アプリオリズムの問題はかなり微妙な問題があると思います。理論の出発点の前提の選び方というのは、ある種の恣意性を含むものです。数学的な公理で言えば、理論の全体が目的とするものを含むものであれば自由に選ぶことが出来ます。この自由に選んだという面だけに注目すると、それが無前提に選ばれたように見えてアプリオリズムに見えるかもしれません。
その前提を、イデオロギー的に検討なしに選んでいるのならアプリオリズムの間違いと呼べるかもしれませんが、理論展開の方向から、あえてその前提を選び取っているという自覚があるのならそれはアプリオリズムではないと思います。「国家は合法的に暴力を行使しうる唯一の存在である」という定義は、言葉だけを見るとアプリオリズムに見えますが、社会のメカニズムを関数的に捉えるには、この機能を前提に論理を展開することに意味があると思います。
Posted by 秀 at 2007年06月16日 13:37
[秀さんのコメント3]
投降兵処断の問題というものが、それが違法だということを根拠に「虐殺」だと主張されているなら、それが違法ではないということを証明すれば、相手が主張する意味での「虐殺」ではないと反論することが出来ます。
もし違法性が問題にされているなら、それは形式論理的判断の問題になり、法律解釈の問題を形式論理で考察することになります。法律というのは、その行為が「違法である」か「違法でない」かどちらかに決めなければなりません。両方が同時に成り立つような「矛盾」や、どちらでもないという「排中律」を否定するような結果は出せません。違法性を問題にする限りでは、現実のリアルな観察よりも、それが論理的にどう判断されるかのほうが重要になります。法律が規定していることに反していなければ合法だという判断になります。小室氏の展開はそのようなものではないかと僕は予想しています。
Posted by 秀 at 2007年06月16日 13:43
[秀さんのコメント4]
統合失調症の患者の父親のたとえは、それが理論活動としての考察ではないので、小室氏の問題を考える比喩としてはふさわしくないように思います。形式論理で扱う問題ではないことに形式論理を適用すれば、ばかげた詭弁になるということだろうと思います。
麻薬の選択の自由に対しては、社会における自由とその制限の合法性を前提に置くならば、形式論理の適用の対象になると思います。社会における自由とは、恣意的な権利意識による自由ではなく、法律に規定された範囲内での自由だとするなら、合法的に麻薬選択を自由にゆだねるという議論も成立すると思います。オランダなどでは、一部のドラッグには自由が認められていると聞いたことがあります。この問題を合法性という点に限定するなら、形式論理的考察の対象になると思います。
Posted by 秀 at 2007年06月16日 13:50
――――――――――――――――――――――――
[秀さんのコメントへの感想1]
>僕は三浦さんを師と仰ぐほど尊敬していますが、弁証法に関する見方はかなり違っています。それは、理論展開の出発点になる、対象把握の際の多様な見方を教える発想法だと捉えています。
「理論展開の出発点になる、対象把握の際の多様な見方を教える発想法」というのは、別に三浦さんの立場と対立するものではないと思います。三浦さんも秀さんもわたしも根本的な違いはないでしょう。
弁証法というとなにやら難しそうに聞こえますが、なあに実は単純な話で、わたしの弟が喝破したように、
【 物事を<弁証法的>に捉えるとは、物事を多面的に捉え、なおかつ多面的=並列的平面的にではなく、<重層的立体的>に捉えることである 】
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」というのは、この捉え方を三浦さん的に分かりやすく言い換えたもので、<弁証法>という「発想法」はこれにつきています。
そしてこの「発想法」を、より学問的なレヴェルで、とくに社会科学レヴェルで大きく<方法的>に捉え返せば、<体系><本質><関係><媒介=止揚><矛盾>というような、なにやらこ難しい<方法論>論議になるでしょう(この点はわたしのHPを参照戴けたらと思います)。
ただ、ここで問題になるのは、第一に、
【 そもそも「理論展開の出発点」になる「発想法」というものは、では、いったい、どこから生じるのか?…アプリオリに先験的に、人間<主体>の頭の中に自然と備わっているのか?…】
という認識論的レヴェルの問題です。
<弁証法>というのは、事象を捉える発想「法」すなわち一つの<方法>です。では、<方法>というのは、いったい、どこから生じるのか?…人間<主体>の頭の中に自然と備わっているのか?…。これはカント的な方法的アプリオリズムの問題でもあります【補注1】。
いうまでもなく、弁証<法>という発想<法>すなわち<方法>は、先天的な能力として頭の中にあるのではなく、我々が生きるこの現実の<客体>的な<世界>(【補注2】)が内在的に孕む<弁証法性>のようなもの(現実の<客体>的事象に内在する重層的立体的な論理性)を、われわれ認識<主体>の側が<論理>的に捉え<理論>的に構成していく(重層的立体的な体系的・全体的理論認識として展開する)という思惟・認識活動を経験的に積み重ねていくことで、我々のものの見方考え方というレヴェルで身に付いていきます。
弁証法もまた、<>)別にヘーゲルだのマルクスだの読んだことのない人でも、現実にぶちあたり、現実と真剣に格闘する中で、弁証法的な発想法を会得することができます。
しかし、ここで第二の問題が生じます。すなわち、
【 我々が生きるこの現実の<世界>が<弁証法性>のようなもの(現実の<客体>的事象に内在する重層的立体的な論理性)を孕み、それを掴むことで弁証法という「発想法」あるいは<方法>を会得できるのだとしたら、この現実の<世界>の<弁証法性>というのは、現実にはいったいどういう具体的なあり方をしているのか?…人間の認識がどういうかたちで現実具体的な<世界>を捉えることで、<弁証法>を会得していくのか?… 】
という<世界観>に関わる問題です。
我々が生きるこの現実の<世界>は、<世界>一般として存在しているわけではありません。現実の<世界>は、大きく<自然>と<自然の中の人間社会>という相対的に区別される二大<領域>として実在しています。
さらに、<人間社会>というのは、<社会一般>として抽象的一般的に実在しているのではなく、<政治><経済>と<文化>的事象に大きく三層に分化するかたちで、実在しています。すなわち現実の<社会>というものは、大きく<政治>(マルクス的にいえば政治法制的「上部構造」)と<経済>(下部構造)という二層領域に大きく分化しつつ、それに対応するかたちで<文化>的事象が生成―発展するという三層構成で実在している。
(もっといえば、三層的に分化しつつ相互規定的に連関し、現象的には渾然一体的に融合している。たとえば「ほりえもん」現象というのはアメリカ渡りの新自由主義を象徴する<経済>的かつ<政治>的事象であり、新自由主義を象徴する<経済>的かつ<政治>的事象であるがゆえに日本のアメリカ化?という<文化>的問題でもある)。
これを<世界>に内在する<弁証法性>とでもいうべきものとの関係で捉え返すと、いきなり<世界>一般を鷲掴みにするようなかたちで、<世界>の<弁証法性>のようなものを捉えても、そこで会得しえた「弁証法」というのは、非常に抽象的一般的で漠然とした単なる「発想法」レヴェルの域を出ない。弁証法というのは、それだけ取り上げれ言葉にすれば、
【 物事を<弁証法的>に捉えるとは、物事を<重層的立体的>に捉えることであり、<重層的立体的>に捉えるとは、事象の背後の内在的な<論理>を掴み、その<論理>のそれぞれのレヴェル・段階を区別しつつ連関させていく<理論>体系的 把握である 】
ということでしかありません。その骨格を論じるだけなら数十行です(三浦さんの『弁証法はどういう科学か』は、言語学からマルクス主義国家論、ことわざ格言の類を総動員して実例を挙げているから一冊の本になっています。わたしの尊敬する年長の友人は、あの本の構成のアンバランスさ、「対立物の相互浸透」は百十数ページもあるのに、「量質転化」は僅か十数頁というアンバランスさを指摘していましたが、そこにこそ例証主義の限界が如実に現れているのではないかと思います。あの本のずば抜けた啓蒙書としての優秀性を認めつつ、やはりこの点は指摘しておかなければなりません)。
しかしこれは当然といえば当然でしょう。弁証法は、形式論理学とはまた別のレヴェルで、自然的・社会的また文化的の別を問わず、あらゆる事象の個別的・特殊的な<内容>を論理的に捨象し(切り捨てる)、純粋に<論理的分析かつ理論的体系構成方法>を抽出するものですから。ということは、極めて高度な「対象超越的」なレヴェルの認識で、事象の個別的・特殊的な<内容>すなわち個別科学的な学的対象領域をもっていない。
でも<方法論>というのは、そもそもそういうものだと思います。たとえば「経済学方法論」なんて本はたくさんありますが、骨格だけしめせば数ページで済む話を、実例をてんこ盛りにしてようやく一冊の本にしたというのが実状です。そういう意味では、板倉聖宣さんが弁証法は科学ではなく一つの「発想法」だというのは、一面の真理をついていると思います。
では、板倉聖宣さんのように「一つの発想法」と割り切っていいかというとそれも一面的でしょう。正解は、
【弁証法は科学ではなく同時に科学である】
だと思います。すなわち、
【 自然科学や社会科学、物理学や化学や経済学や言語学のような<体系的>かつ<自立的>な固有の特殊な学的領域を有する<個別科学>ではない。
しかし社会科学や人文科学中の理論的諸学、実験的実証も数理的論証も困難な理論科学においてとりわけ必須かつ必然化される<方法>である。対象的事象の内在的な<論理>を掴み、その<論理>を体系的に構成する<論理解析法>と<理論体系構成法>という方法的二重性において、<弁証法>は<科学>的な<方法論>たりえる 】
ということになります。
[秀さんのコメントへの感想2]
>それは、理論展開の出発点になる、対象把握の際の多様な見方を教える発想法だと捉えています。つまり、いったん前提を選び取って理論を展開する段階になると、もはや弁証法という論理は理論展開の中には現れません。
弁証法は「対象把握の際の多様な見方を教える発想法」。これはその通りだと思います。しかし、出発点の「発想法」ないしは<方法>とそれに基づく「理論展開」を対立させるべきではないとわたしは思います。これは個別科学と弁証法の関係を考えればわかります。
先にも述べたように、我々が生きるこの現実の<世界>は、のっぺらぼうな<世界一般>として実在しているわけではありません。現実の<世界>は、大きく<自然>と<自然の中の人間社会>という相対的に区別されるかたちで実在しています。さらに、<人間社会>というのは、<政治>と<経済>という二層領域に大きく分化しつつ、それに対応するかたちで<文化>的事象が生成―発展するという三層構成で実在しています。
だから、<世界>を掴み解明する理論的営為は、<世界>の現実具体的なあり方に規定されている。すなわち、
【 <世界>を掴み解明するというのは、<自然>的事象に即して自然そのものに<内在する<客体>的な<論理>を、われわれ認識<主体>が掴み<理論>的に構成し、<人間社会>の事象は、人間社会の現実に即して、人間社会そのものに内在する<客体>的な<論理>を、われわれ<認識主体>が掴み<理論>的に構成し、さらには、<政治>的事象、<経済>的事象、<文化>的事象それぞれに内在する<客体>的な<論理>を捉え<理論>的に構成していくこと。
<世界>を学的に掴み理論的に解明するというのは、<世界>とはなにか?…という一般的抽象的な思惟・認識活動ではなくて、そういう個別科学的な成果の積み重ね、その個別科学の集積としてしかあり得ない 】
のです。そして、われわれは、そういう個別科学的な<理論>的諸成果を十分に踏まえることで、我々の生きるこの現実の<世界>はいかにあるべきか?…というような<世界観>に関わる<思想>的課題を本格的にきちんと提起できる。
これを弁証法との関係で言うと、<自然>的事象に即して自然の<論理>を掴む自然科学や、<人間社会>に即してその内在する<論理>を掴む社会科学や人文科学においては、弁証法をいきなり機械的に密輸入し当てはめても、うまくいかない。
これは当然でしょう。弁証法にしろ形式論理にしろ、自然的・社会的また文化的の別を問わず、あらゆる事象の個別的・特殊的な<内容>を論理的に捨象する(切り捨てる)「対象<内容>超越的」なものです。しかし、
【 自然科学にしろ社会科学にしろ、自然現象、社会的歴史的諸現象、経済的事象・政治的事象という個別特殊的具体的な固有の<内容>そのものが、まさに問題になっている 】
自然科学や社会科学、人文科学には、それぞれに固有の学的対象領域があり、その固有の領域の<内容>に規定された特有の<方法>があり、その<方法>に基づき<理論>展開がなされる。だから弁証法が<直接>方法的に役立つわけではない。
しかし、自然科学や社会科学、人文科学のそれぞれに特有の<方法>に基づく<理論>展開において、<直接>的にではなく大きく<媒介>的に、深く静かに弁証法的な思考法が脈打っている。個別科学と弁証法というのはそういう媒介関係にあるわけで、「理論を展開する段階になると、もはや弁証法という論理は理論展開の中には現れ」ないということは言えないと思います。
[秀さんのコメントへの感想3]
>理論の出発点の前提の選び方というのは、ある種の恣意性を含むものです。数学的な公理で言えば、理論の全体が目的とするものを含むものであれば自由に選ぶことが出来ます。この自由に選んだという面だけに注目すると、それが無前提に選ばれたように見えてアプリオリズムに見えるかもしれません。
「理論の出発点の前提の選び方というのは、ある種の恣意性を含む」というのは、物事を形式論理で見るか弁証法的にみるかは、その人の自由勝手というような意味なら、それはそうでしょう。キリスト教を選ぶかマルクス主義を選ぶかはその人の思想信仰の自由というのと同じです。自分が物理を学ぶか数学を学ぶか、言語学を選ぶか政治学を選ぶかは、まさに本人の「恣意性」の問題です。
しかしここで問題になっているのはそういうことではなくて、「理論の出発点の前提の選び方」です。
先にも述べましたが、そもそも「理論の出発点の前提」というのは、いったいどこからくるのか?…先天的に頭の中にあるのか?…それとも学校の教科書の中にあり、それを学ぶことで得られるのか?…ということが大問題です【補注2】。
「理論の出発点の前提の選び方」というのは、
【 現象的には認識主体の「恣意性」に委ねられているように見えながら、しかし本質的には、あくまでも<現実>の在り方に根本的に規定され制約されている 】
というレヴェルの話です。
たとえば、社会科学のうち政治学を学ぼうか経済学を学ぼうかというのはまさに認識<主体>の「恣意性」に委ねられていると同時に「恣意性」に委ねられていない…という<矛盾>に突き当たります。
我々認識<主体>が政治学的に考察するも経済学的に考察するも「恣意性」に委ねられているように見えながら、しかし、その考察対象である現実の<社会>の<客体>的な在り方に大きく規定制約されているという意味で、けっしてそれは認識<主体>の「恣意性」に委ねられているわけではないということです。すなわち、
【 現実の社会というものは、抽象的一般的な社会一般というかたちで実在しているのではなく、大きく<政治>(マルクス的にいえば政治法制的「上部構造」)と<経済>(下部構造)という二層領域に大きく分化(もっといえば二層的に分化しつつ相互規定的に連関し、現象的には融合している)しつつ、それに対応するかたちで<文化>的事象が生成―発展するという三層構成で実在している。
そういう<現実>の社会の在り方から根本的な規定性と制約を受けるかたちで、<政治>と<経済>それぞれに固有の<論理>を<理論>的な学的対象領域とする政治学と経済学が分化している。
そうであるがゆえに、われわれは現実の社会を<政治学>的に考察するという「理論の出発点の前提の選び方」をするか、<経済学>的に考察するという「理論の出発点の前提の選び方」をするかに、大きく分かれることにもなる 】
わけです(こういうと、では社会学というのは?…という問いが出てくるでしょうが、この点は別の機会に論じて見ます)。
[秀さんのコメントへの感想4]
>「国家は合法的に暴力を行使しうる唯一の存在である」という定義は、言葉だけを見るとアプリオリズムに見えますが、社会のメカニズムを関数的に捉えるには、この機能を前提に論理を展開することに意味があると思います。
「国家は合法的に暴力を行使しうる唯一の存在である」という「定義」は、特に学問的な「定義」というか、学問的レヴェルで<理論>展開する上での「前提」的な<概念>レヴェルにはないと思います。
ごく普通の知能をもち、それなりに社会問題政治問題に興味関心を抱いている人なら、まあたいていの人が直観的に掴んでいる、<国家権力>というものへの常識的事実的「印象」というか、<国家権力>に関わる現象的な事実をそのまま表現したものにすぎません。別に学歴もなにもない普通の庶民で、それなりに床屋政談好きな人なら、もっと通俗的な言い方で、この程度のレヴェルのことは言うでしょう。あるいは高校の現代社会や政治経済・倫理の教科書レヴェルの勉強をちゃんと終えた人には、この程度のことは自明の事柄に属します。
学問的レヴェルで<理論>展開する上での「前提」的「定義」というのならば、「国家は合法的に暴力を行使しうる唯一の存在である」という現象的な自明の事実は、スタートライン(理論展開の出発点としての基礎概念)にならないでしょう。そうではなく、話はまるで逆ではないでしょうか。
政治学の学的役割は、「国家は合法的に暴力を行使しうる唯一の存在である」という床屋政談好きのオッサンにでも分かる現象的事実を指摘することではなくて、国家がなぜ合法的に暴力を行使しうるのか?…という事実の内在的な<論理>的必然性の解明、すなわち、「合法的に暴力を行使しうる唯一の存在」という常識的な「印象」ないしは現象的事実を踏まえ、
<合法>とはなにか?…<暴力>とはなにか?…合法的に暴力を<唯一排他独占的に掌握する>とはどういうことか?…なぜ<国家権力>は合法的に暴力を<唯一排他独占的に掌握する>のか?…
<論理>的に突き詰めていくことなのだと思います。
「合法的」という場合の<法>とは、国民に有無を言わせぬ強制力をもつ<国法>であり、<国法>は<国家>なしにはありえません。そして<国家>というものは<社会>なしにはありえません(法―国家―社会の論理的連関)。したがって、政治学の学的役割は、
【 ある歴史的<社会>の中で、<政治><国家><国家権力><国法>というものがなぜ生まれ、なぜ<社会>的に必要とされてきたのか?…<政治><国家><国法>が生成―発展する内在的な<論理>的連関(媒介<関係>)を掴み、その<論理>的連関を<理論>体系的に構成する 】
という事以外のなにものでもないということになるでしょう(この点は「政治学と法律学における<法>の位相」を参照して戴けたらと思います)。
[秀さんのコメントへの感想5]
>投降兵処断の問題というものが、それが違法だということを根拠に「虐殺」だと主張されているなら、それが違法ではないということを証明すれば、相手が主張する意味での「虐殺」ではないと反論することが出来ます。
違法性を問題にする限りでは、現実のリアルな観察よりも、それが論理的にどう判断されるかのほうが重要になります。法律が規定していることに反していなければ合法だという判断になります。
南京事件の如き問題の国際<法>的評価においては、「現実のリアルな観察よりも、それが論理的にどう判断されるかのほうが重要」という言い方で、「現実のリアルな観察」と「論理的」な「判断」を対立させて考えるべきではないと思います。
小室さんの説というのは、「現実のリアルな観察」を抜きに南京事件の如き現代史学的かつ高度に複雑な政治的問題を論じたらどういうことになるか?…の典型例で、「現実のリアルな観察」を抜きにしたら、「法解釈」における「論理的」な「判断」そのものが狂ってしまう、「それが違法ではないということを証明」することもできなくなってしまう…ということです。
投降兵「処断」が違法か合法か?…というような戦時国際法上の<法>的判断においては、それが「軍事上やむを得ない」場合か否か?…の現実具体的な緻密な<内容>的検討すなわち「現実のリアルな観察」(過去の歴史的事件の場合は実証事実的探求による歴史的事実の確定)が「重要」なわけで、「現実のリアルな観察」に裏打ちされない「法解釈」における「論理的」な「判断」なんて<論理>の名に値しないんです。
[秀さんのコメントへの感想6]
>もし違法性が問題にされているなら、それは形式論理的判断の問題になり、法律解釈の問題を形式論理で考察することになります。
秀さんは「法律解釈」と「形式論理」というレヴェルの異なるものを、「法律解釈」=「形式論理」的判断とイコールで繋げているように思います。
「ハーグ陸戦法規」をはじめ戦時国際法というものは、「成ルヘク戦争ノ惨禍ヲ減殺スルヘキ制限ヲ設クル」ことを目的に、「文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生ズル」ものです。
当然、「ハーグ陸戦法規」(条約付属書 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則)の個々の条文もまた、この「趣旨」から<内容>的に大きく規定され位置づけられているわけです。
さきに「軍事上やむを得ない」場合に敵兵の降伏を認めない余地ありと述べましたが、この「余地」もまた、「文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求」に即してその範囲を限定しなければならない。
法の<論理的整合性>というのは、この法の「趣旨」→個々の条文という全体的な論理的連関の整合性(<内容>的に規定された<形式>的整合性)なんです。
戦時における行為が戦時国際法「違法である」か「違法でない」かの法的判断を下す場合、まさにその法律の「趣旨」とそれに規定された個々の条文の<内容>こそが問題なのであって、その<内容>を抜きにした法の純粋形式的な<論理的整合性>なんてありえないんです。
小室さんのように、「文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生ズル」という「趣旨」と個々の条文の<論理的連関>を見ずに、個々の条文だけを機械的に摘み出すと、「ハーグ陸戦法規」全体の戦時国際法としての<論理的整合性>を見失い、法の趣旨から完全にずれまくりの第二十三条解釈やらかしちゃうわけです。
[秀さんのコメントへの感想7]
> 法律というのは、その行為が「違法である」か「違法でない」かどちらかに決めなければなりません。両方が同時に成り立つような「矛盾」や、どちらでもないという「排中律」を否定するような結果は出せません。
もしわたしが、南京事件の投降兵大量殺害は「合法」であり同時に「違法」であるなんて議論(なんかオーケンの「ELPはELPであってELPではなぁ〜〜い」を思い出すな)をしているのなら、「矛盾」や「排中律」に言及して批判されてもいいのでしょうが、わたしはそんな議論をしてるんじゃないんです。
南京事件の投降兵大量「処断」が違法か合法か?…というような厳正冷徹な法的判断においては、それが軍事上やむを得ない場合か否か?…の現実具体的な緻密な<内容>的検討すなわち「現実のリアルな観察」(過去の歴史的事件の場合は実証事実的探求による歴史的事実の確定)が「重要」である。そういう「現実のリアルな観察」抜きの‘論理’は成り立たないと言っているのです。
【補注1】
ちかぢか時枝誠記『国語学言論』が岩波文庫化するそうですが、「アプリオリズム」に関して、目の覚めるような鮮やかな方法論論議をしていますので紹介します。
「凡そ、真の学問的方法の確立或いは理論の帰納ということは、対象に対する考察から生まれて来るべきものであって、対象以前に方法や理論が定立されて居るべき筈のものではない。それが学問にとって幸福な行き方であろう。たとえ対象の考察以前に方法や理論があったとしても、それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮説として、或いは予想としてのみ意義を有するのである」(『国語学原論』岩波書店 4頁)
わたしがこの時枝の立言を初めて読んだのは滝村さんの『マルクス主義国家論』で、さっそく古書店で買い求め一読、難しいながらも、こういう人を本物の学者というんだなあと感動したものでした。
<方法>や<理論>というものは、アプリオリに頭の中にあるのではなく、あくまでも「対象の考察」から生まれてくる。「対象の考察」以前に<方法>や<理論>があったとしても、「それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮説」にすぎない。これは実にヘーゲリアン的発想であり、三浦さんが時枝誠記に「本物の学者」をみたのは宜なるかなと思います。
ちなみにヘーゲルはカント批判哲学批判の中で、その方法的アプリオリズム批判として次のように述べています。
「批判哲学の一つの主眼点は、神とか事物の本質とか等々の<認識>に取りかかる前にあらかじめ<認識能力>そのものが吟味されて、それがそのような仕事をする能力をもつかどうか調べられねばならないとするところにある。仕事に取りかかる前に、その仕事のための<用具>となるべきものをあらかじめよく知らねばならず、道具が不十分ならば、ほかのいっさいは徒労であろうというわけである。
この考えは至極もっともらしく見えたので、ひじょうな賛嘆と賛同を呼び起こして、認識の働きを、<諸対象>への関心とそれらの研究からそれ自身へ、形式的なことがらへ、引き戻した。
しかし、ことばで欺かれまいとするなら容易にわかるはずのように、なるほど他の道具ならば、その道具の向けられている固有の仕事をやってみないでも、別のやり方でそれを調べて判定することが出来はする。しかし認識作用の吟味は<認識しながら>でなければ行われようがない。このいわゆる道具なるものの場合は、それを吟味するとはそれを認識することに他ならない。ところが、認識する<前に>認識したがるというのは、<あえて水にはいる前に泳ぎ>を習おうというあのスコラ学者の賢明な意図と同じように、不条理である」(『エンチクロペディー』「序論」第十節 『ヘーゲル全集第一巻』岩波書店 真下信一 宮本十蔵訳)
【補注2】
現実の<客体>的な<世界>の存在を、「素朴実在論」だとして否定するのが観念論ですが、観念論とアプリオリズムというのはセットになっています。
唯物論の立場では、現実の<客体>的な<世界>の存在を前提に、その現実の<世界>に内在する<弁証法性>(客体的な論理)を、人間<主体>が捉えることで<弁証法>が成立すると考える。これは、世界認識においてアプリオリズムを退けるということでもあります。<弁証法>もまた人間<主体>の認識の一つのあり方ですから、認識はアプリオリに頭脳の中に存在するのではなく、<客体>的な<世界>の中から汲み出されるものだと捉えるからです(主体―客体)。
これにたいして観念論は、「人間<主体>と離れた独立的な実在‘世界’などない」という立場を取ります。<世界>というものを、人間<主体>と離れた独立的な<客体>と捉えるのではなく、人間<主体>の側にアプリオリに備わっている思惟能力を駆使することで、人間<主体>の側の<主観>に映じてくる<客観>的世界こそが<世界>である。したがって、<世界>は「われわれが見える通り捉える通りにしか見えないし捉えられない…」という発想になります(主観―客観)。
【補注3】
「理論の出発点の前提」というのを、アプリオリズムとの関係でちょっと見てみることにしましょう。
われわれの「理論の出発点の前提」というのは、学校の教科書に限らず、家庭学校地域での親兄弟友人知人たちとのつながりの中で、あるいはテレビや漫画、小説などの媒体からの情報を受け取る中で、すなわち現実の精神生活を営む長い長い過程の中で、自然成長的に頭の中に培養されます。
これが大学生になると、たとえば経済を専攻する経済学部生の場合、自分がついた先生の勧める教科書で、その「前提」がほぼ決まります。先生がマルクス派で『資本論』なら、その学生は「理論の出発点の前提」として、現実の経済現象を捉えるとき、<マルクス経済学的>に経済現象をみるようにその認識が固定化されます。先生が近経で教科書にサミュエルソンを選べば、経済現象を捉える認識の枠組みはサミュエルソン的に固定化されます。そういう意味では、「理論の出発点の前提の選び方というのは、ある種の恣意性を含む」ものです。
しかし、これは教科書で習い覚えた「方法」なり「理論」で現実をみているだけで、別にそれ自体は学問でも理論活動でもなんでもありません。学生がほんとうに学者になりたかったら、自分の「理論の出発点の前提」そのものを<相対化>しなければならない。それができなかったら、彼彼女は、単なるマルクス信者であり、サミュエルソン信者であり、フリードマン信者でしかない。
では「理論の出発点の前提」そのものを<相対化>するとはどういうことか?
最初は誰でも教科書から入ります。その教科書に盛られた理論や方法に従って、現実をみる。しかし、その教科書の理論や方法というのは、自分で創造したものではない。人様の創造した借り物を自分の頭に入れている。時枝の言葉でいえば「対象の考察以前に方法や理論がある」ということです。あったとしても、それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮説として、或いは予想としてのみ意義を有するのである」(『国語学原論』)。これを具体的なイメージとして言うと、頭の中に、マルクスならマルクス的な<経済>、サミュエルソンならサミュエルソン的な<経済>のイメージ(理論的認識像)を創り上げると言うことです。
しかし、時枝の言い方を借りれば、自分の頭の中に仕入れた理論的認識像というのは、「それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮説」に過ぎません だから、本当に自分も学者になりたかったら、あるいは学者にならなくても、自分の頭で<主体>的に物事を思考できるようになりたかったら、経済なり政治なり言語なりの現実の対象的事象を、自分の頭で捉える訓練努力が必要です。
これを具体的なイメージとして言うと、頭の中に創ったマルクスならマルクス的な<経済>、サミュエルソンならサミュエルソン的な<経済>のイメージ(理論的認識像)とは別に、自分なりに現実を捉え、自分なりの<経済>のイメージ(理論的認識像)を頭の中に創り上げるプロセスということです。
すなわち、経済なり政治なり言語なりの<現実>の対象と自分自身がきっちりと向き合い、現実的事象に内在する論理を掴み、その過程で、とりあえず頭に仕入れた「暫定的な仮説」が真理かどうかを吟味しなければならない。その結果、「暫定的な仮説」をあらためて真理として継承することも有れば、修正することもあればときには投げ捨てることもある。たとえば、マルクスならマルクスの<経済>のイメージ(理論的認識像)を、そのまま継承することもあれば、そうでないこともある。しかしその段階までいけば、もはやマルクスに寄りかからず、<現実>としっかり向き合い、<現実>の中から自前の<経済>のイメージ(理論的認識像)を<自力>で頭の中に創ったことになる。
真理というのは、現実に内在する<論理>をきちんと捉え<理論>化しているからそれは真理と呼ばれるのであり、真理の基準はあくまでも現実です。わたしは社会科学者でも理論家でもありませんし、プロの研究者の投下労働量には遠く及びませんが、それなりに真剣に現実と向き合い、現実の中に内在する<論理>を掴む主体的努力をしてきたつもりです(その結果として、三浦さんの学問論、滝村さんの国家論が最強の<理論>的武器になりえ、己の<思想>的基礎を構築し得るという結論に達したわけです)。
しかしアプリオリズムの発想を抱えた者には、「暫定的な仮説」を現実とつきあわせて真理として継承したり修正したりときには投げ捨てるという、まともな<主体>的努力ができません。
わたしは二十歳の頃、宇野経済学をそれこそ教科書的に学びました。教科書的学びというのは、教科書=既成の真理の集積として受け止め、その既成の真理で認識の枠組みを頭の中に作り上げ、その枠組み通りに現実を捉えられるようになる…というのを目標としています(この点は「社会科学の学びと懐疑精神」を参照していただければ嬉しいです)。
しかし、そういう教科書的学びでは、その教科書そのものが果たして本当に現実をちゃんと捉えた真理なのか?…という自己反省ができにくくなります。
たとえば、弁証法でも形式論理学でも法律学でも経済学でもなんでもいいですが、学校の教科書で学び、その論理でもって現実を捉える場合、その教科書はあくまでも「暫定的な仮説」に過ぎず、現実とつきあわせて真理として継承したり修正したりときには投げ捨てるべきものに過ぎないという理論的自覚がないと、
自分が会得した論理そのものが間違っているか正しいか?…という自己反省
は難しくなる。教科書を既存の真理の集積として受け止め、その既成の真理で認識の枠組みを頭の中に作り上げ、その枠組み通りに現実を捉えられるようになればなるほど、そもそも頭にできあがった「認識の枠組み」そのものを相対化できなくなる。ちょうど、新興宗教の信者が、自分の頭の中にがっちりとはめ込まれた信仰体系を疑うことができなくなるのと同じように。これがアプリオリズムの恐ろしさです。
戻る