目次
(以下は、「数学屋のめがね」のコメント欄に投稿する予定のものでしたが、あまりにも長くなり弾かれてしまうので、投稿しなかったものです)
秀さん、コメントのHPでの引用を許可して戴き感謝申し上げます。
「<論理>的また<理論>的アプリオリズムの問題 ― 小室直樹氏の南京投降兵処断「正当化」(合法化)論 ―」
をアップしましたのでお知らせいたします。
わたしは「南京事件」問題のビギナーで読んだ本も資料も少なく、その犠牲者数など「南京事件」の具体像について<全体的・体系的>に検討を加え、この問題に対するわたし個人の結論的総括的<評価>を述べることは、現時点ではできません。ここでのわたしの議論はあくまでも小室さんの投降兵処断「正当化」(合法化)論の検討ですから、投降兵殺害問題に話を限定しています。今後勉強が進めば、ここに述べた見解を修正することもあるでしょうが、現時点ではこれがわたしの「暫定的結論」です。
秀さんは、徹底的に情緒論感情論を排し<当時>の「戦時国際法」を厳密かつ冷徹に南京の投降兵処断問題に適用する限り、小室さんの「論理」が成り立つとお考えなのかもしれません。しかし実際は逆で、「徹底的に情緒論感情論を排し<当時>の戦時国際法を厳密かつ冷徹に南京の投降兵処断問題に適用」したら、“敵味方の司令官双方の合意による「正式な降伏」がない以上、投降兵を「降ヲ乞ヘル」と認めず捕虜にせず皆殺しにしても合法”という‘論理’は成り立たなくなります。小室さんの誤謬はそれを指摘するだけなら簡単なことで、わずか数行で済みます。
【 もしそんな‘論理’が成り立つなら、「ハーグ陸戦条約」の立法<趣旨>とそれに<内容>的に規定された「ハーグ陸戦規則」個々の条文とりわけ二十三条ハ項(「降ヲ乞ヘル敵」の殺傷禁止)は空洞化形骸化し実質的に無意味なものになってしまう。「ハーグ陸戦規則」の条文条項を実質無意味化する‘論理’を、こともあろうに「ハーグ陸戦規則」の法解釈そのものから‘論理’的に導き出そうとするなど、まったくの「悖理」である 】
しかしこの数行〜十行内の話を結論的に提示するためには、その誤謬がどこからどのように生まれてきたのかトレースしながら、彼の議論を論理的に解体するかたちで展開しなければならず、かなり大変というか手間がかかります。彼の議論には認識論的・方法論的・理論的・思想的に様々な水準の諸問題が絡んでいて、それを解きほぐさなければならないからです。
小室さんの南京投降兵処断「正当化(合法化)」論は、@ 議論の設定の仕方という<形式>的なところでも、A 議論の中身<内容>においても間違っています。
いま<現在>に生きるわれわれが、「南京事件」における投降兵大量処断が、<当時>の国際法上の基準に照らして違法か合法か?…という法律的判断を下す場合、
【 その「処断」が「軍事上やむを得ない」場合であったと言えるか否か?…の現実具体的な緻密な<内容>的検討、南京事件に関する実証事実的な史学的資料を踏まえた史実の解明が必須 】
です。ところが小室さんは、南京の「投降兵処断」問題(「便衣兵処刑」ではなく)を、その処断が「軍事上やむをえなかったか否か?」という南京事件の具体的<内容>的検討を抜きにして、南京の投降兵に「捕虜資格」有りや無しや?…を<形式>的に問うところから、アプリオリに議論をスタートさせています。
<内容>をぶっこ抜いた「捕虜資格」の<形式>論議から論理必然的に、“敵味方の司令官双方の合意による「正式な降伏」がない以上、投降兵を「降ヲ乞ヘル」と認めず「捕虜資格」なし、だから捕虜に取らず皆殺しにしても合法”という‘論理’が導き出されます。
この‘論理’を認識論的レヴェルで捉え返すと、B 「ハーグ陸戦規則」の<規範>としての<客観的規制・拘束力>(内容的規定性)を無視することで成り立っている議論ということであり、さらにこれを論理学的な言い方をすれば、C 「ハーグ陸戦規則」の「戦時国際法」として<法的論理整合性>を捉え損なっているということでもあります。
<法的論理整合性>というものは、<内容>を捨象した純粋な<形式>ではなく、法の<内容>(内実)に規定された<法制的形式>における<論理的整合性>です。したがって法律学における法解釈というのは<内容>と<形式>を統一的に取り上げるものであって、「法学的論理」を単純に「形式論理」と同じレヴェルで考えてはなりません。
小室さんは『封印の昭和史』の中で、投降兵が「捕虜であるかないか」を決定するのは「攻撃をする方」であり、「捕虜でないと決定すれば即座に殺してもいい」(66頁)と述べています。なるほど、たしかに<意思決定権>の所在如何という<形式>論議としてなら、「捕虜に取る取らない」を現実に「決定」(意思決定)するのは「攻撃する側」と言ってよい。そんなの当たり前と言えば当たり前の話です。
しかし「南京事件」で問題になっているのは、「捕虜でないと決定すれば即座に殺してもいい」なんて抽象的一般的な話じゃあない。問題の核心は、
【 その「捕虜でない」「捕虜に取らない」という「決定」(意思決定)の<内容>そのものが、<当時>の法に照らして妥当であったか否か?… 】
なんです。南京事件の投降兵殺害の場合、日本軍の指揮官(軍司令部レヴェルか下級指揮官かはともかく)が<主観>的に“捕虜にする必要なし!”と「判断」(意思決定)し、将兵たちも“オレたちは捕虜を殺してるつもりはない”と<主観>的に思いながら投降兵を「処置」した事例です。
投降兵処断が「軍事的に必要」と<主観>的に「判断」(意思決定)するのは、なるほど<形式>的には日本軍司令部及び現場の指揮官たちですが、しかしその<主観>的な「判断」(意思決定)の<内容>は、“捕虜に取る取らないはこっちの勝手”なんて単なる‘主観的恣意’レヴェルのものじゃあない。「ハーグ陸戦規則」を遵守す<べし>という<客観>的な法的遵守義務に拘束されるというかたちで<内容>的に規定されています。すなわち、
【 <当時>の日本軍将兵がいくら<主観>的にそう思っていたって、<当時>の「ハーグ陸戦法規」第二十三条二項の規定に照らして「捕虜」に取る<べき>投降兵はこれを「捕虜」にしなければならないという<客観>的な法的遵守義務は、厳然としてある 】
ということです。この「法的遵守義務」を<当時>の南京の日本軍が犯していたか否か?…を、<現在>のわれわれ日本人が国際<法>的に評価判定する場合、<当時>の日本軍将兵が<主観>的にどう考えていたかを法解釈の基準にはできません。あくまでも、<当時>の国際法学界の状況を踏まえた上で、<当時>の日本国内の法学者たちの国際的に通用しえる見解も参照しながら、
【 <当時>の日本軍将兵が、その投降兵殺害は「軍事上必要」だったといくら<主観>的に思っていたとしても、<当時>の「ハーグ陸戦規則」に照らして「軍事上必要」と解することができない場合、<客観>的に「不法殺害=虐殺」と認定する 】
ことになります。「南京事件」を一つの裁判、国際法廷の事案と考えてみると、<当時>の日本軍の「戦争犯罪」が<現在>の国際<政治>世論において非難糾弾されているとき、<現在>のわれわれ日本人がそれを国際<法>的レヴェルで「弁護」するというのであれば、日本国内の少数説や異端説の類を基準にしても、国際<法>的になんの説得力も持ちえません。「<当時>の国内外の国際法学界の通説」に照らして、<当時>の日本軍の行為行動がけっして違法ではないと<客観>的に証明してみせなければならない。そしてそのためには、<当時>の投降兵処断が「軍事上やむを得ない」場合であったと言えるか否か?…の現実具体的な緻密な<内容>的検討、南京事件に関する実証事実的な史学的資料を踏まえた史実の解明が必須になるわけです。
ところが小室さんにはその<内容>的検討がまったく欠落している。この欠落から論理必然的に、戦争当事者の<主観>を超えた「戦時国際法」<規範>としての法的遵守義務の<客観性>を見失い、「ハーグ陸戦規則」の法的論理整合性を捉え損なうことになる。
その結果、通説と離れた‘小室説’(指揮官双方の正式「降伏」合意がないんだから皆殺しオッケー)を以て南京の皇軍を「弁護」するという、決定的な「弁護方針」ミスを犯すことになってしまったというわけです。
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