
わたしは、△よびAさんへのメールの中で、次のように述べました。
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弁証法というのは、簡単な言い方をすると、直接は<実証的>に眼に見えてこない対象の内在的な<一般論理構造>を透かし見て、それを <一般理論的>に体系構成する方法です。「直接は実証的に眼に見えてこない」はずのものをあえて<見る>‥ってとこがポイントで、これはどうやって可能か?
それを可能にするのが、<抽象=止揚>というヘーゲル以外の誰によっても着想できなかった発想であり、その場合、ヘーゲルの<関係=本質>概念が決定的なキーポイントになる。
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これに対して、Aさんがわたしにただした疑問点は、おおよそ次のようなものです。
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「直接は実証的に眼に見えてこない」ものを透かし見るというのは、数学も論理学も同じではないだろうか?
数学も形式論理学も弁証法も、事項・事象間の関係を抽象的に扱っているという意味で共通している。いずれも自然・社会・精神を超越した一般的なレベルでの理論になっている。三者とも、見えないものを見るための武器であることに違いはない。論理的な抽象という点では、弁証法も数学も形式論理学も共通したものだということになる。では弁証法の特殊性は何なのか、上の佐佐木の説明からは明瞭には読みとれない。
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このAさんの問いに対して、わたしは、自分のHPの当該箇所を再度引用しました。
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即物経験的方法でも、現実具体的な現象的姿態が孕む個別性 ・特殊性をどんどん抽象していき、諸事象の共通性を抽出するという論理解析は当然おこなわれる。
これは科学的抽象の一つの在り方であり、個別は個別、特殊は特殊とふわけし、普遍と個別特殊を切り離していく抽象作業である。
しかしそれは、事物A、B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て(捨象)、事物の形式的共通性を分離・抽出するという形式主義的抽象であって、一定の限定に置いてのみ正当な方法であり、これが唯一の科学的方法と固定化されると、誤謬に転化する。
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以上述べたことは、<数学的抽象>(あるいはまた形式論理学的抽象)と<弁証法的抽象>の<方法>的相違の問題です。
いうまでもなく数学というのは<数量>を学的対象とする学問です。そこでは、現実具体的な個々の事物・事象の内容(質)を直接問うているわけではなく、個々の事象・事物を<数量>というレベルに抽象する、<数量>に還元して扱う。
たとえばリンゴであろうがオレンジであろうが、<数量>としては1個2個3個…という風に、リンゴとかオレンジとかの<質>を問わず、1個は1個として扱います。これは別の言い方をすれば、
リンゴやらオレンジやらの個別具体的な<内容>(質)を論理的に<捨象>して(切り捨てて)、個別具体的に存在する事物・事象を、1・2・3・4…という<形式>(量)において取り上げる
ということです。数学の世界における論理的抽象というのは、個別具体的な事物・事象に固有の<内容>を論理的に<抽象=捨象>するものであり、これは形式論理学においても同じでしょう。
数学的抽象や形式論理学的抽象は、現実具体的な現象的姿態が孕む個別性 ・特殊性をどんどん抽象していき、諸事象の共通性を抽出する論理解析であり、これは別の言い方をすれば、
個別は個別、特殊は特殊とふわけし、普遍と個別特殊を切り離していく抽象(=捨象)作業
ということになります。これは、事物A、B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て(捨象)、事物の形式的共通性を分離・抽出するという形式的抽象であって、一定の限定に置いてのみ正当な方法です。
社会や歴史あるいは精神文化的事象を扱う学的フィールド(社会科学・人文科学)よりも自然科学の方が、数学や形式論理学の数学的抽象や論理的発想と馴染みやすく、内容を論理的に抽象=捨象する形式的抽象の方法を適用する余地が広く大きい。しかし、数学や形式論理の方法的発想が正当なのは一定の限定に置いてのみであって、数学や形式論理の方法発想こそが「唯一の科学的方法」と固定化され至上化されると、誤謬に転化することにもなります。
「哲学は数学からその方法を借りてくることはできない」と喝破したのはヘーゲル(『大論理学』)ですが、この「哲学」を「社会科学」(あるいは言語学のような人文科学)に言い換え、「数学」を「数学的抽象」また「形式論理的抽象」と言い換えれば、社会科学と数学・形式論理学の関係は、まさにヘーゲルが喝破したと同じ事になります。数学や形式論理の方法発想では、社会科学を弁証法的<体系>として構成できません(注)。
これは、論理的抽象と概念構成のありかたが、数学や形式論理学と社会科学では異なっているからです。
社会科学であろうが自然科学であろうが、そもそも概念というものは、個別的特殊的事象の認識を否定しつつ内に含むすなわち<止揚>したものではあります。
しかし、たとえば、リンゴ、オレンジ、桃etc…という具体的個別を論理的に抽象していき「果実」という概念を構成したとしましょう。その「果実」という普遍一般的な抽象概念から、論理必然的に、「果実」→「リンゴ」と展開できるでしょうか?
できません。「果実」→「オレンジ」とか、「果実」→「桃」、「果実」→「柿」etc…という具合に、<果実>という概念から様々な個別が個別バラバラに導出できるからです。必ず、論理必然的に<果実>→<リンゴ>→<オレンジ>→…なんて<体系>的展開ができるわけではない。
事物A、B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て(捨象)、事物の形式的共通性を分離・抽出するという形式的抽象において成立する概念というのは、そういうものなのです。
これに対して、たとえばマルクス『資本論』における「商品」という概念をみてみましょう。「商品」は、そこに内在する価値属性から、論理必然的に「商品」と「貨幣」の対立を生み出し、蓄積された「貨幣」は一定の条件において「資本」に転化します。これは現実の歴史的過程としても論理的行程としてもそうです。
だから「商品」という概念は、「果物」というような個別特殊的な内容を論理的に捨象した概念とは違って、「商品」→「貨幣」→「資本」…という論理必然的展開を可能とする<関係>概念、あたかも価値が以て自らの本質を開花・顕現するかの如く構成される<関係>概念すなわち、
普遍―特殊―個別という媒介=止揚<関係>を必然化する概念
として定立されるわけです。
以上、「果物」というような概念と、『資本論』「商品」というような概念
との相違を述べてみました。前者を仮に、
<抽象=捨象>概念としての一般的抽象概念(類概念)
後者を仮に、
<媒介=止揚>概念としての関係概念
とでも命名しておきましょう。
こういう<関係>概念というのは、個別特殊的な内容を捨象するのではなく、論理的に抽象=止揚し内に含んでいるからこそ、概念が概念を算出するが如き上向展開し、壮大な<体系>を構成することが可能となっています。
社会科学の場合は、その諸概念というものを、あたかも概念が以て自らの本質を顕現する(より特殊的個別的諸概念へと自らを<止揚>していく)ものとして構成する。弁証法的体系において諸概念を組み上げ、その<体系>をもって学的真理を証明していかなければならない。数理的論証も実験的実証もできないがゆえに。
(注)
経済現象とりわけ市場経済というのは、社会の政治法制的な側面から離れ、経済現象それ自体として自立的かつ自律的に旋回するところがあるから、マルクスが言うように、「経済的社会構成」の発展をあたかも「自然史的過程」として扱うことができるし、また経済現象には量的な側面があるから、その量的な側面を分析するために数学的な手法を使うことができます。
この数学的手法の駆使というのは、市場経済というものを現実政策的・実務的にどう上手く運営していくかという政策的ノウハウに関わる近代経済学がそうです。
しかし、近代経済学というのは厳密な意味では<社会>科学=経済学の本流ではない。それはちょうど、法政策のノウハウに関わる法律学という名の政策・実務学が、<社会>科学=政治学の本流ではないのとまったく同じ意味においてです。
近経というのは、数学的に高度になればなるほど、<社会>科学として痩せ細っていくというか、<社会>全体との論理的連関において経済現象を捉えなくなる。<社会>を経済外的な与件として捨象(切り捨て)し、純粋に「経済」だけを、さらには純粋に「市場」だけを取り上げ、それを数学的手法でもって分析する。
<社会>を<経済>という枠組みに切り縮め、<経済>を<市場>に切り縮める。この発想を徹底的に突き詰めていけば、人間の活動というものをすべて市場経済レベルでの経済合理性の側面からだけ論じるということになりかねない。
実際、フリードマンなどは、麻薬を禁止せず個人の「選択の自由」に任せるべし(麻薬をやる人間は麻薬をやる快楽と中毒になるリスクを合理的に比較考量して合理的に決定しているのだから、その個人の「選択の自由」として認めるべし)なんて電波レベルの話にまで突っ走ってしまう。これはノーベル賞級の学者でもバカはバカなんだなあと見るべきではないでしょう。ノーベル賞級の大秀才だからこそ、己が会得した論理に徹頭徹尾忠実で、その己の論理を純粋に極限まで徹底化するということです。
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この社会科学における論理的<抽象=止揚>と<体系>の問題は、社会科学の著作と物理学や化学など自然的諸学の著作の相違を考えれば、より分かりやすいでしょう。
物理や化学の論文は、たとえば『資本論』の如きものものしい壮大な<上向法的理論体系>を構成しません。
その理論の学的<真理性>の証明は、「**は○○の数式によって証明された」という数理的論証のかたちを取ったり、様々な実験データを駆使し図式や図解ときには画像・映像やらをふんだんに使い、提出した理論の<真理>たるゆえんを実証的に証明することができます。しかし社会科学はそういうわけにはいかない。
いや、もちろん社会科学もまた、数式も使うし様々なデータを駆使することができます。が、<資本とはなにか?>とか<国家とはなにか?>というような<本質>論的究明は、数理的にあるいは実験的実証によってその議論の<真理>性を証明するようなものではない。
では、<資本とはなにか?>とか<国家とはなにか?>という本質論的究明において、その理論の<真理>たるところを、なにによって証明するのか?
ずばり<体系>をつくることによってです。
この点は、А敲箘筍臓/人は単純であり複雑である(三浦つとむ)−<体系>を構成することの意味−(読者の方々の反応に寄せて2)】で述べました。以下中心になる論点を引用しておきます。
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「真理は単純であり複雑である」という弁証法的格言は、ヘーゲル的に言えば「真理は全体である」ということです。滝村国家論は、この「真理は全体である」という根本発想を学的に継承しています。
ヘーゲル系統の発想では、たとえば「政治の本質とは○○である」とか、「国家とは**である」という抽象的な本質規定それ自体を、ぽつんと提出することが、真の学の課題なのではありません。
また、特定の時代・特定の社会的状況に密着したかたちで、経験法則的・直観的レベルで理論的諸規定を提出することは、たとえその規定そのものがどんなに鋭く現実を捉えたものであっても、それは厳密な意味での学的な<概念>レベルにはないと判定されます。
たしかに、「三権分立」にしても、「統治・行政」概念にしても、モンテスキューやヘーゲルやトクヴィルなどの偉大な学匠たちは、理論的に滝村と近い把握を提出しています。
しかし、彼らの著述を読めば、厳密に<概念>というに相応しい理論的規定へと構成し、それら諸概念を厳密な論理的連関において<理論体系>へと包摂・構成しえたわけではありません(この点は、ヘーゲル『法哲学』の哲学大系としての哲学的限界の問題です。哲学大系は科学的体系たりえないということは、HP第二論文で触れておきました)。
『国家論大綱』の場合は、「統治・行政」概念にしても「三権分立」概念にしても、<権力とはなにか?>というもっとも基底的な本質概念に大きく<媒介>されるかたちで提出されています。
基礎的な諸概念が、本質との<関係>(媒介=止揚関係)において、それぞれの論理的位相を確定し、重層的・立体的な<構造>論的展開において、それぞれが論理必然的に<ここしかない>というしかるべき位置に据えられている。
そういう体系構成への組み上げが出来ているからこそ、たとえば、ヘーゲル国家論に対して、
立法権・統治権・君主権という三権の実体的契機の把握は、まったく異質の論理的レヴェルに関わる諸概念を、同一ヴェルで並列させるという「ヘーゲルらしからぬ理論的失態」である(『大綱』上巻643頁)
と批判することもできるわけです(注2)。
現実的事象の理論的解明において、どの概念をどのように、どのレヴェルで駆使するか?……ということが、重層的・立体的な<体系構成>の中で論理的に確定していなければ、学説批判の理論的基準が確定しません。
諸概念は、それ自体に意義があるのではなく、弁証法的体系を構成する<諸契機>として、体系的に構成され位置づけられてはじめて、それらはまさしく<概念>なのであって、そう言う意味で「真理は全体である」
こういう<方法>は、とりわけ実験的実証も数理的論証で真理をテストし確定しがたい<理論科学>(政治学や経済学など)のような学的領域で、その<方法的>威力を、最大限に発揮するといえるでしょう。
もちろんこれは自然科学に弁証法が有効ではない、という意味でいっているのではありません。そうではなく、政治学や経済学のような、実験的実証も数理的論証で<真理>を確証しがたい学問領域だからこそ、「真理は全体である」というヘーゲルの根本発想が、のっぴきならないものとして<方法的>に必要・必然化されるということです。
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先にも述べましたが、この<体系>は、ヘーゲル『論理学』の「本質」あるいは『資本論』『国家論大綱』の体系構成をみれば分かるように、<関係>概念を二重のレベルで<関係>概念としています。
a)もっとも基底的・基礎的な「権力」論そのものが、<観念的に対象化された意志>(規範)に基づく意志の支配―従属<関係>というレベルで捉えられ構成されている。
b)その基底的・基礎的な「権力」論が、一般的権力論(権力とはなにか?)→一般的国家論(国家とはなにか?)という論理構成、権力論の発展的構造論的具体化としての国家論という展開(経済学の『資本論』と政治学・国家論は、その対象が異なるがゆえに異なる構成ではあるが、しかしその論理的行程としては、<権力>がその<権力>としての本質を以て自ら開花・顕現していくかの如く展開されるところは同じである)となり、重層的立体的な<関係>(媒介=止揚<関係>)として体系的に構成されている。
いいかえれば、もっとも基礎的規定的な権力本質論に大きく論理的に<媒介>されるかたちで、より単純な概念からより複雑高度な政治的・国家的諸事象に関わる諸概念へと、大きく理論体系的に整序・配置・構成されていく。
これがヘーゲル流の<関係=本質>概念であり、<関係=本質>を核心とする体系構成法としての弁証法体系です。
社会科学における弁証<法>という<方法>は、まさにこの<体系構成法>なのですが、これを可能としているのは、ヘーゲル以外の誰によっても明瞭な方法的自覚において捉えられなかった<論理的抽象=止揚>という発想です。
すなわち、事物A、B、C、D、E……に固有の内容的特質(個別・特殊)を切り捨て(捨象)、事物の形式的共通性を普遍として分離・抽出するという形式的抽象ではなく、個別特殊の認識を内容的に<止揚>し内に含む普遍概念構成です。
個別特殊に関わる認識を内容的に正しく<止揚>しえてはじめて、もっとも単純かつ抽象的な基礎概念(普遍)からより特殊・より個別的な諸概念を論理必然的に導出することができるわけです。
対象的事象の複雑多様な現象的攪乱的諸要因を論理的に<抽象=捨象>しつつ、
現象(個別)→構造(特殊)→本質(普遍)
へと論理的に<抽象=止揚>していき(下向法)、その獲得されたもっとも単純で基礎的本質規定から出発して、より特殊的個別的な諸概念を<諸契機>としてそれぞれの概念的位相を確定し、論理体系的に位置づけていく(上向法)。
こういうものものしい体系が、社会科学においては特殊に方法的に必要かつ必然化されるわけです。
このことを自然科学の側から捉え返せば、数理的論証・実験的実証で真理を確定し、その成果の上にさらに真理を累積させていく自然科学の場合、社会科学ほどには、弁証法というものが、<体系構成法としての弁証法>という<方法>的レベルで、のっぴきならない必要かつ必然的な<方法>として現れてこない、ということでもあります(注)
(注)もちろんこれは、自然科学には弁証法が無効だというような話ではありません。
そうではなくて、自然科学の場合、社会科学と違って数理的論証も実験的実証も可能だから、逆に、社会科学に比べれば、<体系構成法としての弁証法>という<方法>的レベルで、のっぴきならない必要かつ必然的な<方法>として現れてこない。
いわゆる「弁証法の三大法則」のような「弁証法的運動諸形態」が、自然現象の中でどう現れてくるのか?…自然の弁証法的性格を捉えるというレベルで、弁証<法>という<方法>が現れる。
いわゆる「弁証法の三大法則」というのは、事象の歴史的時間的<過程> そのものを、<構造史>的<過程>として把握するとき成立するものだと思います(この点は 崋匆餡奮悗叛鎖晴奮悗諒法的差異」の注で、「量質転化」の問題の中でちょっとだけ触れています)。
これを逆に言えば、三大法則そのものが弁証法というわけではなく、弁証法的な構造論的<過程>把握によって捉えられた「弁証法的運動諸形態」に関わる諸規定が「三大法則」になるということでしょう。
とにかく、「直接は実証的に眼に見えてこない」はずのものをあえて<見る>‥ってとこがポイントというのは、実験的実証や数理的論証で<真理>を確定できないと言う特殊な理論科学=社会科学(それ以外でも言語学だってそうでしょう)の学的特殊性をどう<方法>的に突破するか?‥というレベルで考えないといけない。
「弁証法の三大法則」とかそういう「運動諸形態」レベルでしか弁証法を考えられないと、社会科学は無理ということにどうしてもなるわけです。