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  真理は全体である(ヘーゲル)
 ― 読者の方々の反応に寄せてΑ 


 


「三浦つとむ関連リンク集」というサイトがあり、そのサイト運営者の方がわたしのHPをリンクしてくれています。この場を借りて感謝申し上げます。
 三浦つとむを学ぶ方々のHPをいろいろと見ているうちに、「数学屋のめがね」というサイト運営者の方が大塚久雄「社会科学の方法」に言及されているのを発見、久方ぶりに大塚を読んでみようかと思いました。
 そういうこともあり、袖振り合うも多生の縁というわけでもありませんが、サイト運営主の秀さんにご挨拶したところ、わたしの◆峇愀検疔楴素聴としての弁証法」について論評を賜りました。この場を借りて感謝申し上げます。

 秀さんの提示された論点というのは、以前わたしにメールを下さった方(かりにAさんとします)の論点と重なるところがあります。Aさんとはこれまでにとても有意義な意見交換をして戴いており、感謝しております。

 今回は秀さんやAさんにお答えするかたちで、「関係=本質としての弁証法」また「真理は単純にして複雑である」を再説しておきたいと思います。





「真理は単純にして複雑である」にも書きましたが、わたしの弟がHPを読み且つわたしの口頭説明を聞き、次のように感想を述べました。

「弁証法というから小難しいが、要するに、『あれもこれも』というのは、物事を多面的に見なくてはならない。でも、単に多面的という面的理解ではだめで、その多面的な把握が、立体的なものでなければならないってことだな」

 というのが、三浦つとむの読者(但し不勉強)ではあるけども、滝村国家論とは「縁無き衆生」である弟の感想でした。そうなのです!
 <弁証法>とか<体系>というとずいぶん堅苦しく難しい話に聞こえますが、

物事を「立体的」というレベルで<体系>的に捉える

というのは、別に社会科学者でなくても、われわれが主体的に社会の政治的経済的また精神文化的諸事象を考えていく上で、とても重要なことです。
 思想的に右であれ左であれ真ん中であれ、物事を深く広く捉える人というのは、「立体的」というレベルで物事を<体系>的に捉えることができています。ヘーゲルやらマルクスを読んでいなくても、また、別に社会科学者でなくても、現実と真正面から向き合えば、出来る人は出来るんです。 
 この深く広い洞見というのは、たとえばマルクスなどの場合には著述形態で<体系>を構成することになります。
 これにたいして、別に社会科学者でも何でもないが物事を深く広く捉える人の場合は、

直観的に物事の<本質>をズバッと鷲掴みにして、その<本質>的な洞察を以て、個別具体的・複雑多様な出来事をあらためて捉え返す

という頭の働き方をしています。

     (注1)

 たとえば、「市井の哲人」故山本夏彦翁などは、ヘーゲルもマルクスもきちんと読んだ形跡はなさそうですが、その簡潔且つ特異な名文を読む限り、そんじょそこらのマルクス主義者や左翼連中などよりよっぽど鋭い本質的把握を閃かしたりします(もちろん山本翁の言説すべてが鋭いわけではないですが)。
 むしろ、中途半端にマルクスを読み、頭の中に「抽象的な理想」を仕込み、その「理想」をもって現実を裁断する左翼的な人の方に、物事を「立体的」に捉えられない人が多いと思います。
 


  (注2)

 わたしは「本質=関係把握としての弁証法」で次のように述べました。

「もちろん、別に科学者でなくとも、優れた思想家や批評家、あるいは芸術家などが、事象に内在する本質を鋭く捉え、断章的に提起するようなこともありえる。だが、その場合には、現象→構造→本質という、科学的な論理解析プロセスの所産として本質論を提起しているというより、

   現象→(構造)→本質

  という、論理的直観力による本質理解のプロセスを取ることになる。」

 



 さて、「『あれもこれも』というのは、物事を多面的に見なくてはならない。でも、単に多面的という面的理解ではだめで、その多面的な把握が、立体的なものでなければならないってことだな」という弟の言葉を引用しましたが、それについてここで強調しておきたいことがあります。
 それは、「他面的」「複合的」「複眼的」というだけだったら、英米経験論だって同じだということです。
 経験論的発想では、現象の背後に不可視不動の「実体」を探る発想を「形而上学」として拒否し、現象過程のダイナミックで複雑かつ多様な機能的連関・諸相に即して理論を構成する。これは「他面的」「複合的」「複眼的」発想なのだといえばいえます。
 では、そういう発想とヘーゲルやマルクスはどう違うのか?
 ヘーゲル・マルクスの場合、その「他面的」「複合的」「複眼的」が<平面的>ではなく<立体的>であり、<立体的>というのは、

 事象の内部構造を<重層的>な媒介=止揚<関係>として捉える

 ということです。物事を<本質的>に捉えるというのは、

 事象の背後の構造を<立体的重層的>な媒介=止揚<関係>として捉える

 ということの別の表現なのです。
 英米経験論では、この媒介=止揚<関係>という発想にどうしても馴染めない。馴染めないからヘーゲルを「形而上学だ!」「わけのわからぬ神学的戯言だ!!」と非難することにもなる。
 フランス構造主義の場合は、事象の背後に隠れた「不可視」の内部構造を捉えようという問題意識の点では、マルクスと共通するところがありますが、しかし彼らの場合も、事象の内部構造を<重層的>な媒介=止揚<関係>として捉える発想ではない。構造主義的マルクス主義者のアルチュセールの如きは「止揚とは陰険な概念」であり「ヘーゲル哲学の残滓」にすぎないとまで言っています。
 わたしの率直な印象では、いかに「重層的」とか「諸構造」「諸矛盾」「諸審級」「諸水準」などという用語を駆使しても、その「重層」を「重層」たらしめる<止揚>という方法的核心を抜きにしては、現実の対象に内在する重層的立体的な<論理構造>を捉えた重層的立体的な<理論的体系>を組み上げることができないのだと思います。
 フランス構造主義といってもいろいろですが、たとえばアルチュセールの弟子のマルクス主義国家論者プーランツァスなどを読むと、『資本主義国家の構造』に盛られた諸概念の全体的網羅的な集成に、厳密に理論的な<体系性>を感じることができない。また、フーコーを読んでも、フランス的に絢爛たるペダンティックぶりと驚くべき博覧強記には圧倒(ちょっと辟易)されますが、これもやはり<体系的>ではない(まあフーコーは自分のことを「思想史家」と自己規定しているから当然なのかもしれませんが)。

 三浦さんは生前お弟子さんに「関係概念を分かる人は少ない」と漏らしていたということ。ヘーゲル・マルクスの<関係>概念は、英米経験論者やフランス構造主義者のそれとは異なるもので、<止揚>という方法的発想が分からないと関係概念は分からず、関係概念が分からないと弁証<法>という<方法>はわからない(しかも、ヘーゲルやマルクスにあっては、この<本質=関係>が二重に定立されているためよけいに難解)。


 以上が総論的な概括です。

(以下、秀さんHPの一部引用) 



――――――――――――――――――――


>「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「◆ 稻楴繊甦愀検簀聴としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。  ここで語られている内容そのものもたいへん興味深いのだが、その前段階として「本質」という概念についてもう少し考えたいような気分になった。それは、「本質」を「関係」として捉えるという思考の展開が、必ずしも自明に自然なものには見えなかったからだ。もう少し説明が必要なのではないかと感じた。何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるかというのを考える必要を感じた。 


            ――――――――――――――――――――


(以下わたしが秀さんのHPにお送りしたコメントに大幅に加筆したもの


)              ――――――――――――――――――――

 
 佐佐木晃彦です。
 HPお読みいただき感謝申し上げます。
 秀さんに刺激され、久方ぶりに大塚久雄を読んでいます。
 この人の文章には温和な人柄というか人品の良さみたいなものが滲んでいますね。研究者って一流であればあるほどちょっと変わってるというか偏ってるっていうかそんなところがあるけど、この人は学派をつくるくらいの人でありながらそんな感じがしない。なんてことを考えながら読んでいます。

>何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるか

この点は◆嵋楴繊甦愀犬箸靴討諒枉數 廚里曚に
А敲箘筍臓/人は単純であり複雑である(三浦つとむ)−<体系>を構成することの意味−(読者の方々の反応に寄せて2)】
 をお読みいただければ嬉しいです。
「関係」概念を駆使するというだけなら、英米の経験論者もフランス構造主義者も同じだと思います。イギリスの文明史家トインビーは、ハイエクの「社会」の本質規定を引用しながら次のように述べています。


「社会とは、人間存在の間に張り巡らされた網目(ネットワーク)全体のことである。したがって、社会の構成要素は人間存在ではなく、人間の間の諸関係なのである。一定の社会構造において、『諸個人とは関係の網の目におけるいくつかの結び目にすぎない』(ハイエク『科学の反革命』)」のである」(図説 歴史の研究)


  この『科学の反革命』の規定は、大著『法と立法と自由』にも述べられています。


「社会、あるいは、むしろなんらかの自由を持つ人間によって形成され成長した、多様な自己増殖組織(この全体だけが社会という名に値する)」

「社会を構成するのは、個人と、個人が創出する種々の組織との間に自生的に成長した関係網である」(『法と立法と自由』)


 トインビーもハイエクも偉大な学的知性であることは間違いないですが、しかしこんな規定は常識レベルのものでしかない。 
 いやしくも「社会とは何か?」という<本質>論議をするというのならば、

ではその「関係」「網の目(ネットワーク)」を創り上げている<もの>(核心)はなにか?…

ということがなにより問題になる。「多様な自己増殖組織」の『全体」が『社会』というのなら、

ではその「自己増殖」を可能とする<もの>(核心)はなにか?‥社会の本質規定に内容的にきちんと繰り込まないと(言い方を変えれば概念の中に<止揚>していないと)本質概念にならない。
 
「社会とは人間存在の間に張り巡らされた網目(ネットワーク)全体」という規定など、“社会とは「世」の「間」と書いて世間である”というレベルの話に過ぎないのです(注)。

 マルクスの場合は、<社会>や<人間>を<関係>概念のレベルで捉えるというとき、直接的な「社会関係」を取り上げているわけでありません。マルクスの言葉を引用してみます。


「黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、彼は奴隷になる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとで、それは資本になる。これらの関係から引き離されたら、それは資本ではない。そのことは、金がそれ自体としては貨幣ではなく、砂糖が砂糖価格ではないのと同じである」(『賃労働と資本』)


 ヘーゲル・マルクス流の<関係=本質>概念がもののみごとに、かつ分かりやすく書かれています。この文言を見ているだけなら、別に難解ではなく、むしろ「常識的」であるとすら思えるかもしれません。
 「常識的」なレベルというのは、たとえば、王様というのは、家来がいてはじめて王様は王様であるというレベルの話です。王という位は、王様の下に家臣たちという存在があってこそ王の位であり、この家臣との「関係」から「引き離されたら」、すなわち家臣たちが去ったり、あるいは家臣たちが彼を王と認めなくなったら、もはや王様は王様でなくなる。
 しかしマルクスは、そんな王様個人と家来衆の「間」の直接的な「関」わり「係」わりなどというレベルの話をしているわけではない。
 マルクスが言っているのは、紡績機械それ自体を「資本」と見るのではなく、紡績機械を「資本」たらしめる背後の<関係>を捉えることこそが、「資本とはなにか?」という<本質>論なのなのだということ。  そしてこの<関係>というのは、直接目にみえるAとBの「関係」なんて現象レベルのものではない。<関係>とは、

 直接現象レベルでは見えてこない(マルクスの名言を借りれば、「顕微鏡や試薬は役に立たない」)内部統一的な論理的<連関>(個別―特殊―普遍の重層的立体的な媒介=止揚関係)

 ということです。
 この発想がなぜ難しく分かりがたいかといえば、ヘーゲル『論理学』の「本質論」あるいは『資本論』の体系構成をみれば分かるのですが、その<本質=関係>概念が二重のレベルで定立されているからです。『資本論』を例にあげれば、

a)もっとも基底的・基礎的な「価値」論そのものが、「生きた労働」と「対象化された労働」の<関係>というレベルで捉えられ構成されている(物質的な対象化が創り出す<関係>)。

b)その基底的・基礎的な「価値」論が、商品→貨幣→資本…というように、以て自らの本質を開花・顕現していくかの如く、重層的立体的な<関係>(媒介=止揚<関係>)として体系的に構成されている。

「資本とはなにか?」という本質的な議論というのは、単なる抽象的一般的な「資本」の<本質>規定(自己増殖する価値の運動体)にとどまることなく、『資本論』という重層的立体的<体系>を構築することをもって「資本とはなにか?」という<本質>論といえる。
 これがヘーゲル流の<関係=本質>概念であり、<関係=本質>を核心とする体系構成法としての弁証法的<体系>です。『資本論』のエレメンタルフォルム「商品」という概念は、「商品」→「貨幣」→「資本」…という論理必然的展開を可能とする<関係>概念、あたかも価値が以て自らの本質を開花・顕現するかの如く構成される<関係>概念すなわち、

 普遍―特殊―
個別という媒介=止揚<関係>を論理必然的に生み出す概念
 として定立されるわけです。
 こういう<関係>概念というのは、個別特殊的な内容を捨象する(切り捨てる)のではなく、論理的に抽象=止揚し個別・特殊的な認識を内に含んでいる(まるで萌芽の如く)からこそ、より普遍的一般的抽象的な概念が、より具体的な個別的特殊的諸概念を導出するが如く上向的に展開し、壮大な<体系>を構成することが可能となっています。

(注)マルクスの「社会」の本質規定は、「社会とは、諸個人が労働の対象化において肉体的にも精神的にも相互に創り合う諸関係の総体」となる。
 諸個人の複雑な「網の目(ネットワーク)」を即物的に取り上げるのではなくて、その「網の目(ネットワーク)」そのものを創りあげている<もの>(核心)を、<労働の対象化>においてみている。  労働が対象化され、その<対象化された労働>がまた再び対象化されて…という重層的立体的な媒介<関係>において<社会>の本質を捉えるという発想です。





 社会科学は(あるいは言語学のような人文科学も)、真理を数理的論証や実験的実証で確定しがたい学的領域です。また、「本質は〜〜である」という命題を抽象的一般的に提出しただけでは、学問的になんの意味もありません。
 本質というのは<体系>的に展開されなければならない。すなわち、もっとも基礎的な概念がより高次の概念へと<止揚>されていく<体系>においてしか、学問的に真理を確定し論証できない。「真理は全体である」というヘーゲルの方法的立場というのは、学問的理論的にいうとそういうことです。
この基礎的概念→高次の概念という<媒介=止揚>の過程的構造の全体(体系)を、

<過程的>構造として、よりダイナミックな<過程>としてみれば、
弁証法的な<運動>である。

△海痢祓親亜笋髻過程的<構造>として、よりスタテックな<構造>としてみれば、

弁証法的な<本質=関係>概念になる

 三浦さんが自分の言語本質論を<言語過程説>とするのは、言語の本質を、

a)ダイナミックな<運動過程>として、且つ

b)重層的立体的な<関係=本質>として

弁証法的に捉えているということです。以前、三浦言語学を継承する立場の研究者の方から、

「三浦さんは言語の過程的構造を、対象→認識→表現というように、 で現しているが、宮下眞二さんは、 対象―認識―表現というように、 で現している」
とご指摘戴いたことがあります。これは、言語の過程的構造をよりダイナミックな<運動>過程として<過程的>に捉えるか、よりスタティックな<関係>として捉えるか、その力点の違いが、→と―の相違になって現れているということでしょう。




>三浦さんは機能主義を鋭く批判し、どこまでも実体的な物を忘れないという唯物論を基礎にして理論を展開してきた人ではなかっただろうか。その人が、機能こそが本質であるという、「関係」に本質を見る見方を主張するのは変ではないかとも思われる。

 これは秀さんの誤解です。三浦さんはヘーゲリアンですから、「機能こそが本質である」という考え方をするはずがないし、逆に「機能こそが本質である」という現象主義的発想を真っ向から批判しています。

現象論的な機能主義的発想

           ↓

 複雑多様な現象レベルの機能的諸連関に惑わされることなく、その機能的諸連関の背後にあるスタティックな<実体>を見抜く(第一の否定)

           ↓

 <本質>というものを、スタッティックな<実体>レベルで即物的に固定化する(即物実体論)のではなく、

 本質(普遍)→構造(特殊)→現象(個別)

という重層的立体的な<関係>概念レベルで捉える(第二の否定)

 だからヘーゲリアン三浦さんの立場というのは、

 機能 → 実体 → 関係

 という機能実体の<止揚>において<関係>を定立するものだから、機能主義批判と即物実体論批判として成立しています。




 ヘーゲルは、もともと神学から出発し社会と歴史のフィールドを本領とした人です。ヘーゲル研究家でも、このヘーゲルの学的出自の持つ重大な意味に気づいている人はほとんどいないみたいですが、ヘーゲル弁証法というのは、ヘーゲルが社会と歴史のフィールドで開拓した方法的発想です。
 社会科学的レベルでいえば、弁証<法>という<方法>は、<本質=関係>概念を核心とする<体系構成法>であり、社会と歴史のフィールドで開拓されたがゆえに、社会科学の方法としてもっとも方法的有効性を発揮するものだと思います(もちろんこれは自然科学には有効ではないなんて話ではありません)。
 だから、自然科学的な発想からヘーゲルとヘーゲル弁証法をみると、なかなか理解しがたいところがある。
 イギリス経験論者、欧米の機能主義者がなぜヘーゲルを理解できないかというと、第一に、数理的論証や実験的実証で<真理>を確定できない社会科学の特異性がわからないからです。すなわち、

 社会科学は、数理的論証や実験的実証によってその学的<真理>たることを証明するのではなく、弁証法的な<体系>を構築することによってしか学的<真理>を証明できない

 ということが分からない。たとえばポパー卿というのは優れた科学哲学者であり偉大な保守的知性ですが、彼のヘーゲル・マルクス批判が理論的方法的に見る限りピントはずれなのは、そこに起因する。
第二に、彼らには、ヘーゲルやマルクスの<関係=本質>という方法が、<論理的抽象=止揚>(抽象=捨象とは別のレベルにある)という独創的な発想に支えられていることがどうしても分からない。
「関係」概念を駆使するのは、英米の経験論者もヘーゲリアンも同じなんですが、彼らは、自分たちと同じレベルでヘーゲルやマルクスの<関係>を見るから、ヘーゲルやマルクスがどういう位相において<関係=本質>としているのか理解できない。だからヘーゲルやマルクスを、「まったくわけのわからない事を言っている」「形而上学だ!」と非難するわけです。
 これは英米経験論者のみならず、フランスの構造主義的マルクス主義者も同じです。「止揚とは陰険な概念である」と述べたのはアルチュセールですが(『マルクスのために』)、止揚を「ヘーゲル的カテゴリーの残滓」として排撃しているようではヘーゲルもマルクスも分からない。
 ヘーゲルの弁証法が、社会と歴史のフィールドで開拓され、マルクスが社会科学の方法として『資本論』で継承したもので、数学や形式論理学の論理的抽象とも、また数学や形式論理学と方法的に馴染む自然科学の発想とは異なるし、社会科学のような数理的論証や実験的実証で<真理>を確定しがたい特殊な学的フィールドでこそもっとも真価を発揮する<方法>である。そのことを押さえていないといけない(この点は、稿を改をあらため、「哲学は数学からその方法を借りてくることはできない(ヘーゲル )― 読者の方からの感想に寄せてА 宗廚能劼戮襪海箸砲靴泙后  







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